第71話『非言語コミュニケーション』
「やめてぇっ!? 爪を立てないでぇえええ!?」
そんな懇願が届いたのか、はたまた大声に驚いただけか。
猫はサイン色紙の上で爪とぎする寸前で動きを止めていた。
じっとこちらを見ている。
俺はもう必死だった。
正直泣きそうだ。吐きそうだ。おえぇっ……。
お願いだから許してくれぇ。頼む、なんでもするからぁあああ!
「そ、そうだ! わかった、要求を聞こうじゃないか。なにが欲しいんだ? 言ってみろ。金か? 地位か? 名声か? すべてくれてやる。それとも遊んで欲しいのか? いや待て、わかったぞ……おやつだろ!」
ピンと立てていた耳を「おやつ」に反応してピクリと動いた。
やはり、おやつか。そうなんだな?
なんでも従う! だから人質を解放してくれ!
配信が終わったら、おやつを買ってくるからぁあああ!
俺はそう全身全霊で猫にアピールした。
お願いだ! それは本当に大切なものなんだ! 伝われぇえええこの想いぃいいい!
……しばしして、猫はスッと足を退けた。
まさか本当に思いが通じたのだろうか? そのまま背を向け、ゆっくりと歩き去っていく。
部屋を出る直前にちらりとだけ振り返った。
『今回はこのくらいで勘弁してやらぁ』と言われた気がした。
「ぷはぁ~っ!? た、助かったぁ~」
安堵のあまりちょっと涙が出た。あ~、顔が熱い。
俺はぎゅっとサイン色紙を抱きしめたあと、さっきよりも高い位置に飾り直した。
部屋の扉を閉め、そこで冷静になった。
いやいや、俺は猫相手になにをやってんだ? ……はぁ、まぁいいやもう。
「ただいまー。……ん?」
席に戻って、配信を再開する。
なぜか異様にコメントの流れが速い。なにごと?
>>おかえりにゃ
>>イロハちゃんの猫ボイス最高でした
>>にゃあ、にゃにゃあ?
>>これは切り抜き確定
「んん!?」
>>イロハは猫語もマスターしていたのかい?(米)
>>にゃーにゃー、にゃあ
>>猫の鳴きマネくっそリアルで草
>>彼女がボクたちの神だったのか(埃)
「んんん!?!?」
待て待て待て。今、俺なにしたんだ!?
コメント欄が「にゃーにゃー」で埋め尽くされている。
俺は慌ててブラウザを開き、MyTubeのチャンネルを表示させた。
ミュートを解除して、シークバーをすこし戻す。
「……」
俺めっちゃ『みゃあみゃあ』言ってるぅううう!?
あっ、ていうかヤバ。これ、熱いの顔じゃなくて頭だ!?
「きょっ、今日の配信はここまで! 言ってないから! わたし、にゃーにゃーなんて言ってないからぁあああ!」
>>おつかれーたーにゃ
>>おつかれーにゃー
>>にゃあにゃあー
* * *
その配信はすさまじい数の切り抜きが作られた。
イラストも、俺にネコミミが生えたもの、俺が猫になったもの、俺が猫と会話しているものなどがたくさん投稿された。
海外では普通の猫の映像に俺の声を当てたコラ動画が作られ、ミーム化した。
さらにはwikiにある『翻訳少女イロハ』の習得言語に『猫語』が追加されていた。
「勘弁してくれぇえええ!」
さすがに、本当に猫と会話しているとは思われなかったものの、被害は甚大だった。
あんぐおーぐからはイジられるし、そしてマイからは……。
「イロハちゃん~、にゃんにゃんっ。マイも飼ってにゃぁ~ん?」
「えぇいっ、うっとうしい! まとわりついてくるな!」
どこで買ってきたのか、ネコミミとしっぽ、首輪をつけたマイが絡んでくる。
俺はベッドに押し倒されていた。
「にゃんでぇ~!? にゃんであの泥棒猫はよくてマイはダメにゃのぉ~!? マイのことも撫でてにゃぁ~、触ってにゃぁ~!」
「なんで猫に対抗心を燃やしてんだ!?」
「ふんっ、いいもんいいもん。イロハちゃんがマイを飼ってくれないなら……マイがイロハ
「あっ、こらバカ! ちょっ、変なとこ触るな!?」
「えぇ~? イロハちゃんはわがままだなぁ~。飼うのもダメ、飼われるのもダメ……あ、そっか!」
「おい待て。今、絶対によからぬことを考え……あっ、んんん!? いきなりなにしてっ……このっ、バカ……やっ、そこ舐めちゃっ……」
「んっ、ちゅっ、ぺろっ……。えへへぇ~、これは猫同士のスキンシップぅ~」
「お前……いい加減にしろぉおおお!」
俺はマイをベッドから蹴り落とし、しばしの出禁を言い渡した。
自業自得だ!
* * *
さて、じつはもうひとつマイたち以外で気になっていることがある。
それは――”なぜ猫語が翻訳できたのか?”
たしかに俺は数日間、猫と一緒に生活してきた。
しかし、鳴き声を聞いた回数なんて、たかが知れている。
猫はそんなに頻繁に鳴く動物ではない。
にもかかわらず、猫とそれなりに意思疎通ができた。
できてしまった。
翻訳されてしまっていた。
それで、気になって調べてみてわかったのだが、猫は基本的に”鳴き声で会話をしない”そうだ。
すなわちこの能力は……。
――”非言語”を解読しはじめている。
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