第86話『終わりのはじまり』
「ご、ごめーんねっ」
「まったくだよ……ぶぇーっくしょん!」
ここは控室。
俺はビショビショに濡れたパンツをカゴに放り込むと、代わりにタオルを手に取って身体を拭った。
こうなった原因はあー姉ぇだ。
それが起こったのはリハーサル中のこと。
俺は水分補給をしようとスポーツドリンクを傾けていた。
そこへあー姉ぇが背後から「イーローハーちゃ~んっ!」と抱き着いてきたのだ。
当然、もののみごとに見事に中身をぶちまけて……。
「あ~もう、こんなとこまでベトベト」
「アネゴ、オマエはもっと反省しロ」
「そう言うと思って、お詫びに着替えを持ってきました!」
「え? いや、着替えなら自分のが」
「そう言わずに! ……ジャン!」
「え゛!? なにこれ」
「えへへ~、かわいいでしょ? スタッフさんの私物だって! ついでにおーぐとあたしの分も!」
あー姉ぇが後ろ手に隠して持ってきたのは、それぞれのVTuber時における衣装だった。
真っ白なアカデミックガウン、ツギハギされた服と包帯、ギャル系アイドル衣装。
「いやいや、待って! それ実際に着るにはデザインがあまりにも幼女趣味すぎるから! ゆーてわたしももう中学生だから! そんなロリっぽいのキツいよ!?」
「こんなの着て出歩けるわけないだロ!? 露出があまりにも多すぎル!」
「えー、あたしはかわいいと思うけどなー?」
「それはあー姉だけ衣装がまっとうだからでしょうが!?」「それはアネゴだけ衣装がまっとうだからだろうガ!?」
「それはそれ、これはこれ。ふっふっふ……逃がさないよ、ふたりとも」
「「ひィいいいぃいいい!?」」
* * *
それから数十分後。
「つ、疲れた」
《マジでアネゴのやつ、許さねぇからな》
俺たちはフラフラと先ほど着せられた衣装のまま、廊下を歩いていた。
というか逃げ出してきた、といったほうが正確だが。
次のリハーサルまでまだ時間があるから、と散々に写真撮影されてしまった。
あー姉ぇめ。本番までそう時間がないというのに、ずいぶんと余裕なこった。
けれど、おかげでずいぶんと気が楽になった気がする。
もしかして、こうして緊張をほぐそうとしてくれたのだろうか?
考えてみれば今日がはじめてのリハーサルというわけでもない。
現地ではたしかに初めてなのだが、日本ですでにひと通りの確認は済んでいる。
それにぶっちゃけてしまうと、基本的にリアルタイムなのはトーク部分だけだ。
だから、リハーサルでやることといえば音量やトラッキングのチェック、あとは立ち位置や進行の確認くらい。
正直、その場でやることより、台本確認など裏でやる作業のほうが圧倒的に多い。
それもこれも事前にいろいろと調整してくれたあー姉ぇのマネージャーさんのおかげ。
……俺もマネージャー欲しいなぁ。
今まで周囲に手伝ってもらいながら自分でやっていたが、そろそろ限界な気がする。
《けど、アネゴのやつもなんだかんだ緊張してんだろうな》
《あのあー姉ぇが!?》
《気づかなかったのか? さっきのはむしろ、アネゴが自分の緊張をほぐしたくてやってたんだろ。むしろワタシにはイロハのほうが余裕そうに見えるぞ》
《いやいやいや、わたしもめちゃくちゃ緊張してるに決まってるじゃん! だって――大勢の推しとのトークが待っているんだよ!?》
《やっぱ余裕だろオマエ!?》
いやぁ、楽しみすぎて緊張するなぁ~っ!
なぜか、あんぐおーぐに呆れたような視線を向けられた。
《やっぱりイロハは大物だよ。今回、大勢の人が来るだけじゃない。いろんな国の人が来る。いくらあー姉ぇだって緊張ぐらいするさ。なんたって……》
――”はじめての”大規模な国際イベントなんだから》
《……え?》
その言葉に強烈な違和感を覚えた。
はじめて? いや、それはありえない。だって……あれ? なんで俺、忘れていたんだ?
俺が前世で死んだのも『”はじめての”大規模な国際VTuberイベント』だったはずだ。
けど、そうなると……いったい
今までずっと、俺は前世の自分が死んだ
だが、もしかして……。
《イロハ、どうかしたの?》
《ちょっと出てくる》
《え!? 出てくるって、いったいどこに!?》
《すぐそこ! 次のリハーサルまでには戻る!》
ありえない。ありえないありえないありえない。
そう思うのに、まるで魂が呼ばれているかのように自然と足が動いていた。
俺は裏口から会場を飛び出した。
まだ開場まで時間があるため、周囲のファンに見咎められることもない。
見られたとしてもまさか本人とは思うまい。というより、気にする余裕なんてなかった。
それよりも……。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
あぁ、俺はこの場所を”知っている”。
この光景を一度”見たことがある”。
”あのときの”俺は会場へ向かう途中で迷子になった。
ここからそう遠い場所ではない。
だんだんと人の気配がなくなっていく。
辿り着いたのはひとつの廃倉庫だった。
扉に手をかける。指先がひどく冷たかった。
それでも一息に扉を引いた。ガラガラと音を立てて扉が動いた。
ゆっくりと俺はソレに歩み寄る。
歩くたび床に散らばっていたガラスの破片がパキリと音を立てた。
穴の空いた天井から差し込んだ光がエンジェルラダーのごとく、ソレにスポットライトを当てている。
ほかに人影はない。
俺はソレの目の前で膝をついた。
確かめるように、その頭部を覗き込む。
「間違いない。これは……」
――俺だ。
頭部が真っ赤に染まった前世の俺が、そこにいた。
まぶたが開きっぱなしの眼球と”目が合った”。
「こ、この光景だ。俺はこの光景を間違いなく見ている!」
前世の最後で、俺は天使を見た。
今の俺が纏っている真っ白なアカデミックガウンは、まるで広げられた天使の羽根のようで……。
「あ……あ、あぁああああああ!?」
そうだ。
俺は……。
「――全部、思い出した」
そのとき”鐘”の音が鳴り響いた。
それはスマートフォンが奏でる”
転生する瞬間、俺はこの音を聞いていた。
てっきり、起床のアラーム音だと思い込んでいたが……。
俺はスマートフォンのロック画面に表示された文言を読んだ。
そこにはこう書かれていた。
「――”ウクライナに核が落ちた”」
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