わーちゃんは犬なのに

「ねえ、わーちゃん」


「ワン」


「目の前が海なんだけど……どうして?」


 わーちゃんと枯れた丸太の木に座って目の前の景色に唖然あぜんとする。


 枯れた丸太の木を見て昨日ここで意識を失った場所だとわかる。間違いない、目の前は黄緑色きみどりいろのススキの生える草原だったのに、今、目の前には広大な海が広がっている。


「海がみたいと思ったからじゃない」


「……」


 どこからともなく声がする。なんとなく声のした方を見ると、


「海がみたいと思ったからじゃない」


 と、わーちゃんが私を見て言った。


「わーちゃん?」


 わーちゃんから声がした。私は周囲をきょろきょろと見渡すけれど誰も居ない、わーちゃんの身体になにかついてるのかと思ってさぐって見たけれど何もない。


 わーちゃんが笑って私を見てる。もしかしてわーちゃんが喋ったの、まさかね……。


「空耳か、まさか、犬のわーちゃんが喋るはずないもんね」


「もしかして、ゆうちゃん、僕の声聞こえてる?」


「えっ……嘘でしょ」


 わーちゃんが喋ってる。

 犬のわーちゃんが喋った。

 犬なのに喋った!


 私は枯れた丸太の木から滑り落ちて「どうして!」って思わず叫んだ。


「僕の声が聞こえるなんて嬉しいな」


 わーちゃんは笑いながら話を続ける。立ちあがろうとするけど腰が抜けて立ち上がれない。それに海辺の砂に足が取られて思うように歩けない、這うようにして、わーちゃんから離れてなんとか家に向かって走り出せた。


「パパさん!パパさぁぁん」


 わーちゃんが尻尾を振りながら楽しそうに追いかけてくる。


「ねえ、ついて来ないで!」


 必死で走ってリビングの掃き出し窓から慌ててうちの中に入ってパパさんの背中に隠れた。


「どうしたの?なに血相変えてゆうちゃん、顔真っ赤だよ」


 掃き出し窓からひょいとわーちゃんが入って来た。


「わっわっわっわっ!わーちゃんが喋りました」


 パパさんは私の顔をみて、


「そうなの、わーちゃん、ゆうちゃんともお話しできたんだ。すごいね。わーちゃん」


「えっえっえっ!ど、ど、どう、どういうことですか、パパさん、わーちゃんは犬ですよ」


 わなわなとしながら、わーちゃんを指差しパパさんのセーターをぐいっと摘んだ。


「なに、朝っぱらから大声出してんの」


 ママさんが柴犬しばいぬ柄のパジャマ姿で、もつれにもつれた寝癖の髪をぐしゃぐしゃと掻きむしりながらリビングに入って来た。


「ママ、大変!髪の毛ぐちゃぐちゃだよ」


「パパさん……そっちじゃない、髪の毛じゃなくて、わーちゃん……」


「なにを大きな声出してたの、目が覚めちゃったじゃない」


「すみません」


 私は口元で手を握りしめ頭を下げる。


「ママ、髪の毛ぐちゃぐちゃだよ。もつれた髪毛をほどくの大変なんだから」


「だから短くしたいって言ってるでしょ」


「僕は長い髪のママが大好きなの」


「わかってるわん。パパ」


 と二人は見つめ合って、腰を持ちあって、私がここにいるにも関わらず、目前でキスを交わした。二回も交わした。私は見てはいけないと思って顔を両手で覆う。


「で、なに大声出してたの」


ゆうちゃん、わーちゃんの声聞こえるみたいよ」


「本当!すごいじゃない!わーちゃんの声聞こえるなんて、わーちゃん妹ができたわね」


 妹……どう見たって私がお姉さんだと思うんですけど、っていうか、そんな事、言ってる場合じゃないわ、


「ちょっと待ってください!ママさん、わーちゃんは犬なんですよ。犬が喋るのは変ですよね」


「なにが、変なの?ねえパパ」


「変じゃないよね。ねえ、ママ」


 ママさんがわーちゃんを抱き上げて頬擦りしている後ろでパパさんはママさんの絡み合っている髪の毛をほどいている。


 この情景は毎日繰り返されているのだろうか、心を紡ぎ合わせて、豆柴のわーちゃんが会話の出来る犬だとしてもそれを自然と受け入れて家族として生きている。


 私にもこんな家族がいたんだろうか、それにしてもなぜ名前が思い出せないのだろう。


ゆうちゃん、大丈夫?とりあえず僕の声が聞こえてしまったんだから仕方ない、そのうち慣れるとおもうから、ねえ、パパ、ママ」


 二人は幸せそうに微笑んでいる。


「それより、私、ここにいてもいいんでしょうか」


「なに言ってるの、わーちゃんが連れて来たんだから、もう家族の一員だよ。ねえママ」


ゆうちゃんは、もう私達の娘よ。でーん!と構えて、ずっとここにいなさい」


「はい!ありがとうございます」


 嬉しかった。嬉しくて嬉しくて涙が出て来た。いつもひとりだった。誰も私に気づいてくれなくて、私はなにを求めて、なにを探してどこに行きたくて、どこへ向かっていたのか全然わからない。


 自分の名前さえも思い出せない、そんな私を受け入れてくれる。


 このままずっとここに居たい。


ゆうちゃんの記憶がないのは、どこかで頭をぶつけたりでもしたのかな」


 パパさんがポツリ呟くとママさんは私の頭を鷲掴みにしてあっちこっち頭部をみて確かめている。


「どこか痛いところある。皮下血腫も無いようだし。それとも、かなり前に衝撃的な事でもあったのかしら」


 私はかぶりを振った。


 二人が私の事をすごく心配してくれている。自分の素性を知りたいけれど、今はここにいられるだけですごく幸せ、


 私にも家族ができた。そう思えた。





 





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