第238話『ASMR(自律感覚絶頂反応)』
日本に戻ってすぐ、俺はイリェーナと待ち合わせをした。
まぁ正しくは、待ち合わせの日程に合わせて日本に帰った、なのだけれど。
意外にも集合場所は、俺の家からほど近い場所だった。
イリェーナはひどく緊張している様子だったが、それはお互いさまだ。
<こ、こちらこそはじめまして! ほほほ、翻訳少女イロハです!>
俺は震える声でそうあいさつを返す。
うぅっ、また推しに直接会ってしまった。
とはいえ、会ってしまった以上は仕方ない。
とりあえずここは……。
<イリェーナちゃん、わたしあなたの大ファンです! いつも配信見てます! とくに好きなのはやっぱり、ウクライナ語講座で……あと最近だと、外国人あるあるがおもしろくって!>
<はうわうわうっ!? いいい、イロハサマがワタシの手を握っ!? 手っ、やわらっ……ちっちゃっ、もう一生洗えないぃいいい!?>
<イリェーナちゃん!?>
握手をしたら、すごい反応をされてしまった。
って、うわっ!? そっか!? どうやら俺も無意識に、アメリカにかぶれていたらしい。
向こうじゃ、初対面の相手とは握手するのが普通だったから、つい。
逆にイリェーナのほうは、日本にかぶれて人と触れる機会が減っていたのだろう。
<ご、ごめんなさい。わたし、その、イリェーナちゃんに会えて興奮しちゃって>
<い、いえ! 大丈夫でひゅっ! それよりも……>
ふと、ジッと黒いレンズの奥から覗かれていることに気づく。
俺が今、こうして多少はマシにやりとりできているのも、イリェーナがサングラスとマスクで顔を隠してくれているから。なのだが……。
<あ、あの、イリェーナちゃん?>
<イロハサマは気づいてくれたり……しませんよね、そうですよね~。はぁ~>
<え?>
イリェーナが安堵とも、落胆ともつかない息を吐いていた。
その動作に合わせて、帽子からこぼれた銀の髪がさらりと彼女の頬を撫ぜる。
<……!>
そのきれいな髪に俺はどこか見覚えが……うん、まったくないな!
イリェーナとは初対面だし、当然だな!
<それより、あんまり立ち話もなんですし。そろそろワタシの家にご案内いたしますね>
そう、イリェーナに先導されてたどり着いたのは……。
* * *
<へ~! 木造の一軒家なんだ~!>
<はい。元は、ウクライナから避難してきたワタシたちを受け入れてくれた、親戚の家で……>
<おじゃましまーす>
と家の中へと足を踏み入れる。
外観とは一転、中はリフォームが入っているらしく非常にきれいなものだった。
なんでもVTuber活動で稼げたお金で、その親戚へのお礼をしたのだと。
すでにお年を召しているらしく、バリアフリー化して……。
<それでワタシたちはべつに家を借りようと思ったんですけれど、「もう家族なんだから遠慮するんじゃないよ」って言われて。それでずっと住み続けていて>
<そうだったんだ。とってもやさしい人なんだね>
<はいっ!>
<にしても、まさかこんなに家が近かっただなんて>
イリェーナの家は、それこそ徒歩で行けてしまう距離にあった。
というより同じ校区で……。
<あははー。こんなに家が近かったなら、もしかしたらどこかでニアミスでもしてたかもねー>
<!?!?!? そ、そうですね!?>
<……?>
<そ、それよりも、着きました! ここがワタシの部屋です!>
防音室ならではの重量感があるドアを開き、現れたのは……意外にもシンプルな部屋だった。
配信者特有で、PCまわりだけはとんでもない豪華仕様だが。
<……あ!>
<ひゃうっ!? どどど、どうかされましたか!? べつにワタシ、ナニも隠していませんが!?>
<え? いや、これがダミーヘッドマイクかー、と思って>
<な、なんだぁ~。そのことですかぁ~>
振り返ると、なぜかイリェーナが通せんぼするみたいにクローゼットの前に立ちふさがっていた。
やましいものを隠している、と言っているようなものだった。
<ねぇ、イリェーナちゃん。その中って>
<よ、よーしイロハサマ! マイクチェックしておきましょう! あとは配信中の映像なんですが、書き下ろしてもらったこのイラストを表示する予定で!>
あからさまに誤魔化されつつも、まぁ俺もわざわざ人の隠しているものを暴く趣味はない。
あんぐおーぐみたいなのは例外だけどな!
<けど、はぁ~。ASMRかぁ。ねぇ、わたし本当にやらなきゃ……ダメ?>
<ダメです! 約束、しましたよね~?>
どうやら逃れられないらしい。
準備をしているうちに、あっという間に時間は過ぎ……そして、そのときは訪れた。
* * *
「”わたしの言葉よあなたに届け~”。翻訳少女イロハで~す」
「”ドーブロホ・ランコ~”。みなサン、こんニチハ……イリェーナ、デス」
>>イロハロ~!
>>どーぶろほ・らんこ!
>>うわぁあああ、イロハちゃんのASMR配信だぁあああ!?
俺はいつもとは異なり、ささやくような声であいさつをした。
さすがにこの状況で地声を出す勇気はなかった。
高価なマイクはそれだけ繊細だ。
事前にイリェーナから注意点は聞いていたし、壊したくはない。
「はぁ~~~~。まさかこんなことになるだなんて」
>>!?!?!?
>>イロハちゃんの吐息ヤバい、ビクってなった
>>い、イロハ……オマエ、なんてえっちな声を出すんだ!?(米)
忘れてた!? これもうASMRなんだった!?
って、普通にため息を吐いただけなんだが!?
あとオイ。今、スパナ見えたぞ。
この配信だけは、知り合いに見られたくなかったのに!?
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