第七話 南蛮の鬼

 仕事場から聞こえてくる鎚の音を、若狭はまるで睨みつけるように

 そこでは金兵衛が瓦鋼かわらがねを鍛えている。その向かいで大鎚を振っているのが弥三郎だ。弥三郎は神聖な火床ほど根際ねきで、父と向き合い、あの殊勝そうな顔で大鎚を振っているのか。

 父はことあるごとに言っていた。はがねを鍛錬することは、すなわち我が心を鍛錬することなのだと。粘りとしなやかさと強さを併せ持つ鋼を作るには温度の管理が最も重要であり、温度の見誤りがすべてを台無しにしてしまう。細心の注意を持ってこれを行うには、万全の体調と集中力、そして火の神の力を借りる真っ直ぐで清らかな心が必要なのだと。

 弥三郎は今、どんな思いで鎚をふるっているのか。若狭は弥三郎の、いかにも神妙な顔つきを思い出し、それが偽りのものであるかもしれないことに激しい嫌悪を抱いていた。父も母も、あの弥三郎にまんまと騙されていたというのか。俄かには信じられないが、若狭にはそういう予感があったのかもしれない。なぜかはわからぬが、弥三郎を毛嫌いしていたのはそのためなのだろう。

 その話が若狭の耳に入ったのは数日前のことだった。スギという一番年かさのおんなが、こっそり若狭に耳打ちしたのである。

 半年前に下働きに来た国上村の菊という娘があの夜、弥三郎が志津を外に連れ出すのを見たという。あの夜とは、頼みごとがあるという志津を、父の話を聞くために待たせた日のことだ。

 弥三郎は、厨でぼんやりと座っている志津に手招きをした。初め志津は首を横に振っていた。しかし弥三郎が声ひそめて、「あのことを親方に言ってもいいのか」と言うと、志津はしぶしぶ立ち上がり、弥三郎と連れ立って、すっかり暗くなった外へと出ていった。

「あの事とはなんじゃ」

「それが、なんのことかさっぱりわからないのでございます」

 菊にその時の様子を聞いても、まるで要領を得ないのだ、とスギはため息をついた。たしかに菊はいつもむっつりとしていて、なにを考えているのかわからない娘だった。まだ十三になったばかりで、働き者だと親が言うだけあって真っ黒に日焼けしている。

「菊は、なぜそれをすぐに言わぬのじゃ。あれから三月みつきも経っているではないか」

「ほんとうに困った娘でございます。余計なことをしゃべらないのはいいのですが、大事なことも言わないので。私も叱ったのですが」

 スギはどう思っているか知らないが、それならば志津を殺したのは弥三郎ではないのか。

「弥三郎と志津は、なにか仲たがいでもしていたのか」

「いいえ。そんなふうには見えませんでしたが」

「では、共通の秘密を持つほど親しかったのか」

 スギは、「とんでもない。そんなことはありません」と大げさなくらいに首を振る。若狭はその時、すぐにでも時堯ときたかに会ってこのことを伝えようとした。身繕いもせず家を飛び出そうとして鍛冶場の前を通った時だった。鋼を鍛える鎚の音が若狭の胸に、まるで杭を打つように響いた。

 父はこの仕事に命を掛けている。火筒の製作を命じられてから十日ほどの間、奥の座敷に籠って絵図面を描き上げたあと、すぐに鍛冶場での仕事にとりかかった。金兵衛の目は日ごとに異様な光を帯び、頬の肉は削げ落ち、母も若狭もおいそれとは話しかけられなくなっていた。

 日の出と同時に水垢離を取り注連縄しめなわの張られた鍛冶場に入る金兵衛の背中からは、今朝は湯気が上がっていた。

 もし、一番の弟子である弥三郎が人殺しなら金兵衛の仕事はどうなってしまうのか。

 弥三郎がいなくては火筒を作ることができないだろう。優れた向鎚むこうつちがなければ上質な鋼に鍛えることはできない。

 金兵衛が横座に座り小鎚を振るう。小鎚は向鎚への様々な指示である。鎚を振るう速さ、強弱、停止などを示すのだ。弥三郎が金兵衛の意を汲み絶妙の力加減で向鎚を振るわなければならない。横座と向鎚が秩序と調和の上で共鳴し、火花となって精神的に高まり、鋼は鍛えられて物以上の物になる。弥三郎は父の技術と精神力を受け止めることのできるただ一人の弟子なのだ。

 火筒ができあがるまでは自分一人の胸に収めておくべきではないか。若狭は迷い迷い引き換えし、スギにはかたく口止めをし、母にも言えずに悶々と日を送っていた。 それだけに弥三郎への疑いは次第に確信になり、不信感は憎しみへと変わっていった。

 鎚の音は、いつだって若狭の心を奮い立たせ、悲しみも苦しみも血肉にせよと言わんばかりに鍛え上げてくれる。響く鎚音が若狭の鼓動と一つになって、命を養う活力を与えてくれる。

 しかし、弥三郎への猜疑に凝り固まった今、鎚音は少しも若狭の心に響いてこなかった。むしろ若狭をさいなむ音となって胸をえぐるのだ。

 あの時に、なぜ志津の話を聞いてやらなかった。志津の様子が普通ではなかったのに、なぜに少しでも聞いてやらなかったのか。

 その思いが、鎚音と共に若狭を打ちのめし、その痛みが弥三郎への怒りへと変質する。

 若狭は握りしめている手に感覚がなくなっていることに気付いた。

 ふっと息を吐き、大きく吸い込んで頭を上げた。

 自分一人の胸にしまっておくには、あまりにも大きな問題ではないだろうか。やはり、だれかに相談すべきだ。だが、いったいだれに? やはり時堯しかいないのだろうか。

 その時、家の中から母が若狭を呼ぶ声がした。嘉女は勝手口の方から若狭を見つけて、小走りに駆けてきた。いつもはおっとりとしている母が駆けてくるなど、珍しいことではあるが、若狭はその訳に思い当たって先に詫びた。

「母上、申し訳ございませぬ。うっかりしておりました」

「ここにおったのか。今日はお客があるからと、あれほど言うたではありませぬか。若狭が頼りなのですよ。料理の材料が揃わぬのじゃ。今朝は蛸が捕れなんだそうじゃ。茂助のところで鶏を絞めてもらってくれぬか。ついでに、お千の様子も見てきておくれ。もしできるなら、お千が来てくれるとありがたいのじゃがのう。いてくれるだけで心丈夫なのだが」

 嘉女は言うだけ言うと、またあたふたと家の中に戻っていった。

 鎚音はまだ続いている。

 若狭はその音を振り切るように急いで茂助の家に向かった。

 茂助が鶏を絞め血抜きを終わらせると、若狭は銭を渡した。茂助は銭を押し抱いて懐にしまうと、遠慮がちに鶏の羽を毟らせてほしいという。

「羽ならば、女たちでもできるゆえ、このまま貰ろうてゆく」

「へえ、羽が欲しいちお人がおいもして」

「羽を? ああ、矢を作るのか」

ところが茂助は、両翼の硬い羽だけではなく胸の羽毛から、首の短い毛までを毟り始めた。すぐには終わりそうもないので、その間お千のところへいくことにした。

 お千は床に臥せっていた。無理もないことだ。

「具合はどうじゃ。食べ物は食べているか?」

 お千は慌てて起き上がる。寝ているようにと、いくら言ってもきかなかった。やつれているが、体のほうは思ったほど肉は落ちていないようである。床の上に起き上がり手を着いて頭を下げた。若狭はお千の肩に夜着よぎを掛けてやって驚いた。見た目は普通の麻の夜着であったが、中に柔らかな物が薄く入っていた。掛けて寝たならば、さぞ軽く暖かであろう。このように珍しい夜着をどこで手に入れたのか。夜着だけではない。お千の家は以前とはずいぶん違っている。明らかに人の手が入っている。上り口の板の一部がそこだけ新しいのと、数年前から取れていた遣戸のさんも直してあった。茂助が直したとも考えられるが、若狭にはどうもそう思えない。茂助はこれほど器用ではなかったはずだ。

志津が死んでからはさすがに具合が悪そうだが、この一年ほどの間に、お千はすっかり健康を取り戻したかのように見える。それだけではない。よく手入れされた畑といい、この夜着といい、ゆとりのある生活を送っているように見えるのはなぜなのか。

「母はお千に、またわが家へ来てほしいと言うておりました」

 お千は一瞬目を泳がせて、「ありがたいことでございます」と頭を下げた。

「ですが、若狭さま。私はここで暮らすのも悪くないと思うようになりました。本当に、ありがたいことなのですが」

「そうか」

 お千は申し訳なさそうに目を伏せたが、若狭には目を合わせるのを恐れているように見えた。

「ときにお千、この家に弥三郎が来たことはあるか」

「いいえ」

 お千は、なぜそのようなことを訊くのか、と不思議そうに首をかしげた。志津が死んでから何度かお千を見舞っているが、志津の話はほとんどしなかった。志津の死を偲ぶには、あまりにも無惨な死に方だったし、生前の志津を語り合うにはまだ月日が足りなかった。しかし、若狭はどうしても訊かねばならぬ、という思いで口を開いた。

「あの夜、弥三郎は志津に、あの事を親方に言うぞ、と脅かされて家から連れ出されたそうじゃ。知っておるか」

 首を横に振るお千に若狭は続けた。

「あの事とはなんであろう。心当たりはあるか。志津は、いったいなにを隠していたのか、思い当たることがあったら、どうか言うてはくれまいか」

 お千は志津のことを思い出すのが苦しいのか、胸に手を当て絶え絶えに息をした。

「私にはなんのことかさっぱり」

「お千。この家にはそなたのほかに誰か住んでおるのではないか?」

 お千は、はっと顔を上げ、「いいえ、私一人でございます」とかすれた声で言った。

「佐平がおるのではないのか」

 呂宋ルソンに売られるはずだった佐平が、どうにかして逃げてきてこの家に隠れているのではないか、と若狭は疑っていた。

 弥三郎はそれを知って志津を脅していた。志津は若狭を通じて時堯に何かを売ろうとしていたが、弥三郎はそれを狙っていたのではないか。そしてその品物は、佐平が持っていた物。弥三郎は佐平の存在を黙っている代わりに、それを手に入れようとした。

 そこまで考えて、若狭は小首をかしげた。どうもしっくりこない。村田屋が値打ちを認めなかった物を弥三郎が欲しがるだろうか。

 だが、佐平がここにいるのなら、妹を救うために村田屋を殺したと考えるのは無理がない。

「いいえ。佐平は呂宋に売られたと聞きました。私は、もう何年も佐平には会っておりませぬ」

 お千の言葉には嘘がないように見える。お千は正直な女だ。若狭に嘘をつくような女ではない。だがこの数か月、しばしば若狭に謝っていた。なぜ謝るのかと訊いても泣くばかりだった。娘を亡くし気持ちが不安定なのだろうと思っていたが、もし佐平を匿っているのだとしたら、それを隠していることの後ろめたさから謝っていたのではないだろうか。

「ならば、畑はだれがやっておる。そこの床は誰が直した。茂助の仕事とは思えぬが」

 お千は涙目になって瞬きをし、縋るような目で若狭を見た。そして思い切ったように床に手を着いたときだった。

「お千さぁ」

 籠を抱えた茂助が、意外なほどの厳しい声で呼んだ。

 茂助は、ちょっと息を継いで若狭に向かって頭を下げ籠を差し出した。

「鶏ぃ、できもうした」

 若狭は庭に下りて籠を受け取り、お千を振り返った。お千は、ほっとしたように肩の力を抜いて、床の一点を見つめていた。茂助も硬い表情で空いた両手を握りしめている。二人が発する空気は、若狭に一刻も早く帰って欲しいと懇願しているようだった。

 籠の底にはすっかり毛を毟られた鶏が脚を揃えて転がっている。若狭は籠を抱えてその場を去った。垣の外に出てから、やはりお千に家に来るようにと言うつもりで振り返った。しかし若狭はなにも言わなかった。お千と茂助がそのままの姿で固まっていたからである。

 家に帰ると、若狭は客を迎える準備に忙殺された。掃除の指示や、足りない食器を借りに行かせ、料理の味付けから盛り付けまでを細かく指図した。

 客というのは、家老の西村時弘ときひろ右筆ゆうひつの佐竹忠知ただとも。根来寺の院主、津田算長。それに篠川小四郎である。西村さまと津田さまは御家来も数人連れて来るはずであるから、御家来衆の休む場所と食べ物も用意しなければならない。

 とにかく、そうそうたる顔ぶれに母嘉女は、それを聞いた日からまったく落ち着かず、緊張のし通しだった。客を迎えた今は、はたで見ていても気の毒なくらいに足が地についていない。金兵衛は事も無げに、粗相のないようにと言うが、迎える女たちの緊張は並大抵ではなかった。

 仕事を早く切り上げた金兵衛は、下座で畏まっていた。嘉女と若狭は酒や料理を持ってこさせる指示を出すために座敷の入り口で控えていた。

 上座にどっかりと腰を据えた津田算長は異形の大男だった。髷を結っていない髪を肩におろし、無紋の黒い羽織と袴を着けている。髪はそそけ赤茶けている。同様に羽織袴も日に焼け毛羽立っているのが、全体として津田を得体のしれない巨人に見せている。眉は太く精悍な顔つきをしているが、目は意外にも涼やかだった。

 若狭は、島では見かけぬ風貌の津田から目が離せなかった。たまに目が合うと、こちらの心を見透かされているような恐れを感じるのだが、こんなに不躾に見てはいけない、と思いながらもまるで引き寄せられるように津田を見てしまう。

 火筒の製作がどこまで進んだかを、見に来たという話だが、客人は気を張り詰めている金兵衛に構わずに南蛮人の話ばかりをしていた。特に津田算長はこの数か月の間に南蛮人の言葉をおおかた理解したとかで、自慢げに「ぱん」「たばこ」「しゃぼん」などと、耳慣れぬ言葉を披露し、その一つ一つを説明していた。時々若狭の視線に気が付いて、片頬で薄く笑った。

 ようやく火筒のことに話が移った時には、若狭はほっとして小さく息を吐いた。見れば金兵衛も眉を開いている。火筒の話ならば金兵衛がこの場にいる意味もあるが、そうでなければ、ただ身を固くして畏まっている以外にない。

「金兵衛、試し撃ちはいつごろになりそうか」

 西村が鼠を思わせる目を瞬いて問うた。

「は、あと十日もあれば可能と存じます」

 金兵衛がさらりと答えるので、若狭は驚いてしまった。西村が言う試し撃ちとは当然時堯の御前でという意味のはずだ。筒ができ上がったのは聞いていたが、正式な試し撃ちの前に、撃ってみるものと思っていた。火挟みは間違いなく火皿に落ちるのか。点火された火薬はあやまたず火道を通って、爆発を誘導し鉛玉を発射させるのか。そして何よりも金兵衛が案じ、なおかつ工夫に苦心した筒の強度はその爆発に耐えられるのか。それを試さずに御前でいきなり撃つなど考えられない。

 しかし、金兵衛は落ち着き払って、筒に付随する細かな金具や筒の床尾しょうびについて説明し始めた。あらかじめ言われていたようで、説明のための絵図面も用意してあった。金兵衛の話が長くなると、西村と佐竹はあまり興味がないのかあからさまに退屈してきた。それとは対照的に津田と篠川は身を乗り出すようにして聞いている。特に津田のほうは時々質問を挟み、目に異様な光をたたえていた。

「金兵衛、筒の工夫というのを子細に話せ」

「は」

 金兵衛は平伏して別の絵図面を出した。

「まず、筒の中空をどのようにして作るか、というのが難問でござりました。鋳物ならば方法もあろうかと思いますが、それでは到底強度が足りませぬ」

「なるほど。鋳物師ではなく、最初からそなたに作らせようとした時堯殿は、さすがに賢君でござるな」

 島主を褒められ、金兵衛は背中を誇らしげに反らせたあと深々と平伏した

「中を空洞にするためにまずは真金しんがねを作りまする。筒の長さが二尺三寸五分ですから真金はそれよりも長くし、太さは七分にいたします。これに鋼の板を巻き付けまする。板は瓦金かわらがねといいます。これはよくよく鍛え厚さ一分五厘の平板とします」

「待たぬか、金兵衛。厚さが一分五厘ならば薄すぎよう。鉛の玉にて破られるのではないか」

 篠川が至極真面目に問う。

「いかにもさようでございます。ここからが私めの工夫でございます」

 と金兵衛は膝を進め説明する。

 荒巻した瓦金を継ぎ合せて、本湧ほんわかしにしてよく鍛える。本湧かしというのは鉄を高熱で熱し、気泡を抜き、炭素の融合をはかり粘りとしなやかさをだす工程のことだ。これによって鉱滓こうさい、俗に言う金屎かなくそが溶け出すことになる。鉱滓が溶けて鋼が溶けない温度。これが鋼の鍛錬の適温とされる。この状態を湧くという。この湧かしの良し悪しで鋼の出来が違ってくる。万一、温度が上がりすぎた場合、鋼はむせてしまう。つまりひびが入ったり折れてしまったりする。 このあたりのことは、これまでに何度も金兵衛から聞いたことだ。金兵衛のように熟練した刀鍛冶でも、この温度を見極めるのは非常に難しく、集中力がすべてともいえる。この工程に関していえば、刀鍛冶の技術と経験で十分に対処できる。

 この先が金兵衛の工夫であった。

 荒巻され本湧かしで接合された瓦金の上に、幅は一寸、厚さは瓦金と同じにしたものをいくつも繋いで長く作る。これをさっきの巻いた瓦金のうえに、筒先のほうから詰めて巻き付けていく。筒先は薄く巻き、だんだんと太くなるように巻く。このときも本湧かしにして十分に鍛え上げる。これを葛巻かずらまきという。巻き終えたら、さらにもう一度同じものを今度は反対巻に巻いていく。これだけでもかなりの強度を得られるはずである。しかし、金兵衛はさらなる強度を求め、刀鍛冶がおよそ考え付かない技を取り入れた。

 日本刀ならば本湧かしにして鍛錬された鋼は、造り込み、素延べなどのたくさんの工程を経て形作られたあと焼入やきいれされる。これは鋼を硬くし強度を上げるためだ。次に焼鈍やきなましという工程が入る。これは鋼の歪みを除き軟らかさを求める処理である。金兵衛はこの焼鈍しを省くことにした。火筒には歪みが残ることになるが、これで火薬が爆発したときの圧力に耐える効果を得られるはずだという。

 若狭は何度聞いても、なぜ歪みのおかげで筒の強度が増すのかわからなかった。しかし、金兵衛が考え抜いた末の工夫であることだけはわかった。若狭はその時、わからないなりに金兵衛の熱を感じ、金兵衛と同様にたかぶったのであった。

 いま、金兵衛の話を聞く津田と篠川も、若狭同様興奮しているのが見て取れた。

「葛巻による張立はりたてが完成しますれば、次は腔を錐にて研磨いたします。筒先に目当めあてを付け、もう一方は尾栓びせんにて塞ぎまする」

 筒の説明が終わると一同は、ほうっと長い息を吐いた。西村と佐竹は何を思っていたかわからないが、津田と篠川は明らかに、この種子島で日本第一号の火筒が完成されることに確信を持ったようだった。金兵衛の説明を聞くまでは、本当に作れるのかどうか不安があったのだろう。

 客人たちが帰ってしまうと、嘉女はしばらくの間放心状態だった。大任を無事に果たした安堵を味わうように、女たちが忙しく片付けをするのを満ち足りた面持ちで眺めていた。

 金兵衛もまた今夜の首尾が滞りなく済んでほっとしたように、絵図面を片付け揃えているところだった。

 若狭は父の横にそっと座り、絵図面を揃えるのを手伝った。

「父上、試し撃ちのことですが」

 そのことを父が考えていない訳がないと思いながらも、訊かずにはいられなかった。

「いきなり時堯様の御前で撃つのでしょうか」

「そのようなことはせぬわ。儂も昨日までに一度撃ってみるつもりでおった。ところが、この床尾が今日になったようやく出来上がってきたのじゃ」

 金兵衛は外してあった木製の床尾を取り上げ、尾栓の上から被せるように装着し胴金どうがねをはめて固定した。指物師に頼んであったが、何度も作り直させてようやく今日に間に合ったのだそうだ。

「初めての仕事ゆえ無理もない」

 庇うように言うが、初めての仕事であることは金兵衛も同じだ。

 父の仕事が、いかに気苦労の多い大変なものであったか、若狭は改めて知るのだった。

「実はな、若狭」

 金兵衛はなぜか気弱そうに言葉を切った。

「父上、どうなさったのですか」

「うむ。筒の強度は心配しておらぬのじゃ。まず間違いなく爆発の威力に耐えられるであろう。だが、一つだけ気になることがある」

 金兵衛は一度はめた胴金をはずし、木の床尾をはずした。そこには四角い尾栓が見えていた。金兵衛は尾栓を指で撫で、ぐっと眉根を寄せた。

「隅から隅までそっくりに作った。この火筒は南蛮人が持ってきたものと寸分違すんぶんたがわず、そっくりそのままなのじゃ。たった一つを除いては」

「その一つとは、何でございますか」

「見てもわからぬものなのだ。若狭、この尾栓の外見はそっくりだが内部はまったく違う。南蛮人のものには尾栓の内側に妙な切れ込みがあった。それは螺旋状らせんじょうの切れ込みを噛み合わせ、捻じ込んで筒の元を塞いでおった。なぜ、あのような面倒な形で塞ぐのか、儂はいくら考えてもわからなかった。ほかの金具ならば、すべてその道理が理解できた。なぜそのような形に作り、そこにあるのか理解できたのじゃ。だが、尾栓の切れ込みだけはわからなかった。むしろあのような形にすれば強度に不安が残る。それで儂は、切れ込みを作らず鋼を本湧かしにしてしっかりと塞いだ。強度の面から言えば間違いではないはずじゃ。しかし、気になるのじゃ」

 金兵衛は眉間に深く皺を刻んだ。

「そこだけが、その一点だけが違っている」

 若狭は父の手に自分の手を重ねた。三十年近く鍛冶に携わってきた手の甲の厚みを感じながら、父の苦しみを軽くする言葉はないものかと考えた。しかし、すぐにどんな言葉も役に立たないだろうと思われた。

 金兵衛の目はじっと尾栓に注がれていた。中の切れ込みを見通すかのように。

 翌日、日の出とともに試し撃ちは行われた。赤尾木の港から二里ほど離れた砂浜には、大勢の弟子たちと嘉女、若狭、それに八板家の使用人たちのほとんどが顔を揃えていた。その中に金兵衛の朋友、幸田孫太郎の姿もあった。幸田は弟子たちに混じって、かいがいしく準備を手伝っている。

 時堯がやったように二十間向こうの台子に白い貝を置いた。金兵衛は砂浜に膝を突き、台木を頬に当てて構えた。

 皆が息を詰めて見守る。

 嘉女は手を合わせ念仏を小さく唱えていた。若狭の鼓動も次第に激しくなっていった。昨日、強度については自信を持っていると言った金兵衛だが、もし何かの間違いで、火筒が暴発したらどんな大怪我になるのか、若狭には想像もつかない。金兵衛の自信が決して過信ではないことをただ祈るだけだった。

 金兵衛が引鉄を引いた。耳を弄する轟音。火筒の先より噴き出す火の粉。立ち込める白煙。

 白煙の中から金兵衛の無事な姿が見えると、若狭は膝の力が抜けそうになった。周りの人々は的の貝が砕け散ったのを見て、歓声を上げている。若狭は嘉女と手を取り合って嬉し涙を浮かべた。

 そのあとの二発は的を外し、最後の一発で再び的を撃ち抜いた。

 こうして試し撃ちはつつがなく終わったのだった。

 御前での試し撃ちまであと数日となった日のことであった。弟子たちは全員が集まり火筒の量産に向けて準備に余念がなかった。時堯からは年内にできるだけたくさんの火筒を作るようにと命じられていたからだ。

 若狭は久しぶりに活気を取り戻した鍛冶場を横目に、家事に精を出していた。温暖な種子島ではあるが、冬の支度はやっておかなければならない。秋に仕込んだ味噌の出来具合を見ていた時だった。表の方から人の怒号が聞こえた。ただならぬ気配に若狭が手を止めて身を起こすと、六尺棒を抱えた役人が三人、ばたばたと駆け寄ってくる。

 若狭はとっさに身を翻して家の中に逃げ込もうとした。しかし、すぐに腕を取られ、地べたにねじ伏せられた。後ろ手に縄を掛けられ引き起こされた。その間、だれも声を発しなかった。若狭も、あまりのことになにも考えることができなかった。

 庭の騒ぎに驚いた使用人たちが、声もなく見守っている。奥から母が飛び出してくるのが見えた。

「なにをするのです。娘がなにをしたというのです」

 嘉女は叫びながら、縛られた若狭にむしゃぶりついた。乱暴に引き剥がされ、突き倒されたが、なおも嘉女は黙らなかった。役人の足に縋りつき、「おやめください。娘をお放しくださいませ」と叫び続けた。

「母上」

 若狭はようやく声を絞り出した。

「これはなにかの間違いです。私は大丈夫ですから。すぐに帰してもらえますから」

「間違いなどではないわ」

 役人の一人が野太い声で答えた。

「志津をあやめたとがじゃ。帰ってはこられまい」

 声に憐みの色がある。それでも、役人は若狭の腕を強く掴み引っ立てて行く。

 道に出ると、近隣の者たちが何事かと出てきていた。役人の姿も十人ほど見える。 その中に、やはり後ろ手に縛られた男がいた。その後ろ姿を見て若狭は驚き、次の瞬間に怒りで頭に血が上った。

 男は弥三郎だった。この卑劣な男は、志津を殺した上に、あらぬことを言って若狭になんらかの罪をなすり付けたに違いない。

「弥三郎、これはどういうことじゃ」

 若狭の叫びに弥三郎は振り返った。色を失った顔で若狭を認めると、目を大きく見開いた。

「若狭さま。私はお志津さんを殺めたりなどしておりません。本当でございます。どうか、信じてください。どうか……」

「無駄口をたたくでない」

 役人は弥三郎を棒で殴りつけた。倒れた弥三郎を両側から抱え引きずっていく。若狭もあとに続いて連れていかれた。振り返ると金兵衛は嘉女の肩を抱き、表情を失くした顔で若狭をじっと見つめていた。

 若狭と弥三郎は、城の近くにある番所に連れていかれた。番所の土間に縛られたまま手荒く横倒しにされ、若狭はうめき声を上げた。

「若狭さま、大丈夫でございますか」

 弥三郎が声をひそめて言う。弥三郎は、額から顎に掛けて流れた血が黒く固まってこびりついていた。

 弥三郎に問いただしたいことはたくさんあるが、口を開けば弥三郎のように殴られるに違いない。

 若狭は唇を噛んで弥三郎を睨み付けた。

 この男を野放しにしておいたことが悔やまれる。

 若狭が捕らえられたことを知れば時堯は必ず助けてくれる、という確信はあった。 若狭は何度か時堯に会い、志津を殺した者の調べがどのくらい進んでいるのかを訊ねた。しかしそのたびに、あまり熱心に探索していないという印象を受けた。殺されたのが下働きの娘と、堺ではあまり評判のよくない商人だったのが、その理由であったようだ。しかし、弥三郎を疑い始めた時に時堯に知らせておくべきだった。若狭がまさにほぞを噛むごとく後悔の念に苛まれている時、一人の男が入ってきた。

「どうも、御役目ご苦労さんです。これは、佐竹さまからの褒美でございます」

 声は幸田孫太郎だった。幸田はなにやらひそひそと役人と話をしたあと、屈んで若狭の顔を覗き込んだ。

「大変な目に遇いましたな」

 幸田は若狭の縄を解いた。いつの間にか役人は姿を消していた。どうやら、幸田は役人に賄賂まいないを渡したようだ。

「逃げなされ。死罪は間違いない」

「逃げるなどと。私はなにもしておりませぬ。時堯さまなら助けてくださります。佐竹さまにお願いして、どうか時堯さまに会わせてくださいませ」

 幸田は悲しげに首を振った。

「その時堯さまが、あなたを亡き者にしようとしているのですぞ」

「そんな。まさか、そのようなこと」

 若狭は笑った。そんなことがあるはずがない。

「時堯さまが御正室を迎えられるのはご存知ですかな」

 うなずく若狭に、「ならば話がはやい」と幸田は言った。

「島津家から迎えた御正室にへそを曲げられては、のちのちまずいことになります。島津は貴久公の時代になってから、その国力たるやめざましく増大しておる。 貴久公は若くして薩摩の守護となったが、それを快く思わない島津一門と大隅の国人衆をわずか数年で平定し、いまや盤石の礎を築きつつある。われらが生き延びる道はいかにして島津家の庇護を得るかということです。若狭どの、そなたがいて、一番困っておるのは時堯さまなのですぞ」

「それで、なぜ幸田さまが」

「儂は佐竹さまに頼まれたのじゃ。佐竹さまは若殿のお苦しみを見かねて儂に相談した。儂が金兵衛どのとは昵懇であるから、そなたに若殿とはもう会わぬように説得してくれと頼まれた。儂がそなたに言おうとしていた矢先に、このようなことになった。儂がもたもたしていたからじゃ。すまぬことをした」

「いくら時堯さまでも、無実の私を死罪にするなどできないはずでございます」

「そのとおりじゃ。いったい誰がでっち上げたものやら。のう、弥三郎」

「やはり、弥三郎が」

「違います。私はなにも」

 弥三郎は転がったまま虫のように身悶えた。

「だが、志津はそなたが殺したのであろう。あの夜、そなたが志津を呼び出すのを見た者がおる」

「た、たしかにお志津さんを呼び出しましたが、私はそのようなことはしておりません。本当です。どうか信じてくださいませ」

「ならば、なぜ志津を呼び出した。なんの用があったのじゃ。あの事を親方に言うぞと脅かしたそうじゃな。あの事とはなんじゃ」

「それは……」

「言えぬのじゃろう。そなたが志津を殺したからじゃ」

 父の信頼を裏切り、のうのうと神聖な鍛冶場で鎚を振るい、いずれ父に取って代わろうとしていた。八板家の人々を騙し、自分と夫婦めおとになろうとしていた。たくさんのそしりがあふれてくるが、どれも胸に詰まって言葉にならない。

「若狭どの、ここはお逃げなされ。あなたは志津と弥三郎の仲に嫉妬して志津を殺させた、ということになっているのですぞ」

「ええっ」と若狭と弥三郎は同時に叫んだ。

「だれがそんな根も葉もないことを」

 憤然として弥三郎は声をあげた。しかし若狭は言葉を失った。志津と弥三郎が。

「弥三郎が志津を度々呼び出していたというのは、だれでも知っている話じゃ。志津を思い通りにしようとしたが、拒まれたので殺したのであろう。志津を殺しただけでは足りず、若狭どのまで巻き添えにしようとした」

 幸田は憎々しげに弥三郎を睨んだ。

「弥三郎、そなたが死罪になるのは当然じゃ。だがな、若狭どのを道連れにはさせぬぞ。一人で地獄に落ちやがれ」

 幸田は弥三郎の鳩尾みぞおちを思い切り蹴り上げた。

「さあ、とにかく逃げるのです」

「でも、どこへ」

「しばらくは森の中へ身を隠しなされ。知り合いの家は探索されるはずじゃ。数日してほとぼりが冷めたころ儂の家に来るのじゃ」

 若狭は幸田の好意をありがたいとは思ったが、それでもここから逃げることに関しては懐疑的だった。しかし幸田は、若狭に考える暇も与えず早く逃げるようにと急かすのだった。

「幸田さま、逃げれば役人は追ってくるのではないですか」

「役人には儂がうまく言っておく。そのために鼻薬もきかせたのじゃ」

 幸田に急き立てられ、若狭は礼を言って森の方へ走り出した。

 森に差し掛かり、ようやく息を整えた時だった。城の方角から怒号が聞こえた。若狭はそれが自分を捕まえに来た役人であることを直感した。同時に、森の奥へと全力で駆けだした。

 予想外に早く役人が追ってきたので、若狭の頭は混乱していた。なにも考えられず、ひたすら逃げるだけの、まるで野生の小動物だった。藪を駆け抜け木の枝を払い小川を渡り、闇雲に森の奥へ奥へと走った。しかし役人の足音は次第に距離を縮めて来る。若狭が追手との距離を測ろうと振り返った時だった。草に隠れた窪みに足を取られ、藪の中に勢いよく転がり込んだ。耳障りな風の音が自分の呼吸だと気が付いて、若狭は自分に余力がほとんど残っていないことを悟った。

 観念してしまおうか。

 そう思った時、不意に自分の体が持ち上げられた。

 声も出なかった。

 音も無く近づいて来た者は、若狭を軽々と抱えるとましらのように木々の間を抜け、窪地を飛び越えた。疲れも見せず谷底が見渡せるところまでくると若狭をおろした。

「どうじゃ、下りられるか」

 若狭はその者の顔を見て、「あっ」と声を上げた。

 金兵衛のところへ客人としてやってきた津田算長だった。

「そなたなら苦もなく下りられるであろう」

 と、津田は笑った。

 若狭はうなずくしかなかった。ここでぐずぐずしていれば、すぐに役人に追いつかれてしまう。

「儂の後ろをついてくるのじゃ。万が一、転げ落ちても儂が受け止めてやろう」

 津田に言われるままに若狭は谷を下った。夢中で下るうち、じきに川に出た。水源に近い川は夏でも冷たいが、秋も深まった今日は身を切るように冷たい。しばらく行くと川幅はわずかに広くなり、川岸を歩けるようになった。

「ここまで来れば安心じゃ」

 津田の声に安堵感がにじみ出ている。その声を聞いて若狭も、ふっと肩の力が緩むのを感じた。すると、自分の身に突如として降りかかってきた変事を改めて思い返す余裕が出てきた。弥三郎が志津を殺めたのではないか、という疑いが間違いでなかったことはわかった。しかし、まさか若狭までが疑いを掛けられるとは思いもよらぬことだった。信頼を寄せていた時堯が若狭を亡きものにしようとしている。そのことだけでも目の前が真っ暗になるような衝撃だった。

 あまりのことに、なにから考えていいのかわからなくなる。弥三郎と志津とは、若狭が知らないだけで人も噂するような仲だった。幸田は確かにそう言った。志津を思い通りにしようとして、言うことを聞かなかったので志津は殺されたのだ。それに乗じて時堯は若狭を葬り去ろうとしていた。弥三郎はおそらく、自分の罪を軽くしようとして、若狭にそそのかされたことにしたのだろう。

 右筆の佐竹に頼まれて、時堯に会わぬようにと幸田が忠告する矢先のことだった。 側近の間でも若狭は厄介な存在だったのだ。

『幸田さまは、私に逃げるようにとおっしゃった』

 幸田が執拗に、若狭に逃げることを勧めていたのが引っ掛かる。

「そなた若狭と申したな。なぜ逃げた」

 幸田が逃がしてくれたことを言っていいものかわからず黙っていた。

「逃げれば罪を認めたも同じ。追われるに決まっておる」

 若狭は津田の顔を見上げた。そばで見ると、津田はまさしく大男だった。若狭の目の高さは津田の胸にも届かぬくらいだった。津田は相変わらず、何もかもを見通してしまうような涼しい目をしていた。

「弥三郎が殺したのです」

「そなたはそれを見たわけではなかろう」

「それはそうでございますが」

 しかし若狭にとっては、志津を殺した者は弥三郎以外に考えられなかった。

「津田さまは、なぜ助けてくださったのですか」

 津田は一瞬、考えるそぶりを見せたがすぐに、「そなたは殺めておらぬからな」と言った。

「なぜ、おわかりになりますか」

 津田は、こんどは声を上げて笑った。

「そなたは、ほんに男勝りなおなごよのう」

「幸田孫太郎さまが逃げよと。役人にはうまく言っておくと。されど役人はすぐに追ってきました」

「幸田か、彼奴あやつ

 津田はそれきり黙ってしまった。なにかを考えているようである。二人は、そのまま川沿いに一里ほど下った。すると馴染のある川に合流した。甲女川だった。

「あの、これからどこへ」

 若狭が訊くと、津田は、「儂が世話になっている西村殿の屋敷じゃ」と事も無げに言った。

 西村といえば、先日客人として八板家に来た家老だ。若狭は西村の皺の多い貧相な顔を思い出していた。しかし、はっと気が付いて、津田に言った。

「西村さまのお屋敷といえば、御城下ではありませぬか。すぐに見つかってしまいます」

「そうよのう」

 津田はいたって暢気に顎を撫でた。

「どこかで暗くなるまで待ったほうがよいだろうな」

「川沿いに私の乳母だったおなごが住んでおります。周りは百姓家が数軒あるだけですので好都合かと」

「うむ。そこへ案内あないいたせ」

 津田は鷹揚にうなずいた。

 千の家の板葺きの屋根が見えると、若狭は懐かしさで涙が出そうになった。ほんの数日前に訪れたばかりであったが、いまの我が身を思うとまるで遠い日のことのようであった。

 津田も若狭の様子から、目指す家であることがわかったようだ。

 津田がヘゴの木の大きく張り出した葉を除けた時だった。千の家の畑に人影が見えた。津田は、「音を立てぬように」と目顔で言って、静かに近寄っていった。

 人影は男であるようだった。身なりからは百姓のように見えた。頬かむりをし、熱心に畑仕事をしている。

 若狭も慎重に津田の後から近づいた。男は豆を収穫し籠に入れていた。豆のつるを這わせている竹が、いやに上手く立ててあって不思議に思っていたが、この男がやったのかとようやく合点がいった。

 男は背丈はそれほど高くないが、がっしりとしていて、茂助でないことは明らかだった。顔は見えないが、志津の兄の佐平でもない。

 津田はしばらく様子をうかがっていたが、ただの百姓だと思ったのだろう、つと男の前に姿を見せた。

 すると男は籠を投げ出し、棟続きになっている物置小屋にするりと入っていった。

 若狭と津田はしばし顔を見合わせた。

 表に回り、おとなうと千はいつもと変わらぬ様子で現れた。近頃はすっかり体力を取り戻し、昼間に横になっているようなこともなくなったのだ。

 若狭の隣に津田がいるのを見ると、千は驚いて見上げ、そのまましばらくは口を開けて呆けていた。確かに津田の七尺近い体躯に、髷を結わぬ総髪と黒い羽織袴という姿は、異形といえば異形である。

「お千、故あってしばらくここにいさせてはもらえぬか。こちらは津田さまとおっしゃるおかたで、私が大変せわになったおかたじゃ」

 千は、粗末な家の、それでも上座と思われるところに円座を置き、陋屋ろうおくであることを詫びて頭を下げた。

「構わぬ。急に参ってすまぬのう」

 この家にも、いずれ役人が来るだろうが、寸刻でも屋根のある所で休めるのが嬉しかった。畑で見かけた男のことを、千に問いただしたいが、津田はなにか考えがあるようで、若狭には目で制するのだった。

 泥を落とし人心地がつくと、もう一つ気になっていることを津田に訊ねた。

「津田さま、なぜ私が逃げたのをご存じだったのですか。それに逃げた先を知っておいでだったのはなぜですか」

「儂は少々法力を使う。そなたの向かったほうへ先回りをしたのじゃ。それに、そなたと弥三郎が志津という娘を殺めたという噂を聞いてから、そなたのことを気にかけておった」

 それを聞いて、千は両手で自分の口を塞ぎ、大きく見開いたままの目は混乱の中にありながら、事の真偽を若狭に強く問うのであった。

「お千、ただの噂じゃ。私がお志津を殺めたりするものか」

「では、弥三郎さんが志津を」

 それには答えずに、「お志津と弥三郎はわりない仲だったというのは本当か」と若狭は訊いた。若狭は自分の言葉に胸がえぐられるようだった。

 千もまた、苦しげに身を屈めて、「申し訳ありません」と絞り出すように言った。

 顔を見れば、たびたび謝っていたのは、このことだったのか。

「本当なのだな」

「若狭さま、志津は困っていたのです。断っても断っても弥三郎さんは、しつこく言い寄ってきて困っていると言っておりました。志津は決して若狭さまを裏切るようなことはしておりません。本当でございます。どうか信じてくださいませ」

 千は涙ながらに掻き口説き、また謝った。

「お千、もうわかった。わかったゆえ、謝らずともよい。すべて弥三郎が悪いのじゃ。弥三郎はお役人の手で成敗されるであろう。お志津は戻って来ぬが、それで溜飲を下げるとしようぞ」

 最後のほうは涙声だった。

 弥三郎への憎しみをかき立てることで、若狭は生々しい心の傷を忘れようとした。

 津田は二人の女が手を取りあって泣くのをじっと見ていた。しばらくして言った言葉は場にそぐわない意外なものだった。

「千とやら、酒はあるか」

「これは気が付きませんで。あいにくお酒はございませぬが、湯漬けなど用意いたします」

「いや、酒がよい。どこぞで都合してくれぬか」

 そう言って懐から銭を出し、千に渡した。千は気が進まぬようだったが、断ることなどできるはずもなく、急いで出かけていった。

 千が出て行くのを待って、津田は物置のある方へ歩いて行く。普通に歩いているようだが、足音はまったくしない。

 引き戸を開ければ土間があったはずだが、今は床が半分張られてあった。外からの入り口は土間のままで、その狭い場所に鍬や籠などがぎっしりと詰め込まれていた。さっきの男は隙間なく置かれた道具類を跨いでここに入ったものと思われる。しかし、男の姿はどこにもなかった。むしろの乗った大きな長持があるばかりだった。

 津田は床の上を慎重に歩き、足先でなにかを探っていた。床は比較的新しいが、張られたばかりというわけでもなく、そこそこに使い古された色をしていた。

 津田はなにかを探り当てたようで、若狭に下がっているようにと合図をした。

 脇差しを抜き、板の隙間にそっと入れる。勢いよく床板を引き剥がした。床板は音も無く剥がれ壁に飛んだ。

 床下の暗がりで、何かが素早く奥に隠れるのが見えた。津田はその長い腕を素早く伸ばしなにかを掴むと勢いよく引きずり出した。

 猫のように襟ぐりを掴まれた男は、確かに畑にいた男であった。しかしその顔を見て、若狭は長虫を見た時のように怖気おぞけをふるった。人の姿はしているが、顔つきや体つきが明らかに異種のものだった。

「若狭、こやつは南蛮人ぞ」

 そう言って、乱暴に床へ落とした。

「なぜ隠れておった」

 男は明らかに怯えた様子で壁際まで這っていくと、背中を壁に付け震えながら両手を胸の前で組んだ。異国の言葉をつぶやき、一心に祈っているようであった。

 津田は奇妙な言葉で男に話しかけた。すると、男はぱっと顔を輝かせ、なにやら答えている。

 津田と話をするうちに南蛮人は、自分の身の上を語っているのだろうか、涙ながらに話を始めた。

 若狭はその様子を息を詰めて見ていた。恐ろしいとさえ思った南蛮人の顔は、見慣れるに従って存外優しげな顔に見えてくる。

 話が一段落すると、津田は南蛮人が話したことを教えてくれた。

「こやつは、昨年の秋からここに匿われていたのだそうじゃ」

「昨年の、ですか」

「うむ。昨年の台風の折、唐船が漂着したのを知っておるか」

「はい、西之浦に漂着した船には南蛮人の商人が乗っていたと父から聞きました。その者たちが、今年の八月に再び訪れたのだと」

「南蛮人は何人来たか聞いたか」

「二人と聞きました」

「それは今年じゃ。昨年は三人来た。そのうちの一人がこの男じゃ」

「それでは、昨年からずっとここに」

 若狭は驚くよりもあきれ果ててしまった。よくも今日までだれにも見つからずにきたものだと思う。よくよく用心をしていたに違いない。今日のように、山の方から人が来ることは、まずないので油断していたのだろう。だが、なぜそこまで人目を避け、千もまた隠さなければならなかったのか。

満剌加マラッカではpadreパードレだったそうじゃ」

「なんですか、それは」

 若狭は南蛮人の言葉をいとも容易たやすく操る津田を怪しみながら言った。

「我が国でいえば、まあ坊主だな」

「そのような人がなぜ、倭寇の船に乗っていたのでしょう」

 津田は男から聞いたことを、話して聞かせた。

 男の名はアオントニオ・モッタ・マルコンデス・グエラ。満剌加では主要な教区をまかされる要職にあった。しかし訳あって身を隠さねばならないことになった。双嶼リャンポーには明への布教活動を行っている神父がいるのでその人を頼るつもりだった。ポルトガルの商人たちと一緒に五峰の船に乗ったのは、去年の夏のことだった。あと数日で双嶼に着くというとき、ひどい嵐に遇い船はこの島に漂着した。船を修理し水や食料を積む間、アントニオは五峰と商人たちが、双嶼には行かず満剌加に戻る相談をしていた。ここから満剌加に戻り、再び双嶼を目指すより、この島から明に行くほうがはるかに近い。未開の地に一人留まるのは不安だったが、水や食料を分けてくれた島民たちは温厚で親切そうだった。なによりも満剌加に戻るのは危険であった。

 アントニオは出航直前に船を降り身を隠した。しかし、予想外だったのは、アントニオの姿を見た島人の反応だった。五峰や倭寇には、警戒はしていてもアントニオを見たときのように恐れ騒いではいなかった。しかし砂浜に一人残ったアントニオを見て、島の娘は泣き騒ぎ、男たちを大勢連れて戻ってきた。男たちは手に手に武器を持ち、口々になにかを叫んでいた。意味はもちろんわからないが、自分がまるで悪魔のように打ち払われようとしていることはわかった。あとで知ったことだが、災いを招く異界から来た邪悪なものという意味の「鬼」だと思われていたらしい。

 アントニオは男たちから逃れ海岸の洞窟に隠れ住んだ。そこで雨水をすすり貝を獲って数週間過ごしたが、栄養不足と疲労と今後の不安とで精神に異常をきたし、ふらふらと洞窟から這い出たところを志津に救われた。それからは千の家の物置で寝起きした。元来手先が器用なので重宝がられ、千は息子のように可愛がってくれたという。

 千の家がいつの間にか手入れをされたのも、畑が耕されたのも、もっと言えば千の病が癒えたのもこの南蛮人がいたからだったのだ。そういえば昨年、鬼が出たと大騒ぎになったのは唐船が漂着した後のことだった。鬼とは、この南蛮人のことだったのだ。

 いつのまに帰ってきたのか、千がふくべを抱えて戸口に立っていた。蒼白な顔で今にも泣きそうだった。

「お千、なぜ隠しておった。言うてくれればよいものを」

 千は土間に跪いて泣き伏し、また謝るのだった。若狭に隠しごとをしていたのが、それほど心苦しかったのか、と少々訝しく思いながらも哀れに感じて、「そんなに謝らずともよい」と宥めた。

「若狭さまに隠し事をした上に、人殺しの異国人までを匿っていたことは、どう言い訳しても、申し開きのできないこと。この者共々どうかお役人に突き出してくださいませ」

 そこまで言うと、千ははっとして大きくかぶりを振った。

「いいえ、そうなれば金兵衛さまや奥さまにも累の及ぶこと。ひと思いに我らを殺してくださいませ。娘に死なれ、息子は異国の地で奴隷となり、この先なんの生きがいがありましょう。この一年、異国人でありながらまるで息子のように、この者は尽くしてくれました。それだけで、私は幸せ者でございます。なにも思い残すことはございません」

「待て、お千。この南蛮人がだれを殺したというのじゃ」

 千は涙に濡れた顔を上げ、「あ」と小さく声を漏らした。露見していない秘密までも明かしてしまったことを悟ったようだ。

 南蛮人は何が起きているのかわからず、千と若狭の顔を不安そうに見比べていた。

「お千、この者は人殺しなのか?」

 若狭は千に家に上がるように言った。

「もう、隠し事はなしじゃ。私も津田さまも、そなたたちを悪いようにはしない。みんな話すのじゃ。よいな」

 千は袖で涙を拭き息を整えた。

「あんとうは、ほんに気持ちの優しいおのこでございます。あんとうというのはこの者の名前でございます」

 千はそう言うと、南蛮人に向かって、「守り袋をお見せしなされ」と、着物の衿のあたりを触る仕草をした。

 南蛮人は少しは言葉がわかるようで、「はい」とおかしな日本語で返事をし、首に下げている守り袋を引っ張り出した。太く短い指で器用に守り袋を開くと中から折りたたんだ紙を出して広げた。

 紙には「安東」と書いてあった。

「志津がつけてくれました。東にやすんじる、という意味だと言うておりました」

 千は言葉を詰まらせ、涙を見せぬようにしばらくこらえていた。そして大きく息を吐き、先を続けた。

「安東はなにを話したのでございましょうか」

「満剌加でなにをしており、なぜこの島に来たか。島に来てから志津に助けられるまでを話したぞ」

 と、津田が言うと、千は「あなたさまは、安東の国の言葉がわかるのですね」と改めて感心したように言った。

「うむ。この数か月の間、慈恩寺に日参にっさんして南蛮人から習ろうた」

 千は遠慮がちに、教えてくれるよう頼んだ。志津と出会ってからのことは知っているが、それ以前のことを知るほど、双方の言葉の壁が取り払われていたわけではないのだ。

 津田が意外な親切さで、さっき若狭にしてくれたのと同じ話を繰り返した。

 千はじっと聞いていたが、安東が鬼と罵られたくだりではまるで自分が言われたかのように苦し気に眉を寄せた。

「安東をここに住まわせていることは、志津も若狭さまに申し訳ないと、いつも言っておりました。私どもは、何度か安東に隠れるのを止めてはどうかと説得しましたが、私たち以外の日本人は恐ろしいと言って、頑として聞かないのです」

「心許せる日本人の中には茂助も入っているのじゃな」

 若狭が訊くと、千はまた頭を床にこすり付けて謝った。

 あの時、と若狭は千の家に行ったときのことを思い出す。志津の兄、佐平を匿っているのではないかと詰め寄った時、千はもう少しで白状してしまうところだった。しかし茂助が現れ、千をさえぎったことがあった。なるほど、千と茂助は安東にとって信頼できる日本人に違いない。

『そういえば、あの夜着もそうじゃ』

 お千に肩に着せ掛けた夜着は、若狭がこれまでに知っている夜着ではなかった。普通は中に蒲の穂や布屑を詰めた、重く手触りの悪いものだ。南蛮人の国では、きっとあのような柔らかで軽く温かい夜着を使っているのだ。

 若狭は夜着の柔らかい手触りを思い出し、ふと茂助が鶏の羽を欲しがったことを思い出した。矢羽を作るものと思っていたが、それにしては羽毛までもすべて毟っていたのを変に思ったものだ。夜着の中には鶏の羽毛が入っていたのだろう。

 お千や茂助の腑に落ちない言動が、いまならすべて安東という南蛮人のせいだったということがわかる。

「安東の日本人への不信感は相当なものでした。それが、あの村田屋という堺の商人が来たことで一気に噴き出したのではないかと思います」

 千は言葉を切って唇を湿らした。

「志津がクルスを若狭さまにお見せすると言って出ていった夜」

「お千、クルスとはなんじゃ」

「安東が持っていたお守りでございます」

「それを時堯さまに買っていただくつもりだったのだな。お守りのようなものを高値で買っていただけるものであろうか」

「安東が言いますには」と千はちらりと安東を見た。安東は心配そうな目を千に向けている。自分の話がどこまで正確に千に伝わっているのか、千がどのように信用ならない日本人に話すのか、不安で仕方がないのだろう。

「クルスは大変神聖なもので、安東がさる恩人から貰うたものだそうです。異国のお守りなら、若狭さまのお口添えがあればきっと買っていただけるだろうと志津が言うておりました。村田屋は志津が若狭さまのところへ行くのを渋々承知して、戻ってくるのを待っておりました。あの時は茂助も来ていて、一緒に待っていてくれたのです。夜が更けて村田屋は居眠りを始めました。私はそれが寝たふりなのを気付いていました。ちらちらと茂助のほうを見ていましたから。私は心の中で、茂助が眠らないよう祈っていました。茂助が眠ってしまったら、村田屋は志津をさらいに行くのではないかと恐れていたのです。志津を気味の悪い目で見ていましたから。でも、茂助はうたた寝を始めてしまいました。村田屋は小用に立つようなふりをして外に出て行きました。私は胸が潰れる思いで、茂助を起こそうとしたのです。その時、安東が物置からそっと出てきました。そして茂助を起こさないようにと身振りで言うのです。安東は村田屋の後を追って出て行きました」

「翌日に、村田屋の死体が川で見つかったのじゃな」

 若狭が言うと千はうなずいた。

「安東に確かめたのか」

「いいえ、怖くて聞けませんでした。ただ、安東が戻ってきた時の様子からそうだろうと思っていました」

 若狭は、安東を問いただして確かめるべきか否か判断に迷い、津田の顔を見上げた。津田は腕組みをしたまま、長い間考えていたが重々しく口を開いた。

「もし、村田屋を殺したのがこの男なら、志津を殺したのもこの男だということになるだろうな」

「そんな、それは違います。私が請け負います。安東は志津を妹のように可愛がっておりました。志津が殺されたと聞いて、安東がどんなに怒り悲しんだか私は知っています」

「一年以上身を隠していた異国人だ、疑われても仕方なかろう。弥三郎が疑われ捕縛されたが、彼奴あやつは否定しておる。そこへ安東が現れたなら、まず間違いなく安東の仕業ということにされるだろう」

 その時、津田は顎を上げて中空を睨み、「来たな」と言った。

「役人でございますか」

「そうじゃ、こちらへ向かっている。安東、支度をせい」

 津田は南蛮人の言葉で繰り返した。安東は慌てて立ち上がり着物や分厚い書物を包みにまとめた。

「津田さま」

 再び物置の床下に隠れるようにと、言ったものと思った若狭は驚いて津田を見た。

「西村の屋敷に連れてゆく。ここにいては見つかってしまうであろうから。さあ、若狭も行くぞ」

 三人が連れ立って千の家を出ようとすると、千は若狭に包を手渡した。

「志津の着物でございます。こんなものでも無いよりはましかと」

「お千。すまぬ」

 若狭は千の手をぎゅっと握った。

「達者で暮らせよ。なにかあったら父を頼るがよい。母もそなたのことをいつも心配しておる。茂助にも世話になったと伝えてくれ」

 千は涙で声も出ない。ただ若狭の手を握り返し何度もうなずくだけだった。

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