第164話『郷に入っては郷に従え』
《んなぁああああああ!?》
俺は崩れ落ちていた。
そのトラブルが起こったのは、同棲のルールを決めた直後だった。
注文していた家具が届き、次々と業者さんが室内へと運び入れていた。
配置場所などの指示はあんぐおーぐに任せていたのだが……。
《ちょっ、おーぐ!? 普通にみんな土足で入ってるじゃん!?》
《えっ。だ、ダメだったのか!?》
《いやいや、さっき『土足禁止』って決めたばっかりでしょ!?》
《えぇえええ!? あ、アレってワタシたちだけじゃなくて、ほかの人もだったのか!》
《”当たり前”でしょ!?》
《あっ……いや、そうだよな。すまない。ワタシが誤解してた。日本に住んでたのに》
あんぐおーぐはそう謝罪するが、俺は困惑していた。
むしろ、それ以外のどんな解釈があるのか。
しかし、聞いてみれば決して彼女は悪くないとわかった。
俺は勝手に、自分の中で”常識”を決めつけていたことに気づかされた。
《じつはアメリカじゃ土足禁止といっても、来客者には強制しないことが多くって。もちろん地域にもよるけど》
《えっ、そうなの!? いやいや、それじゃ普通に部屋が汚れるじゃん》
《そのあたりの考えかたが、日本とはちがうんだと思う》
《どういうこと?》
《感覚的な話だからワタシも正しいかはわかんないけど……部屋を汚さないための土足禁止じゃないから。客人をきれいな状態で迎えるための土足禁止だから》
《……! なるほど》
大事なのは部屋がきれいなことじゃなくて、客人の気分が良いこと。
そのために、自分たちが汚さないように土足を避ける。
そういう考えでいくと、『土足禁止』というルールを客人に押しつけるのは矛盾になる。
なにかを強制されて気分が良くなる客人はいないだろう。
一方で日本だと家そのものを清潔に保つために、土足を禁止している。
あるいは、他人の家だから汚さないように気をつける。
こうしてみると、同じ『土足禁止』でも思想がまったくの逆だ。
そのあたりはアメリカのホームパーティー文化……自宅で客人をもてなす、という意識が大きいのかも。
《あ~、ごめんおーぐ。悪いの、わたしだ》
《な、なんでイロハが謝るんだ!? 大丈夫だ、待ってろ。すぐに言って、彼らにも靴を脱いでもらうから》
《いや、いいよおーぐ。やっぱりそのままで》
《えっ、でも……》
《”郷に入っては郷に従え”ということなのかも。そもそも玄関や”タタキ”あるわけでもないし》
たんなる文化のちがいだ。
そして、ここはアメリカ。
ならば正しいのは俺ではなく、彼女たちのほうだ。
むしろ俺こそ、自国のルールを他人に押しつけようとしてしまっていたらしい。
これは反省だな。
その国に住むと決めた以上は、その国のルールに従うべきだろう。
《それに……良し悪しだって、まずは体験してみなきゃわからないしねっ》
それは国にかぎらず、学校や会社でも一緒だ。
なにかに所属するとなったら、絶対に発生するもの。
ルールというのは、いろんな事情や伝統で決まっている。
わからないうちから、否定したり、拒絶したり、変えたりしようとするべきではないな。
だからといって悪事を見て見ぬフリしたり……。
あるいは間違っていると気づいても変えようとしなかったら、それはそれで問題だけれど。
《本当にいいのか?》
《むしろ、気づくいい機会だったよ。――”異国の文化は拒絶するより、飛び込んで楽しんだほうがおトク”だって!》
俺は思い出していた。
あんぐおーぐが日本に遊びに来たとき、彼女はどんなものにもまずはチャレンジしていた。
《おーぐが日本の文化を尊重していたように、ね。今度はわたしの番ってだけ。それに荷物を持った状態で靴を脱ぎ履きするのは実際、大変だろうし》
俺は「これがアメリカ流だろ?」と笑ってみせた。
なによりこの生活を通して、よりアメリカ在住のVTuberたちへの理解も深まるだろう。
《まぁ、汚れたら掃除すればいいだけでしょ》
《だな。カーペットシャンプーだって売ってるし》
《へぇ~、そんなのもあるのか》
おそらくは土足文化ならでは、だな。
まだわからない部分も多いが、俺もそのうち慣れていくだろう。
《けど、日本は日本で不思議だよな。だって、ホテルは普通に土足だったぞ?》
《あっ、なるほど。その感覚でいいのか》
むしろ、そう言われて俺がしっくり来た。
その解釈なら、土足で生活ってのもそこまで抵抗感もないな。
《まぁでも、さすがに寝るときは靴を脱いじゃいそうだけど》
《ん? アメリカでも寝るときはだいたい、みんな靴を脱ぐと思うぞ?》
《えっ、でも映画とかで……》
《いつの時代の話をしてるんだ? まぁ、そういう人もいないとは言わないけど。というか、ぶっちゃけアメリカでも土足禁止の家って全然あるんだけどな》
《えっ》
《アメリカにはいろんな国の人がいるから。当然、土足ではない国の人も。だから言えば、普通に業者さんも脱いでくれると思うけどな》
《えっ、えっ!? あのー、業者さん! すいませんけど、やっぱり靴脱いでもらっていいですかー!?》
《さすがに、もう遅いと思うぞー》
どうやらまだまだ、俺はアメリカの文化を知らないらしい。
言語だけでは知り得ないことがいっぱいあるのだと、思い知らされるばかりだ――。
* * *
太陽が頭上にまできたころ。
あんぐおーぐが「あっ」と声をあげた。
《そろそろお昼休憩だから、コーヒーとドーナツを出さないと》
《そういえば空港でなんか買ってたっけ? このときのためだったのか》
俺もあんぐおーぐと一緒に、業者さんに配って回る。
彼女曰く、これもチップみたいなものらしい。もちろんチップ自体もべつに渡すが。
日本でも客人にお茶を出すことはあるが、必須なマナーというわけでない。
とくに業者が相手では、出さないことのほうが多いだろう。
このあたりも文化のちがいだな。
まぁ、そもそもチップ自体がマナーの一種みたいなものらしいが。
そんなことを思いながら、俺もおやつに手を伸ばした。
パクリとひと口食べて……。
《~~~~!? 甘ぁっ!?》
《あははは、アメリカのスイーツはすっごく甘いでしょ。あ~、懐かしいこの味》
俺は急いで、コーヒーをガブ飲みした。
いや~、ビックリした。アメリカの洗礼を受けたって感じだった。
そんな風にあんぐおーぐと雑談していると、業者さんが陽気に声をかけてくる。
なぜか猫なで声だった。
《やぁ、お嬢さんたち。ふたりで引っ越しの準備なんて大変だね。パパとママはどこにいるんだい?》
《……あ~》
《人を外見で判断するのはマナー違反だぞ。ワタシはこれでもれっきとした大人のレディーだ!》
《ハッハッハ。これは一本取られた。たしかに大人のレディーに対して失礼だったね。ではレディーにお尋ねするんだが、お父さまとお母さまはどちらかな?》
《そういう意味じゃないが!?》
あんぐおーぐが、完全に大人ぶっている子どもだと思われていた。
俺は笑いながら間に割って入った。
《あはは、見た目ほど子どもでありませんよ。わたしたちが依頼した当人です。なので、ばっちり見ていますからサボっちゃダメですよ?》
冗談めかして言う。
業者さんはなぜか俺を見て、ポカンと口を開けていた。
《……驚いた。なんてきれいな英語なんだ。キミが保護者だったのかい。もしかして日本人かな? 若く見えるとは聞いたことがあるけれど、まさかここまでとは》
《え? あ、いえそうではなくて》
《お嬢ちゃんも、いいお姉さんをもったな。品格というものはこうして、外見ではなく内面から溢れるものなのさ》
《ど、どういう意味だ~っ!? 本当にワタシのほうが年上なのにぃ~!?》
あんぐおーぐがブチ切れて百面相していた。
業者さんはまさしく子どもをなだめるかのように、笑って流していた。
* * *
そうこうしているうちに、業者さんの作業も終わる。
日本からの荷物も到着して、部屋が段ボールだらけになっていた。
《ここからが長いんだよな~》
《だな。だからその前に……ご飯にしよう!》
俺は「賛成」と深く頷いた。
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