第八話 神隠し
算長は篠川とともに
篠川は火薬の作り方を難なく会得すると、あっという間に配下の者に流れ作業の道筋をつけてしまった。そしてすぐに塩硝田の作事にとりかったのである。塩硝田とは五峰の言う硝石を培養するためのものである。
屋根で低く覆い、
五峰から聞いた話だけで、このように短期間に硝石の製造に取り掛かるとは、さすがに島主から直々に任ぜられただけのことはある。火薬にしても硝石にしても動物界、植物界、鉱物界といった
算長は明日に迫った御前の試し撃ちを思い、苦しい息を吐いた。
金兵衛の弟子が人殺しで娘は共犯かもしれない。はっきりさせようにも娘の方は谷底に落ちて死んだものと思われている。捕縛されたあと逃走したのだから、弥三郎に殺人を指示したのは若狭だろうという見方が大勢を占めていた。
そんな男を時堯の御前に出していいのか、と反対を唱えたのは右筆の佐竹だと聞いている。しかし時堯は一顧だにせず、予定通り金兵衛が試射を行うよう命じた。それを聞いたとき算長は、弱冠十六歳の島主の分別に舌を巻いたのだった。
志津を殺したのが自分かもしれぬ、という思いもあった。若狭と南蛮人を匿っているという負い目もあった。金兵衛が試し撃ちをし、火筒の製作を一手に引き受けることになれば、算長も多少は心の重荷を軽くできるだろう。
『それにしても』と、算長は、次第に磯の香りが強くなる道をぶらぶらと歩きながら思った。
過去に日本人が火器を見ることは何度もあったはずだ。いや、日本人だけではない。満剌加の周辺ではこの手の火筒が大量に作られているという。琉球人も明国人もだれ一人、火筒を自作し実戦で使おうと考える者はいなかった。
『そうだ、おれ自身もだ』
あれが戦で役に立つとは考えもしなかった。火筒よりは弓矢のほうがはるかに実戦において使い良い。なにせ火筒は二発目を撃つのに時間が掛かりすぎる。弾を込めている間に、弓矢ならば何本矢を放てることか。しかし時堯はだれも思いつかない使い方を考えていた。
南蛮人と五峰が種子島で火筒を売り、ひと儲けをたくらんだが、まさか火筒を作ってしまうとは思わなかったらしい。しかもこんなにも早くだ。
古くから鉄が豊富で盛んに鉄器がつくられ、炭を作るための樹木がふんだんにあり、硫黄が大量に採れる。さらに戦乱の世であり、島主が種子島時堯であった。これだけの条件が整っているところに、まるで奇跡のように南蛮人は火筒を携え流れ着いたのだ。
港は倭寇が出航の準備を始めていた。もうじき秋の季節風が、船を南に運んでくれるのだ。交易船は琉球に向かってずいぶん前に出航した。算長の船は、そろそろ迎えにくるころだ。倭寇船が港を出て行けば、赤尾木の港は寂しくなるだろう。
西村の屋敷に戻る前に、金兵衛の様子を見ておこうと思った。娘を亡くし一番弟子の弥三郎を失い、明日の試し撃ちを支障なく行えるのか、今となってはとても
時堯からは、年内にできるだけたくさんの火筒を作るようにと命じられているはずだが、満足には作れないだろう。
算長は金兵衛の屋敷のほうへ歩きながら、せめて若狭が生きていることを知らせてやることができたなら、こちらの心もどんなに軽くなるだろうと考えていた。
屋敷に近づくにつれて鎚の音が景気よく聞こえてきた。鍛冶場の周りでは、弟子たちが汗を流して立ち働いていた。注連縄の張られた鍛冶場から聞こえてくる鎚の響きは、算長の耳にも気迫の籠ったものだということがわかる。
算長は意外に思って鍛冶場の前に立っていた。
「津田さま」
ふいに声を掛けられて振り向くと、金兵衛の妻の嘉女であった。
「ようおいで下さいました。むさ苦しい家でございますが、どうぞこちらでお休みくださいませ」
座敷に上がるように勧めるのを断って、算長は縁に腰を下ろした。
「ただいま、お茶をお持ちいたします。それともお酒のほうがよろしゅうございますか」
嘉女は返事も聞かずに、まるで
嘉女の持ってきた酒を、舐めるように飲みながら金兵衛の仕事が終わるのを待った。
鎚音は次第に算長を幻惑していく。
ふっと意識が遠のくと同時に、また例の夢がやってくる予感がする。
ぱち
弥三郎が鎚を振るっている。向かい側には金兵衛が片膝を立てて座っている。金兵衛の持つ小鎚が様々に拍子を変える中、弥三郎の大鎚はまるで会話をするように打ち下ろされる。火花が盛大に上がり、無言の会話は強い鋼に鍛えるという一つの目的に向かって延々と続いた。
算長は金兵衛の仕事場を一度も見たことがないのを思い出した。
場面は一転して、金兵衛の家の裏口になった。厨から明かりが漏れている。上がり口に志津が肩を落として座っていた。弥三郎は細く開けた板戸から志津を呼んでいる。
「お志津さん。ちょっと外へ出てくれないか」
志津はちらりと弥三郎の方を見て、首を横に振る。
「ちょっとでいいんだ。この間のことを謝りたいんだ」
どうやら弥三郎は、以前にも志津をこうやって呼び出していたようだ。志津は強張らせた顔を背けた。それでもなお弥三郎は、志津に来るようにと繰り返す。
「あの事を親方に言ってもいいのかい」
その一言で志津は、諦めたように立ち上がり外へ出て行った。
弥三郎は家の者に聞かれないよう、川の方に向かって歩いて行く。月はあるが時々雲に隠れ、知っている道でなければ歩けない暗さだ。弥三郎は志津の手をしっかり掴み、川岸まで来て、ようやく手を離した。
「この間はすまんかった。だけんど俺の気持ちはわかってくれたろう?」
「あんたは若狭さまの許嫁じゃないの」
「俺は御用鍛冶になんてならんでいいと思っている。いずれ時期をみて親方に言うつもりだ。若狭さまとは夫婦にはならん」
志津は弥三郎の決心を聞いて、ひどく狼狽しているようだ。
「でも、あんたと一緒にはなれん。若狭さまも親方も恩人だから」
「その恩人に隠し事をしているじゃないか。いまさらなにが恩人だ。お前のおっかさんは、奉公に来るようにと何度も言われているが、断っているのはあの異国人がいるせいなんだろう? あの異国人はなんなんだ。なんでお前の家にいるんだ。なぜ隠している」
「お願い。だれにも言わないで。あのお人はあそこで静かに暮らしているだけだから」
「静かに暮らしているだけだったら、なにも隠すことはないじゃないか。親方にも隠すなんて、どういうつもりなんだ」
「ねえ、弥三郎さん。異国人をこっそり住まわしているのは罪になるのかしら」
「え」
「あのお人は誰にも知られずに、あそこで暮らしたいのよ。故郷で辛いことがあったらしいの。親方が知って、それを殿様に黙っていたら、罪になったりするかしら」
その時、月に掛かっていた雲がすっと流れた。川面に反射した月光が明るくあたりを照らす。
対岸に男の影が現れた。商人風の着物を着ている。その後ろからもう一人、音も無く男が姿を現した。安東だった。安東は素早く男の首に腕を掛け締め上げる。月光の中に浮かび上がる黒い影は、まるで
水音に驚いて、志津と弥三郎はあたりを見回した。
志津の目が算長を捉えた。声にならない悲鳴を上げ後ずさる。
『待て、これは儂の見ている夢じゃ』
算長の声が届いたのかどうかもわからぬうち、志津は山へ向かって走りだした。算長のなにがそれほど恐ろしいのか、志津は狂ったように手を振りまわし叫び声をあげながら走り続ける。算長は志津の誤解を解いてやりたくて、あとを追いかけた。
志津はついに森の中に入った。
『追いかけろ』
志津の姿が一瞬、馬毛鹿になる。
『追いかけて捕まえるのだ』
頭の中で響く声に背筋が凍る。自分が対峙している者の尋常ではない悪意を感じる。
志津は俺が殺したのか。両手の血は志津のものだったのか。混乱していた頭に、すっと冷静な思考が入り込む。「声」を聞いてはだめだ。だが、体は何かに操られたように志津を追い続けていた。
下草に足を取られながらも、志津との距離は次第に縮まっていく。
算長は
「
印を結びたいが手が自由にならない。仏の大威徳光により悪星退散を説くものだが、相手の正体がわからぬため、どの程度の効験があるのか疑問だ。算長にしてみれば藁にもすがる思いだった。
口では陀羅尼を唱え続けるが、算長自身は志津を追い詰め、榕の木までやってきた。志津は力尽きたように榕の木の根元にうずくまった。算長の足音で飛び起き、背を幹に着けて怯え震えている。
算長の手が志津の細い首に掛かった。力を入れたわけでもないのに、ぐいと締め上げた。志津の背中が榕の幹をずり上がる。
着物の衿が乱れて志津の首に掛けられたものが現れた。それはいつか算長の手に握られていたものだ。
『クルスか』
ふいに、それの名前が浮かんだ。安東が志津に渡したという南蛮人のお守り。
陀羅尼を唱えながら、志津の両腕を広げて左右の枝に掛けた。榕に巻き付いていた蔓草で両の手首を縛り付け、両足を揃えて幹に固定する。なぜそうするのかわからない。
『クルスの形だ』
「
陀羅尼を唱え終わる。
ふっと体が自由になる。
ぱち
気が付くと鎚音は止んでいた。瓶子が倒れ酒がこぼれていた。起き上がった算長を見て、嘉女が近づいてくる。
「よくお休みでございました」
こぼれている酒に気付いてひざまずき、懐から出した布でまず算長の袴をぬぐい、縁の酒を拭きとった。今見た夢の余韻からまだ醒めきれないでいた。しかし今までとは違い、何かがわずかに好転する兆しがあった気がする。自分の力で悪夢から抜け出したということだろうか。
「もうじき金兵衛も戻りますゆえ、どうぞ中のほうへ」
嘉女の痛々しい微笑みに、算長の胸がきりきりと痛み、娘は生きていると知らせてやりたくなる。
「弥三郎がああいうことになって、仕事の方はどうじゃ。差し障りがあるのではないのか。明日の試し撃ちの用意は整っておるか」
「お気遣いありがとう存じます。幸田さまがなにかとお世話してくださいまして、今も大鎚を振るっていたのは幸田さまなのでございます」
「幸田が弥三郎の代わりを務めているというのか」
若狭を逃がし無用に窮地に陥れた幸田が。
算長は幸田の思惑がどこにあるのかわかったような気がした。
鍛冶場から金兵衛と幸田が揃って出てきた。金兵衛は算長がいることに少し驚いたようだが丁重に頭を下げた。
「津田さまは明日のことをお気遣いくださって」
嘉女がさりげなく口添えをする。
「それはまことに
幸田はさも殊勝そうに目を伏せ頭を下げた。
「金兵衛、明日の試し撃ちに使う火筒はどこじゃ」
「はっ、こちらに置いてございます」
金兵衛はそう言うと算長を奥の客間へと案内した。火筒は辻が花染の布を掛けられ、床の間に置いてあった。その布は色柄から若狭の着物をほどいたものではないかと思われる。時堯から最初に貸与された火筒は返したと聞く。明日の試射が終われば、この火筒は時堯に献上されるのだろう。その時に、この布はどうするつもりなのか。島主にひそかに抗議の意を示すために一緒に贈られるのだろうか。
算長は帰り際、金兵衛に問うた。
「火筒は何挺できておる」
「はっ、まだ六挺でございます」
「そうか、少ないな。年が変わるまでにどのくらいできる」
「幸田が手伝うてくれますゆえ、三十はできると存じます」
「殿にはその旨、申しておるのか」
「はい。必ず三十挺は用意せよとの仰せでございました」
そうであろう、と算長は心の中で思った。三十挺ならば考えていた戦法には足りないはずだ。時堯は戦法を変えねばならぬだろう。あの英邁な時堯ならば、それはとっくに考えているかもしれない。
幸田はかいがいしく鍛冶場の後片付けなどして、弟子たちとともに働いていた。それを横目で見ながら算長は声をひそめて言った。
「明日使う火筒は、その時までだれにも知られぬようにせよ」
呆気にとられる金兵衛に背を向け、算長は西村の屋敷へと帰っていった。
西村の屋敷では、若狭は西村時弘の妻女の部屋へ、安東は算長のそばへ置いた。妻女へはだれにも言わぬようにと口止めしたが、たぶん夫には話すだろう。立場上、西村は知らないことにしておかなければならないはずだ。むしろ口さがない
若狭は父母の様子を聞きたがり、家人が寝静まった頃に算長の部屋を度々訪ねてきていた。
「心配はいらぬ。明日の試し撃ちの用意も万端整うておる。だが……」
「なんでございますか」
「幸田が気になる」
「幸田が」
若狭の顔に激しい憎悪が走った。
この数日、算長が調べたところによると、若狭と弥三郎が共謀して志津を殺したという噂の出所は幸田らしい、ということがわかった。旧知の仲である金兵衛の栄達を妬み、火筒完成の手柄を横取りしようとしているらしい。金兵衛の娘と弟子が咎人になれば御用鍛冶の地位は剥奪され、金兵衛が完成させた火筒製作の工夫をすべて自分のものにできると踏んでいた。ところが、時堯は娘と弟子のことなど寸毫も気にかけていなかった。火筒の完成、それがすべてに優先するらしい。
「幸田は弥三郎の代わりに大鎚を振るっておった」
「どうか幸田に気を付けるよう、津田さまからおっしゃってくださいませ」
若狭は叫びそうになる声を押し殺し算長に懇願した。
「幸田は火筒に細工をするつもりでございます。時堯さまの御前で恥をかかせ……いいえ、火筒を暴発させ殺すつもりなのでしょう」
若狭の顔は夜目にも蒼白になった。
「儂もそれを恐れておる。金兵衛には気を付けるよう言うたが油断はならぬ」
部屋の隅で寝ていた安東が、いつの間にか起きてこちらの話に耳を傾けていた。わからないなりに、なにか差し迫ったことが起きているのを感じて不安げにおきな目を瞠っていた。算長が安東には関わりのないことだから安心するようにと言うと、恩人の主人筋のことだから関わりのないことではない、とまるで日本人のようなことを言う。火筒の話を事細かにするのも面倒で、簡単に若狭の父に危険が迫っていることを説明した。
安東は昼間は若狭に、夜は算長に日本語を教わり、ゆっくり話せばかなりの会話ができるようになっていた。一方で、算長は安東に
「試し撃ちが終われば、弥三郎の処刑が行われるそうじゃ」
「ついに自分の罪を認めなかったそうでございますね。なんという卑劣な男」
若狭の胸の内を思うと、なんとも遣る瀬ないことではある。しかし弥三郎をこのまま処刑させてよいものか、真相を明らかにすべきではないのか。だが、明らかになったそのときに、もし自分が真の咎人とわかったときにはどうする。算長はかつて感じたことのない迷いに、ともすれば自分の心を持て余すのだった。
翌朝早く、試し撃ちの支度は浜屋敷のある砂浜で整えられた。多くの島民が集まり、若殿がお出ましになるのを、今か今かと待っていた。正装した家人たちが揃い、陣太鼓が華々しく打ち鳴らされると時堯が登場した。この数日見なかっただけだが、一段と凛々しく堂々たる若武者ぶりだった。
的が据えられ、金兵衛が所定の位置に着いた。しかし火筒は持っていなかった。少し遅れて幸田が、うやうやしく火筒を捧げ持ってきた。
国産第一号の火筒の試射であるから、ことさら格式張ると見せかけて、これは幸田の策略であろう。
算長は
時堯は家老の西村時弘を呼ぶと、算長が注進したことを告げた。西村は疑いもせずに声を張り上げた。
「幸田孫太郎、そのほう、
幸田は思った通り、青ざめて震え、なんとか試し撃ちを断ろうとする。西村は怒りを露わにして、「殿の御厚意を拒むとはなにごとだ」と叱りつけた。
幸田は強張った表情で火筒を構えた。手順通り口薬を火皿に置き、火挟みに火縄を挟み引鉄に指を掛けた。
人々の目は幸田に注がれる。誰もが息を詰めて見守っていた。風も波の音さえも止んだように感じた。
その時、幸田は構えていた火筒を下ろすと静かに立ち上がった。西村が慌てて駆け寄る。算長もあとについていった。
「なにをしておる。早く撃たぬか」
西村の叱責に動じるふうもなく、幸田は火筒を持ったまま立ち尽くしていた。金兵衛も何事かと走り寄ってきた。
「幸田、どうしたのじゃ。なぜ撃たぬ」
「この火筒には不具合がある」
「そんなばかな。なにを言うか。幸田、そなた血迷うたか」
金兵衛は幸田に掴みかからんばかりに激した。
「火道が詰まっておるのが見えた。これでは撃てぬ」
「馬鹿を言うな。火道が詰まっているかどうかなどと、そんなものが見えるか」
いきり立つ金兵衛に対して、幸田はいよいよ冷静になって言った。
「西村さま、別の火筒で撃たせていただきとうございます」
西村は納得がいかないようであったが、この場をなんとか凌ぎたいという思いなのだろう、「火筒はどれでもよい。早よう撃て」と急かした。
『やはり思った通りだ』と算長は、ひそかにうなずいた。幸田が細工をしたのは一挺だけなのだ。それも、金兵衛がどの火筒を使ってもいいように短時間でできる細工だ。たぶん金兵衛は算長に言われたとおり、直前までどの火筒を使うかわからないようにしていただろう。しかし金兵衛はそういう小細工が不得手で、幸田にそれを勘付かれてしまったのだ。金兵衛亡き後、自分が時堯の命を受けるつもりなら、細工をして使い物にならない火筒は最小限にしたいはずだ。
別の火筒を受け取り、幸田は的に向かった。一瞬の静寂ののち、轟音とともに火筒から炎が噴き出し、幸田の姿は白煙に包まれた。的は外れていたが、火筒は無事撃つことができた。
「西村殿、他の火筒も幸田に試させてはいかがかな」
算長の言葉に西村は、はっと気が付いて、「そうでござるな。火道が詰まっているのが他にもあるやもしれぬ」と急いで残りの火筒を用意させた。
残り四挺の火筒も問題なく撃つことができた。幸田は五発のうち一発を的に当てた。初めて火筒を手にした幸田でも難なくできる。これが弓矢と大きく異なっているところだ。弓矢ならば、五本のうち一本を的に当てるために、どれほど習練を積まなければならないか。時堯が火筒に心酔したのも、この点が理由の一つだろう。火筒を支える力さえあれば、だれでも相手に一定の打撃を与えることができる。火筒に込められる鉛玉は質量が大きいために威力も大きい。しかも柔らかいため、人体に当たれば傷口は大きく損傷が激しいのである。甲冑で身を固めていても間違いなく貫通し、甲冑の破片で人体はより激しく負傷することになる。
算長は、幸田が撃つのを拒否した火筒を持ってこさせ改めた。筒の中には大量の火薬が詰められていた。もし金兵衛がこの火筒を撃っていたなら、かなりの重傷を負うか、下手をすると命がなかったかもしれない。
「この火筒を撃たなかったことこそ、幸田の細工の証拠」
算長が大音声で断じると、西村は捕り方に命じて幸田に縄を掛けさせた。引っ立てられていく幸田はなぜか傲然と顔を上げ薄笑いさえ浮かべている。虚勢を張っているだけなのか。それとも。
算長は幸田に後ろ盾があるのではないかという疑念を持った。
『調べてみるか』
根来寺に帰りそびれたような格好になっていた算長は、長逗留のついでにおかしな夢を見る原因を突き止めるつもりだった。ついでに幸田の後ろ盾をあばき、これ以上金兵衛親子に災いが降りかからないように手を尽くしてやる気になっていた。志津を殺したのが、もし自分なら若狭へのせめてもの罪滅ぼしという気持ちだった。
幸田の企みを暴いたことで、時堯から褒美が出ることになり、算長は城に出向いた。時堯は終始上機嫌だった。褒美の品は種子島家の紋が入った懐剣だった。
「その懐剣は、金兵衛の打った名品ぞ」
時堯が促すので、算長は鞘から抜いてみた。わずかに反りの入った刀身は白く霞がかかった匂い出来で、刃文は
算長が礼を言って下がろうとすると、金兵衛が対面を望んで来ていると小姓が伝えた。
「そうか。算長殿、そなたも会うていくがよい。金兵衛も礼が言いたかろう」
しかし金兵衛は、気もそぞろというべき
「殿、火筒を二挺、お見せくださるようお願い申し上げます」
「火筒を二挺だと。なんじゃ今更。どうしたというのじゃ」
「はっ、このままでは……」
金兵衛は言葉を詰まらせた。青ざめた顔に冷や汗が浮いている。
「このままでは、お約束の三十挺を揃えられぬと存じまして」
「うむ。弥三郎も幸田もこのようなことになってのう。して、何挺なら作れる」
「十挺、出来ますかどうか」
「十か」
足りぬな、と時堯は渋い顔になった。長い沈黙があった。平伏した金兵衛の顎から、ぽとりと汗が落ちた。
「殿、なにとぞ火筒をお見せくださるようお願い申し上げます」
「なぜにこの期に及んで火筒を見ねばならぬのじゃ。火筒を見れば三十挺を用意できると申すか」
「それが」と答える金兵衛の声は苦しげであった。
金兵衛は尾栓の形を確かめたいと言う。尾栓の作り方に考え違いがあるのではないか。これを正せばもっと多くの火筒を作れるはずだと懇願する。
時堯は家宝ともいうべき火筒をそう簡単には見せぬぞと強調したいのか、ひどく勿体ぶって二挺の火筒を持ってくるように言いつけた。
金兵衛は受け取るなり、二挺とも火筒の
「これは、このように回して外せるようになっております」
時堯と算長は身を乗り出して金兵衛の手元を注視する。金兵衛は捻頭を回し、尾栓を取り出して見せた。尾栓にも筒の内側にも螺旋の切れ込みがきれいに入っている。
「なぜこのような手間をかけてこの尾栓を外すのか、どう考えてもわからないのでございます。それで、私は尾栓を
金兵衛は筒を置き、膝の上で手を握りしめた。
「殿は寸分違わずに作れ、との仰せでございました。それならばやはり、意味がわからなくとも、捻子を切ることに決めたのでございます。捻子は時間を掛ければできないことはありません。まず、
金兵衛は一方の火筒の尾栓を外し、もう一方の火筒に捻じ込んだ。捻子は支障なくするすると入っていく。すっかり捻じ込み、手を止めた金兵衛の顔は驚きなのであろうか、表情を無くし、息までも止まってしまったようである。
「どうした、金兵衛」
時堯も怪しんで問いかける。
「やはりそうでございました」と金兵衛はかすれた声で言った。「捻子の作り方が違っていたのです。ごらんください。このように別々の火筒でありながら、雄捻子はぴたりと合いまする。私の作り方ではこのようには合いませぬ。一挺一挺の捻子山はみな違っております。どうすればこのように……」
「金兵衛。捻子を切らずに塞ぐがよい」
時堯はいとも
「確かに儂は寸分違わず作れといった。だが金兵衛が、捻子にしている理由がわからず、作り方もわからぬと言うなら、この日本中どこを探しても作れる鍛冶屋はおらぬ。それに捻子など切らなくとも火筒は撃てるではないか。捻子を切らずに塞げば、今年中に何挺仕上がる」
「ははっ、十七、八は出来るかと存じます」
「うむ。ならば十八挺、しかと申し付けたぞ」
金兵衛と時堯とのやり取りを、算長は詳細に若狭に教えてやった。若狭は父親の消息を始めは涙ぐんで聞いていたが、捻子の話になると
「父はそれを前にも申しておりました」
「それとは、捻子か」
「はい。そこだけが南蛮人の持ってきた火筒と違っていると、ひどく悩んでおりました」
「しかし、殿も言うておいでだったが、外せるようにせず塞いでも不都合はなかったではないか。捻子を切ったものもそうでないものも同じように撃っていた」
若狭は父親と同じような頑固さを滲ませながら唇を噛んだ。
「父は捻子で留めてある理由がわからないのが悔しいのだと思います」
負けん気の強さは父親譲りなのだろう。ここへ来てからも、一度も弱音を吐いたことがない。我が身の行く末が不安だろうと、算長のほうで気をまわし、いずれ算長の船で安東共々堺にでも連れ出してやろうと話したほどだった。
「よい知らせがあるぞ。幸田は硫黄島に遠島になった。
算長が豪快に笑うと、若狭もようやくほほ笑んだ。
「しかしな若狭、幸田の後ろにはだれかが肩入れしていたのではないかという気がする。罪を暴かれた時のふてぶてしさは、自分が咎めを受けるはずがないと高を括っていたからではないか。幸田が早々に遠島と決まったのも引っかかる」
「幸田の後ろ盾なら、御祐筆の佐竹さまに違いありません。幸田は以前から佐竹さまと昵懇なのを自慢しておりました」
「幸田の意図はわかるとして、佐竹はなぜ幸田に肩入れをするのだ」
若狭は言いにくそうに、時堯が正室を迎えるにあたって、若狭の存在が妨げになることを憂えていた、と説明した。
「幸田から聞いた話ですから信じたくはありませんが、確かに私がいたのでは時堯さまにご迷惑かと存じます。時堯さまがお命じになったのかどうかはわかりませんが、佐竹は私を咎人にして抹殺しようとしたのです。昔から種子島家の家臣は主君を思うあまり、極端な振る舞いをすることがあったと聞きます」
「嫌な話をさせてしもうたな。幸田は遠島になったが、佐竹には何の咎めもない。儂から天罰を与えておこうぞ」
若狭は意味がわからず目を
「そうじゃ、時堯さまからの褒美の品を見せてやろう」
算長は懐から例の短剣を取り出した。明かりを引き寄せ、かざすと昼間見た美しさとはまた別の妖しい美しさが顕れる。
「安東、そなたも近くで見るがよい」
安東にもよく見せてやろうと、峰に指を当てるつもりが誤って刀身に指の跡を付けてしまった。慌てて袖で拭く。かちりと音がして袖が刀身にくっついた。
安東と若狭の目が吸い寄せられる。おかしな形に刀身に貼り付く袖を引きはがし、袂に入れておいたものを取り出した。十字の形をした、それが磁石であったことが驚きだった。磁鉄鉱は見たことがあるが、このような形に加工したものは見たことがない。
算長は安東の反応を見るために、ゆっくりと磁石をつまみ上げた。安東は磁石を凝視していた目を算長に転じた。疑いと驚愕とが交じり合った目であった。
「そなたの言っていたクルスとはこれのことか」
「そうです。お志津さんにあげました。なぜこれを持っているのですか」
「拾ったのじゃ、と言ってそなたは信じるかのう」
安東の唇は一文字に引き結ばれている。右手の握りこぶしが膝の上でかすかに震えている。安東の疑いはもっともだが、算長にしても志津を殺した記憶がないのだから認めるわけがない。算長の毅然とした態度に、安東も半信半疑であるようだった。
若狭のほうは、算長をすっかり信用しているようで、クルスを手に取って眺めている。
「これがクルスでございますか。磁石なのですね。クルスはみんな磁石でできているのですか」
「いいえ、これは特別なクルスです。とある立派な人の持ち物だったのです。立派な人だから持てた、聖なるクルスです。病を治すのです」
安東が言うには、このクルスはポルトガル領ゴアの大司教から嘱望され、満剌加の司教として赴任したマヌエル・デ・アルメイダの持ち物だった。マヌエルはこれをある
安東には年の離れた妹がいたが、重い病にかかりどのように手を尽くしても悪くなるばかりだった。安東はマヌエルに奇跡のクルスを使ってくれるよう頼みにいった。ところがマヌエルは何者かに殺されていた。困った安東は人知れずクルスを持ち出した。病が治ったら返すつもりだった。しかし、クルスがなくなっていることと、司教のところから安東が出てくるのを見た者がいたことで、マヌエル殺しを疑われ、追われることになった。たまたま港から出航する船があったので逃げ込んだ。それが種子島に漂着した
「聞けば行き先は
「そなたの父母は健在なのか?」
「母が満剌加におります。父は亡くなりましたがパードレでした。私は満剌加で生まれたのです」
算長はクルスを安東に差し出した。安東は手を伸ばしかけたが躊躇っている。
「どうした。受け取るがいい」
「もともとは私の物ではありませぬゆえ。津田さまにお預かりいただきとうございます」
安東は病の妹のことでも思っているのか苦しげだった。
『このクルスは』と津田は手の中の物を見た。その出会いから、ひどく不吉な物のように感じる。掌にすっぽりと収まるクルスは、ひんやりと冷たく、滑らかな十字の形に黒光りをしていた。夢の中で志津が首からかけていたものが、いつのまにか自分の手の中にあり、いつまでたっても出て行こうとしない。災いは、いつまでも我が身のそばに寄り添っている。そんな嫌な予感がするのだった。
聖なる奇跡のクルスだと言うが司教は死に、銭に換えようとした志津も死んだ。
『次は俺の番か』
そう思い至って、算長はふっと笑った。
『なにを馬鹿馬鹿しい。俺としたことが』
算長はクルスと拝領の懐剣を文箱に入れた。
翌朝早くに算長は城に向かった。これまで何度か城に行くことはあったが、さすがに自由に歩き回るというわけにはいかず、前に見た護摩堂にもう一度行ってみる機会はなかった。昨夜、若狭から佐竹の話を聞いて、佐竹ならば護摩堂に案内させる口実に使えるのではないかと思った。護摩堂にあったたくさんの書物を見せてほしいと頼むのだ。実際、あの書物には心惹かれる。それに佐竹がどんな顔をして政務を執っているのか見てやりたい気がした。
城の門番は、すっかり顔馴染みになったとはいえ、今日、算長が訪ねてくることを知らなかったために、多少待たされたが首尾よく佐竹に会うことができた。
これまで佐竹とは数回しか会ったことはなかった。しかも通り一遍の挨拶以外は言葉を交わしたこともなかった。それがなんの前触れもなく算長の来訪を受け、訝しがるかと思えば、そんなこともなく篤実そうな佇まいで算長を迎えた。自分が利用した幸田のことなど露ほども気にかけていないのか、それとも若狭が死んですべては終わったこととなったのか。
算長は、蔵の近くにあった護摩堂の書物はだれの物であるか問うた。
「はて、蔵の近くに護摩堂などありましたか」
とぼけているふうでもなく本当に知らないようだった。
「確かにありましたぞ。私はそこで護摩壇やら大日如来の像や木箱に入った書物を見ました」
そしてその直後、算長は突然激しい頭痛に襲われ、気が付くと書院の間の
『しかし、まことにそうであろうか。俺はそもそも護摩堂などには行っていないのか』
護摩堂で見た物すら夢であったかもしれないと疑えば、我が身のなにを信じられるというのか。
『そうとも。佐竹と一緒に行ってみればわかること』
算長は護摩堂まで同行してくれるよう頼んだ。
佐竹は突拍子もないことを言う算長を怪しみつつも同意したのだった。
庭の景色はすっかり冬の装いだった。息苦しいほどに繁茂していた木々の緑は、あるものはすっかり色を変え、あるものは葉を落としていた。
「あの木の向こうは、蔵が建っていましたな。そこに小さな護摩堂がありましたぞ」
「いかにも蔵はありますが、はて、護摩堂は……」
算長と佐竹は榕の下まで来ると、渡り廊下との間を抜け蔵のある場所へ出た。
蔵の並びのはずれに護摩堂はあるはずだった。
「津田殿、どのあたりでござるかな」
佐竹は算長のほうを振り返り、気の毒そうに眉根を寄せた。
「ばかな。つい数か月前にはこのあたりに確かに」
算長が蔵の端まで歩を進めると、蔵の裏側から朽ちた材木がのぞいていた。雑草に覆われ埋もれるのを拒むように柱の一部が顔を出していた。算長は日のあたらぬ蔵の裏に回り込み、柱のまわりの雑草をかき分けた。土に還ろうとする木屑の中に見覚えのある形があった。銅製の宝珠だった。
庭の築山からこの宝珠が見えたので、算長はあの日、この場所に来て護摩堂を見たのだ。算長は両手で拾い上げ、佐竹に宝珠を見せようと振り返った。
「佐竹殿」
そこにいたはずの佐竹の姿はなかった。
『来る。またあれが来る』
ぱち
手の中にあったはずの宝珠がなくなっていた。目の前には護摩堂が、あの日見たままの姿で建っていた。白壁も真新しく、朱色の柱が目に染みるようだった。中からは真言を唱える声が聞こえる。護摩を焚く臭いが漏れ出てくる。あの禍々しい花、
またあの夢だ。これまで何度も見た夢の中で、算長は真言を唱え夢の中の何者かに抵抗してきた。しかし、今度は抵抗しきれないのではないかという恐怖に襲われた。 現に今、算長は馬毛鹿をすさまじい速さで追いかけていた。
その時、算長の胸元でクルスが揺れた。
『ああ、これは安東のクルス。だが確かに俺は文箱に入れたはずだが』
算長が追いかけている鹿は志津の姿になって、榕の木に追い詰められた。前に見た時は枯れていたはずだが、今は鬱蒼と葉を茂らせ気根は生き物のように、うねうねと波打ちながら触手を伸ばし志津を捕らえていた。助けようとして、かえって蔓草で志津の体を縛り付けている自分に愕然とする。クルスの形に志津を縛り付けると、わずかに算長の体が自由になった。
算長はクルスを握りしめ、何かわからない存在に向かって叫んだ。
「だれじゃ。儂を操るのは何者じゃ」
「無礼者。誰にものを言っておる」
見目良い若武者が木の陰から現れた。
「時堯さま」
算長は思いがけない場所で時堯を見て動転した。
「その娘の生肝を取り出し、儂に渡すのじゃ」
「そのようなことを、あなたさまがお命じになるとは、なぜでございます」
時堯はさも可笑しそうに哄笑した。その笑いはとても時堯とは思えない。算長の腕に鳥肌が立った。
志津には時堯の正体が見えているのか、髪を振り乱し泣き叫んでいた。なんとかして
時堯は脇差しを抜いて志津に近づいた。
「よせ」
算長が叫ぶと時堯は振り返った。その顔はなんとも形容しがたい顔であった。悪鬼のように邪悪で血に飢えた魔物のようでありながら、両の目からは涙がこぼれていた。
時堯は一瞬苦しげに眉を寄せた。その苦しげな顔に二重映しとなって別の人間の顔が見えた。目が異様に赤く光っていた。
時堯の脇差しが志津の脇腹を切り裂いた。
志津の絶叫が耳をつんざく。それと同時に算長の体が軽くなる。時堯は志津の体に両手を差し入れ肝を引きずり出した。あたりは鮮血で朱に染まった。志津の叫びはもはや消え、全身を小さく痙攣させていた。
算長は時堯に飛びついて、志津の肝を奪い取った。時堯にそれを渡してはならないという思いだった。肝を志津の体に戻せば生き返るのだと信じたかった。なぜなら、これは夢なのだから。
しかし手の中の肝は温かく、そして血は滴り、あまりにも現実だった。時堯が奪い返そうと襲い掛かってきた。算長が両手を胸に引き寄せ身を引くと、時堯の動きが止まった。算長の胸に掛けられたクルスが、時堯を止めたように思った。
「時堯さま、目をお醒ましなされ」
「時堯ではないわ」
「なに。では誰じゃ」
「儂は三郎じゃ」
ぱち
「津田殿、いかがいたした」
佐竹が心配そうに算長の顔を覗き込んでいた。
「
算長は手に持っていたのは生肝なぞではなく宝珠だった。しかし両手には温かくべたついた感触が残っていた。宝珠を佐竹に見せようとしたのは、どのくらい前のことなのか。いったいどれほどの
「儂は、いかばかりここに立っておりましたか」
「ほんのわずかな間でござるが、様子がちと妙でござった。じっと虚空を睨み付けておいでで、津田殿の名を二、三度呼びましたが聞こえぬようでござった」
「二、三度でござるか」
佐竹は数回、名を呼ぶと算長はふっと我に返ったようだった、と言った。佐竹の話からすると、確かにほんのわずかな間のようだ。しかし、森の中を駆け抜けた疲労が体に残っている。志津の叫び声もまだ耳から離れない。
「津田殿は、お疲れのようですなあ。そういえば西村殿の屋敷に
冗談に紛らわして笑う佐竹の目は笑っていなかった。
若狭が生きていることを、そして算長が匿っていることを知っていると暗ににおわせているのだ。
算長は佐竹と別れ西村の屋敷に急いだ。たとえ若狭が生きていることを佐竹が知ったとしても、罪を得て死んだとされる娘にこれ以上手出しをすることはないだろうと思っていたが、それは甘い考えだったようだ。西村を抱き込み、固く口止めをしておくべきだった。幸田が遠島になり、弥三郎が処刑されれば残るは若狭一人だ。若狭の口さえ封じてしまえば、佐竹の罪は完全になかったことになる。
若狭だけでも別の場所に移さねばならぬ。算長は小走りに駆けながら、頭の中はめまぐるしく若狭の新しい隠れ家を物色していた。算長の船はまだまだ到着しそうにない。長くいられる所でなければならない。
『また、お千の家に匿ってもらうか。いっそ城内はどうだ。時堯にすべてを話したなら命だけは助かるのではないか。いや、それはまずい。たかが夢とは侮れない。時堯が三郎という男に操られ、夢の通り志津を殺したのだとしたら、若狭を預けるわけにはゆかない。では金兵衛のところならどうだろう』
ふいに算長は歩を緩めた。
『佐竹はなぜ俺に仄めかした』
そうか、と算長は自分の迂闊さを恥じた。いくら佐竹でも家老である西村の屋敷に押し込んで、若狭を殺すなどということができるはずはない。自分の罪を暴露するようなものだ。若狭が匿われていることを算長に仄めかせば、慌てて別の場所に連れて行くと踏んだのだろう。
『あぶない所だった。あやうく佐竹の策略にはまるところだった』
西村の屋敷に着いた算長は例のごとく深夜まで待ち、佐竹に知られたことを若狭と安東に教えたのだった。
「用心するに越したことはない。儂の船が迎えに来るまでの辛抱じゃ」
「父と母には、もう会えぬのでしょうか」
「案ずるな。堺に着いたならなにか商売でも始めるがよい。そうなればいつでも父母を呼び寄せることができる」
若狭は悲しげに眉根を寄せてうなずいた。
「佐竹は、本当に来ませんか」
安東も不安そうに訊く。
「絶対に来ないとは言えないが、この屋敷の奥まで入ってくることはないだろう。なにせ若狭は死んだことになっておる。だが万一の時はそなたも守ってやってくれ。武術などできるか」
安東は首を横に振った。そうだろうな、と算長も思う。体はがっしりとしているが神職にあったというし、この気の弱そうな男が侍を相手に立ち回りなどできるはずがない。
「弥三郎は打ち首になったそうですね」
若狭は昼間、西村の妻女から聞いたのだと言った。ついに自分がやったとは認めなかったという。もし夢が正しく事実を伝えているなら、時堯が殺したことになる。時堯は弥三郎の口を封じるために処刑したのか。
算長は、安東と若狭にこれまで見た夢の話をした。法力を使う者が、夢ごときに振り回されるのを知られたくはなかったが、時堯が夢に現れたことがひどく気にかかる。
「それでは、お志津を殺めたのは時堯さまなのですか」
「そうと決まったわけではない。何分、夢なのじゃ」
「でも安東が村田屋を絞殺したところは見えたのですよね」
若狭と算長は、同時に安東に目を向けた。
「あの男はお志津さんを
「だが、結局殺されてしまった」
若狭も安東も無念の思いに耐えられず押し黙った。灯火が揺れて三人の影が心細げに震えた。
「時堯さまが志津を殺める理由がわかりませぬ」
若狭は誰にともなく言った。算長は時堯が志津の肝を取ったことは黙っていた。若狭に話して聞かすにはあまりにも残酷であったし、算長も口にするさえ忌まわしかった。
「儂は時堯さまが、三郎という男に操られているように思った」
時堯が涙を流していたと言うと、若狭はその時の時堯のように苦しげな顔をした。 算長自身、なにかに操られている気がしていたから、時堯もそうではないかと思ったのだ。
「そういえば、時堯さまは近頃、お人が変わられたように見えました。私は火筒のせいだと思っていたのですが」
「確かに火筒を手にしている時の時堯さまは別人のようであった」
「三郎というのは誰なのでございましょう」
「あの時、夢の中で時堯さまによく似た男の顔が一瞬見えた気がしたが。目が赤く光っておった」
「目が赤かったのですか」
村田屋の殺害を告白してからずっと黙っていた安東が訊いた。
「うむ。誰かはわからぬが、夢の中に出てくる者をいったいどうやって退治したらよいものやら」
その日は、まさに小春日和ともいうべき穏やかな日であった。庭のほうから菊の香がかすかに漂ってくる。算長は手枕で横になり、とりとめのない考えにふけっていた。文箱に入れたままになっているクルスが何度も夢の中に出てきた。志津の首に掛かっていたこともあった。算長はなぜ志津をクルスの形に木に結わい付けたのか。それがずっと気になっていた。クルスが神聖なものであり奇跡のクルスと呼ばれていたのなら、三郎という魔物を遠ざけることができたのだろうか。
『昨日の夢では俺が首から掛けていた。俺は志津を守ろうとして、無意識のうちにクルスと同じ十文字に縛り付けたのか。だが、志津は殺されてしまった。本物のクルスは俺が持っていたから、俺は助かり、志津は魔物に取り殺された』
算長は首を振って笑った。
『ばかな。そんなことがあるものか。俺は夢を気にしすぎている』
しかし算長の気分は依然として重苦しいままだった。自分が志津を殺していないことがわかっても、あの時堯が志津を殺したのだろう。若狭が言うように、時堯に志津を殺す理由は見当たらない。時堯は三郎に操られているのだろうか。もしそうならこの種子島はどうなるのだ。
算長は明かり障子に映る木立の影が、時折揺れるのを見るともなしに見ていた。
人の騒ぐ声で目が覚めた。どうやら眠っていたらしい。女中が障子の向こうをばたばたと走っていく。不穏な気配に満ち満ちていた。また例の悪夢か、と身構えたが違うようだ。遠くで、「佐竹さま」と叫ぶ声が聞こえた。
算長はがばりと跳ね起きた。刀を掴んで障子を開け、庭に飛び降りた。妻女の部屋には縁を行くよりも庭を突っ切った方が早い。叫び声は確かに西村の妻女のものだった。
『そうか、死人を斬っても罰は受けぬと踏んだか。死霊を成敗したとでも言うつもりか』
低い垣根を飛び越え、葉の落ちた紅葉の木を回る。
抜刀した佐竹が広縁に駆け上がるところだった。
「佐竹」
算長は叫びなら部屋の前に踊り出た。佐竹が一瞬振り返った。憎々しげに唇の端で冷笑し、部屋に向かった。広縁には女中と西村の妻女が手を取りあって震えている。
部屋の奥には床の間を背にして若狭が立っていた。若狭の左手には奥の廊下へ続く襖がある。その襖から三人の女中が顔を出していた。妻女の叫びを聞いて駆け付けた女中だろう、佐竹の抜き身に目を剥いている。
「若狭、逃げろ」
開いている襖から廊下に出れば、難なく逃れられるはずだ。迷路のような屋敷の中でどこかに身を隠しているうちに、佐竹は取り押さえられるだろう。
しかし若狭は胸の前で手を握りしめ、少しも動こうとしない。落ち着き払っているのか、それとも恐ろしさで足が竦んでいるのか、奇妙に平静な顔で立っていた。
佐竹が刀を振り上げ、部屋の中に飛び込んだ時だった。風を切る鋭い音がすると同時に、佐竹は叫びながら倒れ、足を抱えて転がった。
若狭は、間髪入れず握りしめていた手の中の物を佐竹に投げつけた。白煙が一気に立ち昇り、部屋の中には一瞬にして白いものが充満した。白い霧のようなものは、すぐに無くなったが床は真っ白になった。その白い床の上で佐竹は激しく咳き込みながらのたうっていた。算長も白い粉を吸ったせいで咳き込んでいた。口と鼻を押え、若狭を助けようと縁に駆けあがった算長の足はぴたりと止まった。
若狭の姿が、まるでかき消えたように無いのだ。廊下から覗いていた女中たちも、女主人の部屋にいた娘が、突然姿を消したことに声も出ない様子だった。
算長は女中をかき分け、廊下に出てみたが若狭の姿はなかった。
ようやく駆けつけた
算長は自室に戻り、夜になるのを待つことにした。人々が寝静まれば、若狭はいつものように話をしに来るだろう。
安東はどうしているかと、潜んでいるはずの物入れを開けてみたが、そこにはいなかった。若狭が逃げるか隠れるか、しているのを手伝っているのだろうか。とにかく、二人とも無事であることは間違いないはずだ。
しかし夜が更けても二人はどこへ消えたものか、杳として知れなかった。
家老西村時弘に話があると言われ、浜の離宮に呼び出されたのは、佐竹の乱入騒ぎのあと、しばらくしてからだった。赤尾木の港には算長の船が着いていた。あと数日で根来寺に戻らねばならないが、たくさんの気掛かりを残して種子島を去るのは後ろ髪を引かれる思いだった。
あの日以来、安東と若狭の行方はついにわからぬままだった。千の家、茂助の家、金兵衛の家、その他若狭の知り合いの家などを探したがどこにもいなかった。となると、小舟にでも乗って島外に出たか、あるいは城に隠れているのではないか。しかし、異国人の安東が一緒では、島外に出るのは難しいのではないだろうか。むしろ城であれば身を隠すところはいくらでもあるはずだ。
しかし、若狭が時堯に助けを求めたとは、どうしても考えにくい。時堯が別人のようになってしまったことを若狭も憂えていたはずだ。それに、もし城に隠れているのなら、どうにかして算長へ知らせるのではないだろうか。
若狭と安東が西村の妻女の部屋から消えたように見えたのは、仕掛けがあったことを西村が教えてくれた。床の間の後ろの壁が扉になっていたのだ。万が一に備えたそんな仕掛けがしてあることを若狭は聞いていたのだろう。白い粉を目くらましに使って、その隙に扉から隣の部屋へ出たらしい。廊下から覗いていた女中たちは扉の存在を知らず、床の間の横の違い棚の陰になって若狭が消えたように見えたのだ。佐竹が急に倒れたのも、なにか仕掛けがあったのか、と西村に訊いたがそれはわからないと言っていた。
安東もあの騒ぎの中で、若狭と一緒に姿をくらましたのだろう。算長は八方手を尽くして探したが、ついに二人を見つけることはできなかった。法力を使っても皆目見当が付かず、まるで神隠しにあったようだった。文箱に入れておいたはずの懐剣とクルスがなくなっていたことも、算長に胸騒ぎを起こさせるのであった。
西村は離宮に入ってくるなり、「津田さま、大変なことでござりましたよ」と汗を拭いた。
「佐竹は、若狭が生きていたと言い張るので、危うく私も疑われるところでした」
「儂が匿っていたことを言うたのか」
「とんでもござらぬ。あくまでも若狭などいなかったと申し上げましたぞ。佐竹の乱心ということで決着は着きました」
「それで、皆は信じたか」
「だれも信じてはおりませぬ」
西村は半ば叫ぶように言った。算長は、誰もが嘘だと思うことをことさら真実めかして説明する姿が見えるようで可笑しかった。
「笑い事ではござらぬ。佐竹は五十日の
「ご苦労だったのう」
算長からのねぎらいの言葉が、たったそれだけで西村は気が抜けたように肩を落とした。
「津田さまに来ていただいたのは他でもござらぬ。時堯さまが若狭のことを大変お気にかけておられる。私のところにはいないことを申し上げると、どこにいるのか、無事でいるのか内密に調べるようにとのお指図で。津田さまはご存じなのではありませぬか」
「いや、儂もわからぬのじゃ。方々を当たってみたのだが」
「そうでござるか。津田さまにもわからぬとは。しかし、女一人ではどこへも行けぬでござろう」
西村は安東の存在を知らぬから、そう言うが、むしろ若狭のような女ならば一人のほうが、うまく身を隠すことができるであろう。安東ともし一緒に逃げたのなら、異国人と二人では隠れ住むのは一層難しいはずだ。
「津田さまの法力で、なんとかわからぬものですかのう」
「儂の法力も近頃は怪しいものだ」
算長は自虐的につぶやいたが、西村には聞こえなかったようだ。
「ところで西村殿。三郎という男をご存じか」
「三郎? どこの三郎殿でござるか」
確かに三郎というだけでは雲をつかむような話だ。
「いや、なんでもござらぬ。つまらぬことを申した」
「もしや、幻をご覧になった」
「なぜそれを」
「出るのでござるよ。三郎殿の……なんというおうか、その、幽霊が」
算長が二の句が継げないでいると、西村は自分の言った言葉に恥じ入るように赤面した。
「これは、昔から言われていたことでござる。私はもちろん幽霊なぞ信じておりませぬが、城に出るというのは知らぬ者はおりません。津田さまはお客人ゆえ、この話をお聞かせするものもいなかったのでござりましょう」
「西村殿は見たのか」
「いいえ、私は見たことはありませぬ。見える者と見えぬ者がいるらしいのですが、私は気の迷いかと思います」
「なにか恨みでも残して死んだ男か」
「はあ、それはもう。よい機会でござる。三郎殿の墓参り方々お話し申そう」
西村は一度屋敷に戻り、手向ける花など用意させると言う。
「墓は城の北側にありますゆえ」
種子島家の墓所に向かって急な坂道を上りながら西村は、「これは言い伝えでござるが」と何度も前置きをした上、ようやく三郎について話し始めた。
今から百年ほど前、八代島主、種子島清時の嫡男三郎は、幼少期より虚弱な体質だった。長じてからもそれは変わらず、武芸より学問を好む若者だった。十六歳の時、生母が亡くなった頃より奇行が目立ち始める。些細なことから女中を斬り殺したことで、三郎への不信感は家臣たちの中で抑えがたいものになった。重臣たちは三郎の謀殺を計画する。
「父君の清時さまに同意を求めたそうで」
「三郎を殺すことのか? 息子であろう。まさか聞き入れたのか」
「父君もいろいろあったのでござりましょうな。容認なされたと聞いております。重臣たちは馬毛島で狩りをすると三郎殿を誘い出し、殺したのでござる」
墓所は城の北側の山林を切り開いたものらしい。木々に囲まれてはいるが、手入れが行き届いているためか墓場の陰鬱さはなかった。種子島家代々の墓石が整然と並んでいる。
「こちらでござる」
西村に案内されて墓所の一番奥、一際大きな榕の木の根元にやってきた。墓がどこにあるのかすぐにはわからなかった。墓石は雑草と榕の気根に絡みつかれ倒れていた。
「まったく、何度直しても倒れるのでござるよ」
西村は文句を言いながら小さな墓石を起こしにかかった。算長もそれを手伝い、雑草を抜いてやった。
花を手向け手を合わせると西村は言った。
「幽霊の噂はこれではないかと思うのですよ。なにしろ小さな墓石ですからな。榕の気根が伸びて安定が悪くなって倒れるのを、人は呪いだの、化けて出ただの言うておるのだと」
榕の気根で墓石が倒れるという説明は、わからないではなかった。しかし姿を見た算長としては、三郎の存在を認めないわけにはいかなかった。
三郎という男がごく近くにいる。そう思わずにはいられないのだった。
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