第269話『1万分の1音』


 ――言葉の”0文字目”を聞け。


 わかりやすい例を挙げるなら、百人一首だろうか。

 あれには”決まり字”という概念がある。


 中でも1枚札……1文字目で札を特定できるのは、全部で7枚。

 いわゆる「むすめふさほせ」だ。


《《クソがァ! いつまでもオレの言葉をマネしてんじゃねェえええ!》》


 それが最速、と思われているがじつはそうではない。

 百人一首にはそれよりも早い、0文字目が存在している。


 それは紡いだ言葉が”文字”になる前に発せられる――息の”音”。

 すなわち”子音”だ。


《《黙れェえええ! このっ、いい加減に……!》》


 とくに有名なのはS音だろう。

 1枚札の「す」「さ」「せ」。


 一見は判断できなさそうなものだが、実際にはそれぞれに”差異”がある。

 とくに「せ」は特徴的で、実際に聞き分けられる競技かるた選手も少なくない。


《《なんなんだよ、オマエ! 意味わからねェよ!?》》


 そして、今の俺にはS音だけではなく、すべての音を聞き分けることさえできそうだった。

 言語に対するセンサーの感度が、異常なほどまで高まっている。


 それこそ、風の音さえ聞き分けられそうなほどに。

 そうでなければ、いくら言語チートがあってもここまで高精度のトレースはできなかっただろう。


《《クソがァ! このっ、うるせェんだよォおおおお!》》


 いつか語った、赤んぼうにはLとRが聞き分けられるという話を覚えているだろうか?

 そこから不要な”判別”を減らし、脳の処理を軽くしていく。


 今、俺がやっていることはある種、そんな赤んぼうが母語の習得時にやることの真逆だ。

 アルファベットの26音……それを100音や1000音、10000音に細分化し直す。


《《あァああああああ! だからっ……》》


 当然、それには相応の労力がかかるわけで。

 俺はもう不良の言葉に一切答えなかった。


 意識を集中して、言葉を判別し続ける。

 自分の耳と――そして”目”で。


《《このっ……》》


 言葉を発する前の口の形。

 人が言葉を発する際には、必ず予備動作がある。


 たとえば「あ」と発音したいとき、声を出す前の時点ですでに口は開かれ、舌の位置も決まっている。

 さらに、会話で使われる語句というのはかぎられており……文頭に来るものとなれば、なおさら。



 ――俺たちが言葉を紡ごうとした時点で、すでに言葉は放たれている。



 もちろん、こんなことができるのはすでに俺が読唇を会得していたからで……。

 いや、そもそもすべては言語チート能力ありきの”スーパー”テクニックなのだが。


《《あ……》》


 いつしか、最初は語気を荒らげていた不良の声は弱々しくなっていき……。

 1文字目を言葉を被せられた段階で、彼はついにその続きを言うのをやめてしまった。


 シテンノーを振りほどこうとする気力もなくなったのか、暴れるのもやめていた。

 彼は恐怖と混乱がないまぜになったような表情を俺へと向けている。


《……悪、魔》


 ポツリと呟かれた不良の言葉。

 俺は彼に言葉を重ねるのをやめた。


 もう必要ないと思った。

 普通に返事をする。


《悪魔? それははじめて言われたね。天使とはよく言われるけど》


《ひっ……天、使》


 えっいや、なにその怯えるみたいなリアクション。まさか信じてはないよね?

 冗談で言ったのに、そんな本気の目で見られると……ちょっと、恥ずかしいんだが。


 不良はフラフラとその場に崩れ落ちた。

 シテンノーは彼の拘束をやめ、「ほっ」と息を吐いた。


「……終わったな」


「えっと、大丈夫?」


「正直、限界。痛みは……アドレナリンが切れたあとが怖いな」


「あはは、なにそれ」


「……けど、本当にイロハが無事でよかった」


「シテンノーくんもね」


「いやだから……、はぁ。まぁいいか」


 シテンノーは笑みを浮かべ、俺もつられて笑った。

 本当に……笑ってしまうくらい、彼はボロボロだった。


「ところで、イロハ。さっきのって……」


「まさか」


 俺はシテンノーに日本語でそう尋ねられ、肩を竦めた。

 正直、ここまでうまくいくとは思わなかった。


 たしかにアメリカでは宗教が盛んだ。

 しかし、信仰心が篤いことと、こんな”トンデモ”を信じることはまったくべつの話だし。


「だろうな、ボクも本当に心を読めるだなんて信じてない。そんなもんがわかるなら、ボクの気持ちだって……」


「なんて?」


「……はぁ、なんでもない」


 アメリカだとサイコメトリーによる捜査が普通に行われている。

 だから超能力は比較的、信じてもらいやすい……。


 ――なんてことも、まったくないし。


 日本にはときどき、勘違いしている人がいるが……合理的に考えてほしい。

 アメリカだろうがエセ科学にわざわざ人員を割くはずがない。


 超能力捜査官、なんてのは日本のテレビ番組内にしか存在しない空想。

 だから、俺も「時間が稼げればいい」くらいの気持ちでやっていた。


「お前がやったのは、おそらく……。どちらにしてもお前がバケモノ染みてるってことは変わらないけどな」


 シテンノーは複雑そうな表情をしていた。

 もしかして、彼には今の”読心”のタネがわかったのだろうか?


 ……本当にすさまじいな。チートを使っているわけでもないのに。

 これだから天才ってやつは。


「えーっと。とりあえず、あとは警備員でも呼んで……」


 最後までシークレットサービスは来なかったな。

 そんなことを思いながら視線を他所へと向けた、そのときだった。


「――きゃっ!?」


 顔面をなにかが襲った。

 痛みで顔を手で覆う。


 口に入った砂利の味で、砂を投げつけられたのだと気づいた。

 目にもいくらか入ってしまい、涙がにじんで周囲を見渡せない。


《今だオマエらァ! 全員で、コイツらをヤれェえええ! オレらに歯向かって、タダで済ますなァあああ!》


 不良の声が響く。

 どうやら彼がしゃがみこんでいたのは、このためだったらしい。


「なっ!? お前、どこまでっ……この卑怯者!」


 不良に失うものはなく。

 ゆえに手段すらも選ばなかった。


 周囲に足音が近づいてくるのがわかる。

 もう打つ手がない。このままじゃ……。



《――イロハちゃん、助けに来たよ!》



 あぁもう、来るのが遅い!

 俺はようやく聞こえた助っ人の声に、そう叫びたくなった――。

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