第95話『セカンド・キス』

 数日後、俺たちは空港のロビーに立っていた。

 周囲には俺たちと同じように、帰国しようとする外国人で溢れていた。


《えーっと、おーぐ?》


《イヤだぞ》


《まだなにも言ってないけど。ただちょっと歩きにくいなーって。だから一旦、腕を離してもらえると》


《だからイヤだって言った》


《さ、さいですか》


 今日までずっとこんな調子だった。

 立ち上がってどこかへ行こうとしても、ずっと付いてくるのだ。


 果てはトイレにまでついて来ようとしたので、さすがにそれは怒ったが。

 まるで、目を離したら俺が消えるとでも思っているかのようだった。


「お待たせしました。無事に手続き終わりましたよー」


「ありがとね~、マネちゃん! けど、本当によかったよ~! 元気になって!」


「すいません、アネゴさん。みなさんも。ご迷惑をおかけしまして」


 マネージャーさんも日本に帰れるとわかってから、ずいぶんと元気になった。

 そしてなにより、あー姉ぇの献身的な看病が効いた。


「ははは、にしてもおふたりとも本当に仲がいいんですね。お付き合いされてるってウワサ、所内で聞いてましたけど……本当だったとは」


「付き合ってないから!? って、え!? 事務所でウワサになってるの!? 《ちょっとおーぐ、離れろ! ますます誤解されるだろ!》」


《ぎゅぅ~~っ!》


《うがぁー!? なんで余計に引っ付く!?》


《……なぁ、イロハ》


《なんだよ》


 あんぐおーぐが至近距離からこちらを見てくる。

 真剣なまなざしだった。


《やっぱりこのままアメリカにいろよ》


 意を決したように彼女はそう言った。

 あんぐおーぐに向けられた真剣な視線に、俺はすこしだけ考え……。


《うん、ムリだな!》


《ちょっとは葛藤しろよ!? ひどいぞっ、イロハの冷血漢!》


《いやいや、だってビザないし。学校あるし》


《ビザがなくたって3ヶ月は居られるだろ! それにこんな状況だし、言ったら滞在を延長してもらえるだろ》


《そういう人のための一時的な運航再開だろ? それにいつまでも、母親をひとりにしてられないし》


《それは……》


 まるで縋るみたいに俺の腕を握りしめていた、あんぐおーぐの手がわずかに緩む。

 俺は肩を竦めて言った。


《おーぐのお母さんだって一緒でしょ。心配だからこそおーぐを実家に連れ戻した》


《ウチのママはそんなんじゃないよ。自分の選挙に影響が出たらイヤだから、ワタシを閉じ込めようとしてるだけ。ワタシの言葉も聞かずに一方的に叱るばっかりで》


 たしかにあの人は、あんぐおーぐが委縮するほどに厳しい人だった。

 けれど……。


《おーぐだってもうわかってるでしょ?》


《イロハは、ママの味方するんだ》


 あんぐおーぐはプイっと視線を逸らした。

 あーもう、拗ねちゃった。


《決まってるでしょ? わたしはいつだっておーぐの味方だよ。だからこそ、もう一度きちんとお母さんと向き合って欲しいな。きっと大丈夫だよ。言葉が通じるんだから》


《……わかってるし》


 あんぐおーぐはコテンと頭を預けてきた。

 俺がリアクションに困っていると、彼女は俺の手を引っ張って自分の頭の上に乗せた。


 撫でろと仰せらしい。まだまだ子どもだな。

 苦笑したとき、空港内にアナウンスが流れた。


「時間ですね。アネゴさん、イロハさん、そろそろ」


《おーぐ》


《……うん》


 あんぐおーぐの手を包み込むように、やさしく腕から外させる。

 するりと彼女の手が落ちた。指先にじんわりと残っていた彼女の熱が消えていく。


《じゃあ、行くよ》


 背を向け、トランクケースを引っ張ってゲートへと歩きだす。

 キュリキュリというキャスターが回る。


 一歩、また一歩と俺たちは遠ざかっていく。

 ざわざわという雑踏の音がやけにうるさく感じた。


 なにかまだ、やり残したことがある気がする。

 けれど、それがなにか俺にはわからない。


《――イロハ!》


 俺はハッとして振り向いた。

 その光景はあんぐおーぐが日本に来たときのことと重なって見えた。


《おーぐ!》


 雑踏に紛れ、届かないはずの声。

 だが俺の耳にははっきりと聞こえた。そして伝わったとも思った。


 俺はトランクケースを放り出し、走っていた。

 そして、体当たりするくらいの勢いであんぐおーぐを抱きしめた。


《イロハ、あのときとは逆だな》


《おーぐ、今回はキスしてくんなよ?》


《するか! そもそも、あれはイロハがっ! ……ハハッ》


 俺たちは顔を見合わせる。

 あんぐおーぐが堪えきれなくなったみたいに笑い、俺もつられて吹き出した。


 そこへ「どーん!」とさらなる衝撃が襲ってくる。


《《んぐぅ~~~~!?》》


「あたしも混ぜろよ~! このこの~! ……あっ」


 俺とあんぐおーぐはまとめて、あー姉ぇに抱きしめられていた。

 あー姉ぇが「やっちまった」と声を漏らした。


 俺とあんぐおーぐはゆっくりと顔を離した。 

 やわらかい、2度目の感触だった。


 あー姉ぇが気まずそうに、そぉ~っと離れようとする。

 が、ガシィッ! とその肩を掴んで逃がさない。にっこりと笑顔で迫る。


「あー姉ぇ」


「あ~いや、そのぉ~。ごめ~んちゃいっ☆」


 あー姉ぇは両手を合わせて、ぶりっ子した。

 俺は「はぁ~」と大きく嘆息した。


「まぁ、はじめてでもないし? どうせ1回も2回も変わらないし? 許してあげる――なんて言うわけねぇだろぉおおお! テメェ、今日こそはマジでタダじゃおかねぇ!」


「ひぃいいい! イロハちゃんがマジギレしてるぅううう!?」


「待てこらっ! 《おーぐ! 黙ってないで、お前からもなにか言って……おーぐ?》


《……ぽっ》


 あんぐおーぐは顔を真っ赤にして、視線を逸らした。

 身体をもじもじさせ、まるでたしかめるみたいに唇に指先を当てていた。


《え? あのー、おーぐさん?》


《その……イロハはイヤ、だったか?》


《いや、まぁ。べつにイヤってほどでもない、けど》


 しいていうならニュートラル?

 あー姉ぇの不注意はここいらでとっちめねば、と思う。

 だが、キスそのものはぶっちゃけ「今さら」と思っていた、のだが。


《そ、そっか。イヤじゃない、のか》


《う、うん》


 あんぐおーぐがうれしそうにはにかむ。

 おい、なんだこの空気!? つられて俺まで変なリアクションになっちゃっただろ!?


「これはもしかして、あたしファインプレーなのでは?」


「んなわけあるかぁあああ!」


 そんなこんなで俺たちの別れは、結局たいして湿っぽくもならないままに終わったのだった――。

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