第359話『悪口は人の痛みをやわらげる』
次に俺たちへと牙をむいてきた脅威は、恵みだったはずの雨だった。
脱水症状は治まった。けれど……。
「はぁ、はぁっ……雨が止まない」
俺は泥まみれで荒い息を吐いていた。
知識としては知っていた。けれど、まさか熱帯雨林の雨がこれほどだなんて!?
神さまが空からバケツでもひっくり返したみたいに、あっという間に地面が沼地や湖に変わってしまった。
シークレットサービスの女性をなんとか移動させようとしたのだが……。
「だ、ダメだ! これ以上は運べない!」
食事を摂っていないないため、力が入らず……いや、どのみち力が足りないか。
木の根元に引き上げるだけで精いっぱいだった。
だんだんと水位が上がってくる。
なるべく彼女が濡れないようにすると、自分が水に浸かったり、雨に濡れることは避けられなかった。
「雨が冷たい、寒い」
たとえ蒸し暑い熱帯雨林であろうと、上空はそのかぎりではない。
山頂が雪で覆われるのと同じ理屈だ。地面から離れるほどに気温は下がる。
こんなところで小学校理科の知識を実体験させられるだなんて。
だんだんと体温が奪われていく。
「せめて、着るものだけでもあれば」
しかし、俺が着ていた上着はシークレットサービスの女性の止血に使ってしまった。
ほぼ日帰りという話だったから、カバンに着替えも入れていなかったし……。
「っ! そうだ、カバン!?」
気づき、慌ててジャブジャブと水の中に足を踏み入れる。
拾い上げたが、もう遅かった。
「や、やらかした」
完全に水没してしまっていた。
もとから大したものが入っていたわけではないが、ほとんどがドロドロで使いものにならなくなっていた。
しかもカバンを取りにいったせいで、俺はビショビショになってしまった。
後悔とともにもとの場所へ戻る。
「いったい、いつまでこの雨は続くんだ。スコールなんだからすぐに止むはず、だよな?」
そういえば、と気づく。
熱帯雨林なのにここ数日は雨がまったく降っていなかったな、と。
「なんだかイヤな予感がする」
だんだんと日が暮れていく。
何度目かの恐ろしい夜がやってきていた……。
* * *
ザーッ! という雨音を何時間も聞かされていると気が変になりそうだった。
雨はいまだに降り続けていた。
「さ、寒いっ……!」
それに夜になったことで、ますます気温が下がっていた。
自分の身体を抱きしめても、ちっともマシになりやしない。
ずっと震えが収まらなかった。
きっと今、俺の唇は真っ青になっているだろう。
「……おーぐ」
いつも一緒に寝ていた、あんぐおーぐの体温が恋しかった。
それに……。
「もう疲れた」
雨は体温だけでなく、体力までもを奪っていた。
なるべく濡れないようにすると、満足に休むことが難しい体勢を強いられた。
「もうイヤだ」
水分を摂取してのどが潤ったというのに、口からこぼれるのは弱音の言葉ばかり。
雨は結局、一晩中降り続けた……。
* * *
翌朝になって、ようやく雨が止んでいた。
本当にヒドい一夜だった。
これまで毎日やってきていた野生動物ですら、昨晩は現れなかったほどだ。
そして当然、それほどの雨と寒さに俺のやわな身体が耐えられるはずもなかった。
「うっ、おえぇえええ!」
ビシャビシャと俺は胃の中身を吐き出した。
といっても食べものなんて入っておらず、口から出るのは水ばかりだったが。
「はぁ、はぁ……寒い、お腹が痛い」
雨はあがったはずなのに身体の震えが収まらない。
あきらかに体調を崩していた。
体温が下がりすぎたせいか、それとも大量に雨水を飲んだせいか。
原因はわからないが、いずれにせよ身体を温かくするべきだと思った。しかし……。
「湿ってる……これも! こっちも!」
頭ではわかっていても、現実はどうにもならなかった。
火を
いや、たとえ見つかったとしても、俺の体力と筋力では火おこしが成功したとは思えない。
希望だけ与えられて、余計な体力を消耗するだけになっていたかも。
「うぅっ。痛い、しんどい、気持ち悪い。……クソ」《クソ》【クソ】
俺はさまざまな言語で暴言を吐いた。
そうすると苦痛がすこし紛れるような気がした。
いや、たしか気のせいじゃなく……実際、マシになるんだっけ?
そういう研究がイグノーベル賞を取っていた気がする。
――悪口には特別な力があるのだ。
アルツハイマーや失語症の人も、悪口だと途端にスラスラ言葉が出てくることがあるほど。
言語中枢だけでなく、偏桃体など……感情と強く結びついているから、とかなんとか。
それほどの強い言葉。強い力。
だからこそ安易に他者に向けてはいけない。だが……。
<あほ>≪あんぽんたん≫〖おたんこなす〗
こういう使いかたなら、べつにいいよな。
銃と同じ、結局は使いかた。
だが、それは根本的な解決にはならず……。
* * *
体調不良はいつまで経っても改善しなかった。
その原因はふたつ。ひとつは暖を取れていないこと、そしてもうひとつは……。
「……お腹、空いた」
空腹だった。
そもそも身体に不調を癒すだけのエネルギーが残っていないような、そんな気がした。
脱水症状が治ったおかげで、逆に空腹が際立ってしまっている。
だんだんと食べもののことしか考えられなくなっていく。
「おーぐと食べた牛丼、カリカリ梅、ハンバーガー、ステーキ。コラボカフェで食べたオムライスやパフェ。そして……お母さんの作ったお味噌汁」
だんだんと意識がもうろうとしてくる。
頭の中で、推しの飲酒配信や料理配信の記憶が巡っていた。
雨、気温、怪我、体調不良、脱水症に空腹。
次々とやってくる自然の脅威。
彼らは俺たちに手心なんて加えてくれない。平等に残酷だった。
と、そのとき。
「――っ!」
ザワリ、とイヤな予感がした。
俺は「ハッ」と身体を起こして、振り返る。
油断していたわけじゃない。
けど、まさか!?
「なんで!? まだ夜になってないのに!?」
野生動物がジッとこちらを見つめるように、そこに立っていた――。
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