第166話『チェックプリーズ』


 ソースを取ろうとしたら、あんぐおーぐに怒られてしまった。

 いったいどこが悪かったんだろう? 正解は……。


《まったく、忘れたのかイロハ? ”人の前に腕を伸ばす”のはマナー違反だ!》


《あぁっ!? ごめん、そうだった! ついクセで》


《まったく。ほら、取ってやるから、次からはちゃんとワタシに言えよ》


 あんぐおーぐが自身の脇にあったソースを手渡してくれる。

 俺は謝罪しつつ、それを受け取った。


 使わない知識ってすぐ忘れるもんだな。

 前回の滞在時、ある程度のマナーは教えてもらっていたんだが、すっかり頭から抜け落ちていた。


《えーっと。ほかにも肘をつかないだとか、音を立てて食べないとか、鼻水はすすらずにかむ・・とか、皿を持ち上げちゃいけないとかがあるんだっけ?》


《お皿についてはむしろ、『持ち上げて食べるのがマナー』っていう日本の”オチャワン”文化のほうが、特殊だと思うけどな》


 そんな雑談をしながら、味変しつつ食べ進める。

 しかし、途中で完全に手が止まってしまった。


 ハンバーガー自体はめちゃくちゃおいしいのだが、量が多すぎる!

 あんぐおーぐですら、フレンチフライが残った状態でちびちびとドリンクを飲んでいた。


《じゃあ、そろそろ行くか》


《でも、まだ……》


《ムリして食べたってしんどいだけだろ。残せばいいんだよ》


《それじゃあ”モッタイナイ”でしょ》


《あはは、日本人らしいなー。わかってるって》


 あんぐおーぐがちらりとアイコンタクトする。

 すると、わりと遠い位置にいたのに、さっきのおばちゃん店員がすぐにこちらへ来てくれた。


《お会計を頼む。支払いはまとめて。あと”ドギーバッグ”にしたいんだけど》


《ドギーバッグ? あぁ、ドギーバッグね! あいよ。2つでいいかい? ちょっと待っててね》


 そういえば、店員さんを呼ぶときに「すいませーん!」って大声を出すのもマナー違反なんだっけ?

 そんなことを考えているうちに、おばちゃん店員がなにかをテーブルに届けてくれた。


《なるほど、ドギーバッグって”お持ち帰り”って意味か》


《そういうこと。アメリカは出てくる食事って量が多いけど、だからといって日本みたいに「分け合う」とか「複数人で食べる」とかしないからな》


《あっ、おーぐでも多いって感じるんだ。けど、なるほどねー》


《それにムリをしない文化だから。基本的にはどこの店でも、言えば残った分は持ち帰りできるぞ》


《それは、もうちょっと早く言って欲しかったけど》


《すまんすまん。残った分は明日の昼ご飯かな》


 あんぐおーぐはそう言って、自分の食べ残しを慣れた手つきでドギーバッグにする。

 俺もそのマネをしていると、彼女はもうひとつの届けものへと手を伸ばしている。


《そっちのは……あぁ、お勘定か》


《そうそう》


 言いながら、あんぐおーぐは伝票ホルダーにクレジットカードを挟んで、テーブルの脇に置く。

 すぐにおばちゃん店員がそれを回収していった。


《いいの? ごちそうになっちゃって》


《いいんだ。今日くらいはワタシに”おもてなし”させてくれ》


《それじゃあ、遠慮なく》


 言ってるうちにお会計も済んだらしく、おばちゃん店員が伝票ホルダーを返してくれる。

 中にはクレジットカードと、今度は伝票に加えて領収書も挟んであった。


《そういえば、あんたら見ない顔だけど旅行かい?》


《いや、このあたりに最近、引っ越してきたんだよ》


《そうだったのかい! なら、よかったらまた食べに来ておくれよ! そっちのお嬢ちゃんも》


《ありがとうございます。ぜひ》


 俺もそう笑顔で返す。

 最初は勢いに押されたが慣れてみれば、おばちゃん店員はとてもいい人だった。


 アメリカの店員は日本とはちがって、本当にフレンドリーだ。

 それはきっと『客と店員は対等』っていう意識の差も大きいのだろう。


 それはときに、日本人からは「勤務態度が悪い」と見えることもある。

 けれど、アメリカにおいてはこれが普通なのだ。


 対等なんだから、スマホをいじっていいし、おしゃべりしてもいい。

 だって、客も同じことをしているだろう?


《いい店員さんだったね》


《そうだな! あっ、ほら。この伝票見てみろ》


 言われて、あんぐおーぐの手元を覗き込む。

 そこには「ありがとうね!」と手書きで、顔文字つきのメッセージが残されていた。


 俺はいい食事だった、と満足感を覚え……。

 ひとつ、重大なマナー違反をしていたことに気づく。


《あぁっ!? そういえばおーぐ、わたしあの店員さんにチップ渡してない!》


《イロハも”アメリカ”がわかってきたな。けど、これから渡すから大丈夫だぞ》


 あんぐおーぐは「直接渡したいなら、そうしてもいいけどな」と笑った。

 しかし、いったいどうやって渡せばいいんだろう?


 すでにお会計は済んでいるし、なによりカード払いだ。

 これから現金を手渡しすればいいのか? と首をひねっていたら、彼女は領収書になにかを書き込んでいた。


《なにしてるの?》


《あぁ、チップの金額を決めてるんだよ。これでよし、と》


 伝票ホルダーには領収書が2枚入っていた。

 片方は自分たち用、もうひとつはお店用。


 そこにチップの割合を選択するチェック欄があった。

 あんぐおーぐは一番下にある『20%』の場所にチェックして、サインを書き込んでいる。


《えっ、チップの渡しかたってそんな感じなんだ!?》


《自由に金額を書き込んでもいいけどな。現金だと端数が出ないように調節したり。今日はイロハがよろこんでくれてすごくうれしかったし、あとは「これからよろしく」って意味で多めに渡しとこうかなって》


《へぇ~》


《よし、じゃあ帰るか》


 あんぐおーぐが席を立つ。

 そのまま放置して帰ってしまっていいらしい。


 チップ額を確認してもらう必要はないようだ。

 クレジットカードの引き落とし額は、あとからチップ分が加算したものに修正されるそう。


《正直、日本人のわたしからするとチップの相場がわかんないや》


《まぁ、ワタシたちも感覚でやってるからなー。あ、でも。日本にチップ文化がないからって、渡し忘れないようにだけ要注意だぞ!》


《そんなにチップって大切なんだ?》


《冗談抜きに、本当に大事だぞ。日本人の感覚だと”余分に”支払いたくないって思いがちかもしれないけど、アメリカでは給金に直結してるから。仮にチップが0だったとしたら……時給300円もない、なんて職業も》


《えっ!? そこまで!?》


《最低時給がチップ前提で決められてるからな。もちろん、必ずしも必要なわけじゃないが》


 チップをほとんど払わなくてもいいお店もあるらしい。

 たとえばカウンターで注文するだけで、あとはほぼセルフサービスみたいなのとか。


 そして、チップをもらえるかもらえないかでも最低時給は変わるのだと。

 あくまで一例だが、チップのもらえる仕事だと約300円、あまりもらえない仕事だと約800円、みたいな。


《アメリカって物価も高いし、お給料ももっと高いんだと思ってた》


《日本人がしがちな勘違いだな》


 チップを渡さないのは「お前は時給300円で働け」って言っているようなものなのかも。

 俺はよほどのことでもないかぎりは、きちんとチップを渡そう、と心に固く誓った。


《まぁ、ぶっちゃけアメリカ人でもチップ払うのは嫌いなんだけどな! だからチップのいらないファーストフードとかに人が集中するわけで》


《オイっ!? わたしの感動を返せ!》


 言って、ふたりして笑った――。

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