第003話 ナノマシン

『フィジカルスキャンが終了しました』


舞の声が脳内に響く。




§


舞。


それはHCSインプランタブルナノデバイスのAIに、藤宮庵が個人的に名付けた呼称であり、公称ではない。


このインプランタブルナノデバイス(略称:ID)とは、HCSネットワーク(通称:ネット)に無線接続する為に体内へと内蔵された個人用端末の事で、その実態は体内で自己複製し増殖する機能を備えた超微細な機械群、所謂ナノマシンである。


またHCSとは、人類補完システムHuman Complementarity Systemの略称で、その目的は全地球人類への支援・啓蒙・補完である。


ナノマシンの開発と、そのナノマシンを利用したIDの完成を前提としたHCSの構築に、人類は膨大な時間を要した。


20世紀代初期、文明はそれなりに成熟し、人類はナノテク分野の研究に勤しむも、開発は中々に遅々として進まなかった。


そして、ナノテク分野以外ではそこそこの発展と停滞を繰り返しつつ幾星霜。


世に閉塞感が漂う中、人類史上最悪の戦争が勃発する。


22世紀末に小国同士の小競り合いから始まったその戦争は、それらの背後に大国が付いたのが切っ掛けか、あれよあれよと戦火が拡大し、ついには第三次世界大戦という名の核戦争にまで発展してしまったのだ。


長期化の末、戦略核が投入され戦争は終結へと向かったが、汚染された地球上で人類は絶望の淵に立たされた。


しかし、23世紀初頭、奇跡が起きる。


開発者は秘匿されたが、日本政府が医療用ナノマシンの開発に成功したと発表したのだ。


その初期型のナノマシンは、生物の細胞一つ一つを精査し、情報を外部装置へと出力できる、というものだった。


日本政府の発表に、世界中の人々が希望を見出し、湧いたのだ。


程なくして戦争は終結、そして、パラダイムシフトが起きた。


200年ほども停滞してしたナノテク分野だが、これを期に凄まじい勢いで発展し始める。


24世紀に入る頃には、32世紀現在のIDの原型といえる第一世代のIDが登場し、日本政府主導によるHCS構想、ネット構築が開始された。


時が経ち、25世紀中程にリリースされた第八世代IDの性能は凄まじく、肉体・脳へのを可能とし、20世紀以降にデジタル化された情報のうち有意義なものほぼ全てをデータベース化して個人で保持する事さえ可能な粋に達していた。


この時点での全人類に対するID普及率は63%、地球全域に対するネットカバー率は21%と順調に広がっていた。


HCSは未だ完全ではないが、肉体的弱点をほぼ超克した人類は、この頃から20世紀代初期とは比較にならぬほど活発に、宇宙開発にも挑むようになっていった。


そして紆余曲折を経て、時は西暦2972年、ついに普及率・カバー率共に100%を達成し、HCSが完成したのであった。


§




(ん。ちょい待って。身を隠せそうな場所に移動する)


『わかりました』


ん~、どこに隠れようか……。

とりあえず、一番近いあの家に向かってみるか。


そうと決まれば土の道へと足を踏み入れ素早く移動する。


遠目に家を観察すると、道側の壁面には鎧戸が嵌った窓が二つあるだけで、出入り口は見当たらない。

こちら側の壁面の前には、いくつかの木箱や桶、薪が積み上げられているのが見て取れる。

あそこでいいか。


辿り着くとすぐに姿勢を低くし、壁を背に一呼吸。

様子を伺いつつ木箱と薪の間に身を潜めた。

耳を澄ませてみるが、家屋から物音はせず、人の気配も無い。


さて。


(で、どうだったの?)


『はい。ストレスホルモンの値が高いものの許容範囲であり、身体機能・脳機能は共に正常。病原菌・ウイルス感染無し。ラジカル値異常無し。DNA損傷無し。生命活動に支障のある異常は検出されませんでした。しかし──


(えっ)

不安がよぎる。


──体内及び空気中に未知のエネルギーを検知しました。呼吸により体内へと蓄積する模様。現状で生命活動に支障は見受けられませんが、重篤な作用を引き起こす汚染因子である可能性は否定しきれません。データ不足です』


(おぉんっ!?それってもしかしてファンタジーでド定番の魔力マナってやつなのでは!?)


『直感は時として有益ですが、楽観視するのは危険です。現段階で私には肯定も否定も出来ません』


(お堅いなぁ~)


『人格プリセットを変更しますか?』


(……舞に愛着あるから変更はしないよ)


『庵のそういう所、私は好ましく思いますよ』


(………)

これだ。

俺はこの稀に来るデレがお気に入りなのだ。


(さておき、他に何か問題点はあるか?)


『ありません。未知のエネルギーに関しては経過観察を密にし、解析を試み、異常があれば報告します』


(わかった。それと、エネルギー値の増減をグラフにしてAR表示してくれ)


『これで宜しいですか?』


視界の端に半透明の薄青いグラフが表示された。


(おっけーだ)


ゲームライクな視界に思わずニヤリとしてしまう。




§


本来、この様な事をする必要は無い。


何故なら、IDは脳への完全アクセスが可能だからだ。


どういう事かというと、IDが検知している事やデータベースの情報は、自分の記憶と同じ感覚で扱えるし、把握もできる。


つまり、わざわざ視覚を通す必要など無いのだ。


言ってしまえば、IDを扱うのにAIとの対話機能も必須では無く、やろうと思えば対話無しにでもIDは十全に扱える。


IDをどう扱うか、AIの性格やAR等も含めてどうカスタマイズするかは、扱う個人の好みにより千差万別なのである。


§




(それじゃ探検再開としますかね)


物音をたてないように立ち上がり、道とは反対側へと向かう。


家の角からそっと顔をだしてみると、切り株に突き立てられた斧、蔓の束、軒先に吊るされた肉?が目についた。

そこは小さな庭……というより作業用スペースといった感じの場所になっていた。


壁面には角からすぐ近くに小さな扉がついている。

玄関って感じじゃないし勝手口かな?

中が気にならないわけじゃないけど、今はそれよりも家の正面側を確認してみたいと思った。


しばらく様子を伺ってみたけど危険は無さそうだ。

庭を突っ切り家の正面側と思しき方へと向かう。


やはりこちら側が正面だったようだ。

玄関らしい扉がついている。

特に目ぼしい物は見当たらず、こちらも危険は無さそうで一先ず胸を撫で下ろす。


家の角から頭を引っ込めてしばし黙考する。


(あれを、拝借するしかないか)


『異常事態下につき賛同します』


先程見た切り株の斧と蔓の束に目を向ける。

はぁ……溜息でるわ。


拝借とは言ったものの、それは俺主観の心情であって、状況的には立派な窃盗でしかない。

家の中を勝手に物色するよりはマシ、などと言うつもりも無い。

大して価値ある物じゃないだろ、などと開き直るつもりも無い。

異常事態の只中にあるとはいえ、これから俺は盗みを働くのだ。


いつか、ここの家主に会う事があるならば、その時には全力で、全身全霊で謝ろう………。


「家主さん、本当にごめんなさい」


家に向き直り頭を下げ、声に出して謝罪した。


頭を下げれば足元が目に入る。

裸足であることを直視し、涙が出そうになった。

何でこんな事しなきゃならなくなったんだろ。

はぁ………。


しっかりしろ、俺。

凹んでる場合じゃないだろう。

歯を食いしばり、気持ちを切り替える。


鼻から溜息一つ、切り株に向かい、斧と蔓の束を手に取る。

サンダル、作らせてもらいます。

ちんたらしてる場合じゃないので手早くだ。

切り株に腰掛けて作業を開始。


蔓を適度な長さに切って輪っかを作り、その内側を編み込んでいけばサンダルのソール部分の出来上がり。

蔓を束ねるのに使われていた藁縄は鼻緒として使う。

足裏にソールを当てて親指と踵の位置を確認したら、いい具合の所に藁縄を通して縛って固定すれば完成だ。

簡単な作りだが、短期間の使用になら十分に耐えるだろう。


立ち上がって履き心地を確かめる。

悪くは無い、良くもないが。


はぁ………。

無意識に溜息を吐く。


作業が終わって少しだけ気が抜けたのか、また気分が沈みそうになっていた自分に気付き、がぶりを振る。

駄目だ、ポジティブに行こう。

盗みを働いておいてポジティブに行こうだなんて罪深いが、ここで履物が確保できたのは幸運であるのは確かなわけで。

プリミティブなテクノロジーを後世に残してくれた先人に感謝しよう。


斧と余った蔓を元の場所に戻し、顔を上げると、遠くの空が白んできていた。


(もうすぐ夜が明けるのか)


『そのようです。完全に陽が出る前に、もう少し村の状況を調査しましょう』


(そうだね、行こうか)


暗澹とした気分を引き摺りつつも、この道の先にある何かに向かって俺は歩を進める事にした。




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