第72話『猫にも方言』
猫が我が家にやってきて、はや10日。
俺はますます猫の言葉がわかるようになっていた。
『吾輩は猫である。名前はまだ無い』
なーんてことを言い出さなかったのは不幸中の幸いだ。
しかし……。
「ん~まっ、ちゅっちゅっちゅっ。今日も猫ちゃんはかわいいでちゅねぇ~」
”ええい、うっとうしい! アタイに触れんじゃにゃいよ!”
き、気まずっ!?
あれだけ世話をして、エサもあげているはずの母親の好感度がめちゃくちゃ低かった。低いのが、わかってしまう。
”おい、イロハ。にゃにをボーっと見てるにゃ! さっさとアタイを助けるにゃ!”
俺は聞かなかったことにした。
なんだろう、言葉がわかる前のほうがかわいげがあったような気が。
実際、猫を飼っている人も言葉が通じると気まずいことのほうが多いのではなかろうか?
飼い猫は、ご主人さまがあーんなことやこーんなことをしている姿も全部見ているわけで。
”おいこら! ムシするにゃ!”
猫が本当にこんなことを言っているのかは不明だ。
これはあくまで能力が無意識に翻訳した結果だから。
実際これまでも「ブレス・ユー」が《お大事に》ではなく《神のご加護を》と訳されたり、「ハッピーバースデートゥーユ~♪」がネイティブすぎて《誕生日おめでとう~♪》と聞こえたりしていた。
……
予兆はあった。『3Dお披露目&誕生日配信』でのジェスチャーがそうだ。
ハンドサインや手話など、この世には文字ではない言葉も多数存在する。
「ふぅ、ごちそうさま」
俺は朝食の食器を片付け、立ち上がる。
そろそろ中学の登校時間だ。着替えないと。
”イロハ、どこ行くにゃ? アタイも一緒に行くにゃ!”
そう
猫は基本的に鳴き声で会話をしない。
それを行うのは仔猫のときだけで、あとはボディランゲージや匂いが主となる。
「あっ、ちょっと猫ちゃん! あーあ、また逃げられちゃった」
母親が肩を落とした。これだってボディランゲージだ。
たとえうちの母親をはじめて見る人だって、言葉がなくとも落ち込んでいることはわかる。
俺に猫語がわかるというのは、そういう意味にすぎない。
言語のように聞こえてくる、ということを除けばだが。
鳴き声については、俺も精々5パターンほどしかわからない。
これは調べて知ったことなのだが、仔猫の鳴き声はおおまかにそれくらいのパターン数だそうだ。
おそらく猫の鳴き声は大きく2種類に分けられるのだろう。
本能的な要素の強いもの。
後天的な要素の強いもの。
猫の、とくに仔猫の鳴き声そのものはテレビなどでたくさん聞いている。
だから前者はわかる。
しかし後者はべつ。
猫には人間のように体系化された言語は存在しない。
そのため猫ごとに鳴き声の意味がちがいすぎるのだ。
それこそ1匹ごとにバラバラだと言えるほど。
そのくらい”方言”が多い。とくに飼い猫の場合、
その上、あまり鳴かないからデータも集まらない。
俺の能力でも解析は困難だった。
ガチャリ、と自室の扉を開けた。
瞬間、するりと猫に入られてしまう。先回りして着替えの上に陣取られる。
「あっ、こら! ”ちょっとそこ退いて!”」
”遊んでくれたら、退いてやってもいいにゃ”
”はぁ……わかったよ。「おやつ」あげるから”
途端、猫はぴゅーんとリビングのほうへと走っていった。
なんて現金なヤツ。
俺は猫の鳴き声を判別できない。
しかし、猫のほうは人間の言葉をそれなりに理解しているのだ。
ただし単語そのものを記憶しているわけではない。
だれが言ったのか、いつ言ったのか、どういう風に言ったのか。
この3つで
当たり前だが、俺には猫のような耳やしっぽはない。
声帯もちがう。嗅覚も天と地。
ボディランゲージや匂いでの”発話”は十全ではない。
それでも猫が言葉を理解して、コミュニケーションが取れているのはこれが理由だ。
これを『聞こえる』と評するのなら、猫は200語ほどを聞き分けていることになる。
少なくとも「おやつ」は間違いなく理解している。
言ってしまえば、人に育てられた飼い猫にとっては人語こそが母語なのだ。
これは猫にかぎらず人間もそうなる。
オオカミに育てられた子どもの母語が狼語となった。
サルに育てられた子どもの母語が猿語となった。
こういった事例は実在する。
おそらくは動物に元から備わっている能力なのだろう。
逆にいえば、教わらなければ言葉は身につかないというわけなのだが。
「……まぁ、おやつをあげるのは学校から帰ってきたあとだけどね」
俺はボソッとつけ足し「今のうちに」と服を着替えた。
悪く思うなよ。食べすぎは身体に毒だからな。
動物の多くには過去や未来といった概念が存在しない。
現在しかないのだ。
たとえば、目の前にエサがひとつあったとする。そこへ新たにエサをもうひとつ置く。
人間はそれを「最初からあったエサ」と「あとから置かれたエサ」に区別できるが、多くの動物にはそれができない。
朝三暮四はじつに当を得ていたわけだ。
だからエサのやりすぎは厳禁だ。2回に分けて食べる、といったことができないため食べ過ぎてしまう。
「過去と現在と……未来? そういえば――」
『イロハー! 急がないと遅刻するわよー!』
「おっと、そうだった。はーい!」
俺は慌ててカバンを肩にかけて家を出た。
今、なにかに気づきかけた気がしたのだが、すでに泡沫のごとくだった。
* * *
通学路でハッと気づく。
「最悪だ。イヤホン忘れてきた」
けれど、今から取りに戻る時間もない。
やむを得ず、そのまま登校する。
今日はVTuberのトゥイッターを見て過ごすか。
彼女らのてぇてぇな掛け合いは文字上にも存在する。
「……」
VTuberの配信を聞かずに登校するだなんてずいぶんと久しぶりだから、だろうか?
今日は周囲の音がやけに大きく聞こえる。
虫の声、風の音、葉ずれの音。
擬音語が、擬態語が――オノマトペがやけにはっきりと頭に浮かぶ。
「……うるさい」
ズキリ、と脳の奥が痛んだような気がした。
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