第59話『本物と偽物』
母親に病院へ連れていかれたものの、とくにやることはなかった。
お医者さんに「またか」と呆れられつつ、点滴だけ打ってもらって帰ってきた。
ようやく部屋でひとりきりになったので、パソコンと向き合う。
画像データを表示させ、スクロールしていく。
最後のほうの、文字だけのページで手が止まった。
今の俺はもう、すんなりとそれを読めるようになっていた。
「ははっ。”気づけば別人になっていた”? ”記憶があいまい”? ”世界が以前と異なっている”? ”覚えているかぎりを
きっと認知障害か、中二病の黒歴史ノートだろう。
そうだ。そうにちがいない。だから……。
「ここは――本当に俺が元いた世界なのか?」
そんな疑問は無意味なはずだ。
無意味なはずの疑問が、頭から離れなくなっていた。
* * *
『イロハちゃん……あの、大丈夫? もしよかったら、ちょっとだけでもマイとお話できないかなぁ~、なんて』
「ごめん、今はだれとも話したくない」
扉越しに響いたマイの声。
俺は布団を頭から被って、それを遮断しようとする。
ヴォイニッチ手稿が読めてしまって以降、俺はずっと寝込んでいた。
いや、この表現は正しくないな。なにせ一睡もできていないのだから。
――この世界が偽物かもしれない。
その恐怖はすさまじいものだった。
ありえない。あっちゃあいけない。だって、もしそうだとしたら……。
「うっ……!?」
ベッドから這いずり出て、ゴミ箱にしがみついた。
「おぇぇ」と嘔吐した。
しかし胃の中身はとっくに吐き尽くしている。
ポタポタとかすかに胃液が垂れるだけだった。
『イロハちゃん!? 大丈夫なの!? お願い、ここを開けて! マイじゃダメなのかな? マイじゃイロハちゃんの力になれないのかなぁ!?』
「ねぇ、マイ」
『っ! なにイロハちゃんっ!?』
「マイは、わたしが本物だと思う?」
『なに言ってるの? 本物に決まってるよぉ~!』
「……そっか。ごめん、やっぱりマイには相談できない」
『っ! ……あ、あはは。そっか、そうだよねぇ~。マイのほうこそ、ごめん、なさ……っ』
足音が去っていく。
入れ違いに、あー姉ぇの声が聞こえてくる。
『マイ、泣いてたよ。正直、イロハちゃんがいったいなににそれだけ怯えて、苦しんでるのか、あたしたちにはわかんない。相談してくれないと力にもなれないよ。ねぇ、どうしても話せないことかな?』
「ごめん」
『そう、わかったよ。けど、ご飯くらいはちゃんと食べなよ。イロハママもすっごく心配してるから。やつれて、見てるこっちがかわいそうになるくらい』
「わかってるけど、食べても吐いちゃうから。そうなると余計にしんどいの」
『そっか。……あたしたちは待ってるから。もしも勇気が出たら、そのときは言って』
「ねぇ、あー姉ぇ」
『ん?』
立ち去ろうとする気配。
そこへとっさに声かけてしまった。
俺は今、自分の心がひどく不安定になっていることを自覚している。
イヤなことを言ってしまいそうだとわかっているのに、つい……。
「あー姉ぇは、本物のあー姉ぇだよね? 赤の他人が化けてたりしないよね? 偽物じゃないよね?」
『……なにを、言ってるの? 本物に決まってるじゃん』
「でもっ! そんなのわからないだろ! どこにそんな、本物だって証拠があるんだよ!?」
『イロハ、ちゃん?』
「……ごめん。わたし、おかしなこと言ってる。やっぱり今はひとりにして」
足音が去っていき、室内はシンと静寂に包まれた。
こんなにも長い無音はいつぶりだろう。
いつだって俺の部屋にはVTuberの声が流れていた。
起きているときはもちろん、寝るときだってASMRをかけていた。
「だれか……」
助けを求めるかのように、スマートフォンに縋りつく。
アプリを起動してVTuberの配信を見ようとする。しかし……。
「うっ……おえぇぇ。なんで、なんでだよぉ……」
視界がぐにゃりと歪んだような錯覚。
直視することさえできなかった。
世界とはこうまで不安定なものだったろうか?
まるっきりすべてが変わってしまったように感じた。
「いや、ちがう……変わったのは、俺だ」
俺が気づいていなかっただけで。
……もう、限界だった。
そのときスマートフォンが震え、音楽を奏ではじめる。
それは個別設定していた着信音だった。
イチ推しのオリジナルソング。
この曲を聞くのもずいぶんと久しぶりな気がした。
《もしもし》
《イロハ、元気か?》
《おーぐ……》
そこから先の言葉が出なかった。
お願いだ。どうか、だれか、頼むから俺を……。
《――わかった》
あんぐおーぐが、はっきりとした口調で言った。
俺は《え?》と声を漏らした。
《”聞こえた”。ワタシがイロハを助ける》
電話が切れた。
ツー、ツーとビジートーンに切り替わった。
そして翌朝。
水分だけでも摂取しないと、と部屋の扉を開けたそこに。
「助けに来たゾ、イロハ!」
あんぐおーぐが立っていた。
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