第三話 さ丹(に)つかば
派手な身なりをした放下師が、島にやってきたという話はすぐに城内にも知れ渡った。城下の辻で面白可笑しい芸を見せているらしい。だれが言いだしたのかは知らぬが、その放下師が城に召されることになった。
三郎の部屋にも放下師の鳴らす太鼓の音や、人々の喝采が聞こえる。書見する三郎の耳には不愉快極まりない雑音だった。目は文字を追っているが、少しも頭に入ってこない。下賎のものが喜ぶような卑俗なものを、城に呼んだばかりでなく、
三郎は書物を閉じ母の部屋を訪ねた。北側の廊下の突き当りに母の部屋はあった。三郎の姿を見ると母は慌てて起き上がり、女中に小袖を持ってこさせ肩に掛けた。
「三郎殿、言うてくだされば支度をしておきましたのに」
「親子の間柄でなんの支度が要りましょうか。母上は御病気なのですから横になっておられればよいのです」
母は、「そんなわけにはいきませぬ」と笑った。
北の端にある母の部屋までは放下師の音曲も聞こえない。それがせめてもの救いだった。母が臥せっていることを承知で、あのような浮かれた芸人を呼ぶなど、とても正気とは思えない。それにこの部屋だ。母の部屋はもとは南の角だったのだ。それが病に倒れてからこんな日当たりの悪い部屋に移された。母は自分から静かな部屋に移りたいと頼んだと言うが、そんなことは信じられない。父の心の裡が透けて見えるようだった。
「三郎殿、少し痩せたのではありませぬか。それに顔色もよくありませぬ。書物ばかり読んでいてはなりませぬぞ。もっと体を鍛えておかねばいざという時に困りましょうぞ。もっと父上と狩りなど出掛けなされ」
顔を見るたび同じことを言う母に、三郎は微笑んで、「そのように致します」と答えた。父が妾腹の四郎を寵愛し自分を疎んじていることは、決して母には知られてはならない。だが、もうじき十七になるというのに、元服させようとしないのは、弟の四郎に跡を継がせようとしているからではないのか。そのことに、いつ母が気付くかと思うと気が気ではなかった。
「あなたは嫡男なのですから、お家のことを第一に考えねばなりません。三郎殿がもし病にでもなれば種子島家の一大事ですよ」
そう言う母は家のためにひたすら耐え忍び、挙句の果てに病を得てこんな惨めな生活をしている。父がいつ家督を譲るつもりかはわからぬが、少なくとも自分が後継者であることが家の内外に示されれば、母の待遇について意見することもできるはずだ。
「母上も、遠慮なさらずに食べたいものをお言いつけください。お薬も充分に届いておりますか」
「三郎殿のそういう優しさが私には薬でございますよ。近頃は食べたいものもありませぬから」
母はやせ細った手で髪を撫でつけながら微笑んだ。
母の部屋を辞して中庭のほうへ足を向けた。まだ放下師の芸が続いている。廊下の端から半身だけで覗き見ると、女柄の派手な小袖に金糸を縫い込んだ長い袖なしという、目を剥くような出で立ちだった。しかし、
父と四郎が並んで見物している。そのすぐ後ろには四郎の母、お咲の方が座っている。四郎や父と並んで座らないのは遠慮しているつもりかもしれないが、家臣たちから、下は
三郎は城を抜け出し森へ向かった。小川のほとりまで来て、あたりを見回したが人の姿はなかった。
『確かに今日も来ると言った』
しばらく待ってみたがだんだんと不安になる。
『名を聞けばよかった』
三郎はもう少し待ってみるつもりで、近くの木の根元に腰を掛けた。
女に会ったのは昨日のことだ。島の女ではないことはすぐに見て取れた。京からでも来たのかと聞くと、どちらとも取れるように首をかしげて笑っていた。浮世ばなれした女だった。
小川の中ほどで膝まで水に浸かった女は、こちらに背を向け全裸で立っていた。薄暗い森の中で川筋はわずかに光を集めていた。なだらかな曲線を描いた裸体は白く光を放っていた。濡れた髪を
三郎が吸い寄せられるようにふらふらと近づくと、女はゆっくりと振り向いた。三郎はその美貌に痺れたように立ちすくんだ。女は微笑んだ。少しも恥じらっている様子はない。
「着物を取っていただけませんか」
涼やかな声が耳朶をくすぐる。三郎は声に聞きほれて、意味をくみ取れなかった。女の姿は見えてはいるが目に入らず、声は聞こえているが耳に入らない。
「あの、着物を」
ようやく我に返った三郎はあたりを見回した。そばの枝に柿色の着物が掛けてあった。三郎がそれを渡すと、女は慎ましやかに背を向けて着物を肩に掛けた。
その時、三郎は女の背の痣がただの痣ではないことに気付いた。
「そなたの、その肩にあるのは」
「これでございますか」
一度掛けた着物を滑らせ、両肩の痣を見せた。
「蓮の花のようだと、母が申します」
両方の白く細い肩に、鮮やかに赤い蓮の花が浮き出ている。
「生まれた時からあるのか」
三郎の問いに、「はい」と返事をし、着物の帯を結ぶと丁重に頭を下げた。
「なぜこんな所で水浴びをしておった」
「あの木からここが見えましたので」
答えにならないことを言って、女は森の奥を指差した。指さす方を見ればたくさんの木が生い茂っている。
「どの木じゃ」
「絞め殺しの」
聞き咎めて振り返ると、女は身を翻し森の奥へと走り去ったのだった。三郎は白い足先が森の木々に吸い込まれていく様をいつまでも見ていた。
『そうか、絞殺しの木といえば
三郎は腰を上げ、昨日女が指差したほうへ歩き始めた。いくらも行かないうちに榕の大木が枝を広げていた。密に茂った葉でそこだけ一層暗かった。枝の下には他の木が育つことができず、いじけた灌木と
榕は椰子の木などに
いったいどれほどの樹齢なのだろうか。かなりの大木だった。絡みつかれた木はとっくに枯れて、榕の木に暗い
木の洞か、枝の上にでも女がいるのではないかと、三郎は探した。しかし女の姿はどこにもなかった。絞め殺しの木から小川が見えたと言っていたのを思い出し、三郎は木に登り、小川の方を振り返って見た。枝の間から水の流れらしい光が瞬いているのが見えた。
三郎は木の枝に腰を掛け、女の美しい裸体を思い出していた。昨日から何度思い浮かべたかしれない。そのたびに、あの女はこの世のものではないのかもしれないという気がしていた。こうして榕の木に登って女を思えば、榕の精ではなかったかという気もする。三郎はまるで女に抱かれているような気分になってきて、長らくその場から離れることができなかった。
放下師はその後も何度か城にやってきた。芸を見せることもあれば、父と打ち解けて話をしていることもあった。父は放下師がいたく気に入ったようであった。
ある日のこと三郎は、母の見舞いに行った帰り、
蔵の立ち並ぶ一角は、普段ほとんど人が立ち入らない場所である。そこにあの放下師がいた。子切子の芸を見せていた時とは別人のように殺気を漲らせ刀を振っていた。人目を避けるようにして、剣術の稽古をしている理由がわからない。とても芸のための稽古には見えなかった。
三郎はその場をそっと離れ自室に戻って新八を呼んだ。
「新八、あの放下師の事、なにか知っておるか」
新八は膝を進め、一礼してから答えた。
「あの者、ただの放下師ではないようでございます。二日ほど前に平戸から船が参りました。船から降りた商人が、あの放下師と城下で会っておりました。顔見知りのようでございました」
「放下師ならば諸国を放浪しているのであろう。平戸にも行っていたのではないのか」
「それが、いやに礼を尽くしておりまして。まるで臣下のように」
「平戸の商人に礼を尽くしておったのか」
「いえ、逆でございます。商人のほうが放下師に、こう、頭を低くして、まるで臣下のように」
近頃、放下師や猿楽師に身をやつして諸国をまわる、忍びが横行していると聞くが、そのような者だろうか。しかし、島国である種子島にそのようなことは無縁だと思っていた。もし忍びならば、誰がなんのために放ったのか皆目見当がつかない。
「新八、少し調べてみてくれ。放下師のねらいが何なのか、それが知りたい」
新八は、「承知しました」と答えて下がったが、三郎は危ぶんでいた。放下師が忍びの変装ならば、いくら新八が機転のきく男でもとても太刀打ちできないだろう。
三郎は自分でも動かなければならぬと思っていた。本来なら、父に放下師のことを聞くべきだろう。どんな話をしているのか、なにかを探られてはいないか、たとえ探ろうとする素振りがなくとも、気をつけるようにと進言すべきなのだ。しかし近頃は、父の三郎を疎むこと甚だしいのだった。一切何も聞かぬ、というように顔を背けることもある。それは三郎が、護摩堂を建てて欲しいと願い出た頃からひどくなった。種子島家は代々律宗を信仰していたが、三郎は宝物蔵で見つけた数多くの空海の書物を読むうち、次第に密教にのめり込むようになっていた。誰にも邪魔されず、真言を唱えるためにはどうしても護摩堂が必要だった。しかし父にはそれが我慢ならなかったようだ。日参して許しを請ううち、なかなか首を縦に振らない父は、「勝手にするがよい」と半ば突き放すように言ったのだった。護摩堂は建ったが、父との間には不快なしこりが残ってしまった。
三郎は気が進まぬが四郎に頼むことにした。父に直接言えないのなら、ほかに方法がなかった。
四郎の部屋に出向くと、四郎は礼節をわきまえた態度で三郎を迎えた。これはいつものことだ。たった今、来客があったようで香しい残り香があった。慌ただしく部屋を整えさせていたが、四郎は嫌な顔一つしない。三郎とは一つ違いだが、文句のつけようのない如才なさはまるで年上のようだった。しかし放下師の話になると、四郎ははなから聞く耳を持たなかった。
「兄上の思い過ごしにございます。ただの放下師にそのような用心は無用のことと存じます」
「剣を抜いて稽古をしておったぞ。だれかを斬るつもりではないのか」
「剣を使った芸もあると聞きます。その芸の稽古でござりましょう。私も何度か話をしましたが愉快な男でございました。とても企みを持っているようには思えませぬ」
四郎は整った顔をほころばせた。笑うと涼やかな目が一層涼しく光を帯びる。母が違うだけでこんなにも違うものかと、四郎を見るたびに劣等感に苛まれる。顔かたちだけではない。四郎の、ものにこだわらない性質や、細やかで愛情深い上に、ものに怖じない胆力はとても敵わないと思う。しかし病がちな母の、ただ一つの願いは三郎が種子島家の当主になることである。それが正室の意地というものなのかもしれない。
「とにかく、父上にお気をつけくださいと言うてくれ。頼んだぞ」
三郎はそう念を押すと、すぐに森へ向かった。小川の中に白い人影が見える。三郎は足を速めた。人影は水浴びをしているお珠だった。初めてあった日のように水浴びをしているお珠は、やはり初めて会った日のように美しかった。
「お珠」
女は振り返ると、輝くような笑みを返してきた。一糸まとわぬ姿を恥じないのは前と同じだった。
三郎はなにも言わずお珠の着物を取ってやった。お珠も無言で着物を受け取る。
お珠に会うため、三郎はここのところ毎日森に来ていた。会えない日もあったが、たいがいはお珠も三郎のことを待っているようだった。
二人は森の中を歩き回ったり、榕の木の上でただぼんやりと時を過ごしたりした。なにも言わずとも気持ちは通じ合っていると三郎は感じていた。
今日も二人は森の中を当てもなく
「お珠は、島でなにをしておるのじゃ」
「なにも」
素っ気なく答えるお珠の横顔は、本当になにもしていないのだろうなと思わせる、無垢で赤ん坊のようにあどけない顔だった。これまでの話しで、お珠は平戸から船に乗ってやってきたことと、種子島の親類の家にいることはわかった。だが、なんのためにやって来て、いつまでいるのか、あるいはずっと島にいるのか、ということになるとまるでわからない。
お珠のことはなにも知らないが、三郎はそれでいいと思っていた。お珠を俗世間から離れたところにいる、森の精のように思っていたからである。実際、お珠は気まぐれに現れては、気まぐれに姿を消す。たった今、話をしていたかと思うと、ふいにどこかに行ってしまう。今日もお珠は、甘い残り香だけを残してどこかへ行ってしまった。明日も会おうと約束をすればよかった、と三郎はいつも悔やむのだった。
お珠に出会ってから、日々の生活は前よりも幸福だと思えるようになった。人はなんのために生き、なぜ死んでいくのか。自分はなぜこの世に生を受けたのか。そんな自分を苦しめるようなことは考えなくなった。護摩堂に籠って真言を唱える間も、三郎は自分の心が自由に息をしているような解放感を味わうことができた。
護摩堂で修行をするのは日課になっていた。三
三郎は手を清め口を
京の仏師に作らせた像だが、お珠に会った時にすぐにこの像に似ていると思った。眠たそうな半眼の目蓋のわずかに浮腫んでいるところや、小作りな鼻や花びらのような唇、丸くなめらかな頬。大日如来を見上げるたび、清らかで美しいお珠の面影と重なるのだった。
ゆっくりと目を閉じ手は
「
懺悔文を二十一遍繰り返し、
堂からでると新八が控えていた。
「新八、なにかわかったか」
新八は、「はっ」と強張った顔でうなずき、あたりを警戒する素振りを見せた。
三郎の部屋で襖を閉めきり、新八は思いもよらぬことを話し始めた。
「あの放下師は、
「なぜそのような者が放下師などをやっておるのだ」
松浦党は肥前の国、平戸に本拠地を置く一大勢力である。近年、明との交易で莫大な富を蓄え、さらに勢力を伸ばしているらしい。松浦党の歴史は古く、源平の合戦では平家方につき、元寇の折の軍功が認められ、鎌倉幕府より恩賞として肥前の国が安堵されたと伝え聞く。
「なぜ放下師などになって種子島に来たのかは、よくわかりませぬが、殿と密約を交わしたことは確かです」
新八は声をひそめて言った。
「父上と、どんな密約を交わしたというのじゃ」
「野間村を与えると」
「して、それは何の対価じゃ」
新八は苦しげに顔を歪めて首を振った。
「村一つを与えるとなると、よほどのことかと存じます」
「それで父上は、その男に何をさせようというのだ」
「それが、まだ調べているところで……」
新八の歯切れの悪い言いかたで、三郎はひどく嫌な予感に襲われた。
「まさか儂を」
「三郎さま、そうと決まったわけではございません。しかしながら、どうかくれぐれもご用心を」
新八が下がってしまっても、三郎は動くことができなかった。自分が息をしているかどうかも定かではなかった。
新八はさらに調べると言っていたが、調べを待たずとも間違いのないことに思われた。今考えれば、何もかもが腑に落ちる。三郎に元服させないのも、母が北の離れに押し込められたのも、すべて四郎に家督を譲るための下準備だったのだ。
松浦党の者ならば武術に長けているだろう。放下師に身をやつして城に入り込んだのも父の差し金なのだろか。
四郎はどこまで知っているのか。父と共謀して自分を亡きものにしようとしているのか。四郎を問いただしたいが、聞いたところで正直に答えるはずもない。
そういえば平戸の船はまだいたはずだ。商人たちと放下師が顔見知りならば、なにか聞けるかもしれない。
三郎は急いで港に向かった。まずは平戸の商人から内藤の情報を仕入れるつもりだった。
港には
一度城に戻り新八を連れてくるか、と帰りかけた時、船の中から見覚えのある女が出てきた。
「お珠」
三郎は思わず叫んだ。お珠が平戸の船に乗ってきたと言っていたのを思い出した。
お珠は三郎を見て驚いた様子だったが、すぐに微笑みを浮かべ、「どうなさいました」と訊いた。
「儂が突然現れたので驚いたであろう」
三郎はお珠と並んで波打ち際を歩いていた。森以外の場所でお珠と会うのは初めてのことだ。
「はい。驚きました。船に御用がございましたか」
「うむ。確かめたきことがあってな」
「どのようなことでございますか」
三郎は驚いてお珠の顔を見た。お珠がこれほどものを言うのを聞いたことがない。 森ではなく、海辺という場所がそうさせるのか、お珠はいつもと違っていた。まるで普通の女のように明るく活発だった。
「実はな、城に放下師が度々出入りしておる。その者のことを聞きに参った」
三郎もお珠につられ、つい口が軽くなる。放下師が松浦党の一族であること、自分の命が狙われているかもしれないことを話して聞かせた。
お珠はしばらく黙って歩いていたが、ふいに立ち止まって三郎に向き直った。
「兄はそのようなことは致しませぬ」
険しい顔だった。
「いま何と申した」
「内藤源三頼近は私の兄でございます」
「どういうことじゃ。そなたの兄がなぜ放下師なぞになった」
「それは……」
言いにくそうに顔を伏せたあと、意を決したように話し始めた。
お珠の兄頼近は、些細なことで朋友と争い、誤って死なせてしまった。本来なら死罪になるところだが、深く悔いているのと、争ってはいたものの殺意はなかったことを考慮されて国外への追放になった。それで放下師となり諸国を巡り歩いていた。お珠は兄が種子島に来ているということを耳にして、兄に会いに来たのだという。
「兄は友を
お珠の剣幕に気圧されて、三郎は黙り込んでしまった。確かに内藤がどのような依頼を受けたのか、わかっていないのだった。新八もさらに調べると言っていたではないか。三郎は自分の浅慮を恥じて素直に詫びた。
お珠は砂浜を歩きながら兄との思いで話などを語った。兄思いのお珠を一層愛おしく思うと同時に、自分と四郎の間に兄弟らしい情愛が少しもないことを寂しく思った。
浜辺でお珠と話をしてから、三郎は度々赤尾木の港へ行った。もう一度、快活なお珠と話がしたかった。しかしお珠の姿を見るのは森の中ばかりだった。それでも三郎とお珠は確実に距離を縮め親しくなっていった。
その日も三郎は、森へ行く前に港へ行った。しばらくはお珠が現れないかと待ってみたが、やはり姿はなく、虚しく森へ向かうことにした。
ふと見ると浜の離宮に人影がある。そこは釣りの好きな父が作ったこぢんまりとした休憩所だったが、人は浜の離宮と呼んでいた。
離宮の前で城の家人が警固でもしているのか数人立っていた。
父が釣りに来ているのかもしれない。
この機会に父との仲を少しでも修復しておこうと考えた。新八のほうはまだ調べがついてないらしいが、父が自分を殺そうとしたなどとは、もはや疑ってはいなかった。
離宮に近づいていくと、顔見知りの家人が三郎に気が付いて頭を下げた。
「中におるのは父上か」
「四郎さまにございます」
「四郎か」
四郎ならなおさら良い。一緒に釣りでもすることにしよう、と離宮の戸を開けようとすると、家人たちに押しとどめられた。
「だれも入れるな、との仰せで」
「なぜじゃ」
家人たちと押し問答していると、すっと戸が開いた。
お珠と四郎が立っていた。部屋の中からは覚えのある匂いがする。前に四郎の部屋で嗅いだ匂いだ。二人の上気した頬と潤んだ目は、睦み合っていたことを如実に語っていた。
「お珠、そなた儂を裏切ったのか」
お珠は四郎に身を寄せて、心底心外だというように眉をひそめた。
「裏切るもなにも、私とあなた様とどういう関わりがあったのでしょうか」
「兄上、お珠におかしなことを言うのはおやめください。聞けば、父上が兄上を殺そうとしているとお疑いとか。しかもお珠の兄に依頼したなどと根も葉もないことを。私はそれを聞いて、情けなくてなりませんでした」
お珠と四郎が軽蔑の目を向ける。
「父上をこのようにお疑いになるとは。このことは父上のお耳に入れておかねばなりませぬ」
お珠を奪った上に父に注進するというのか。
三郎は二人の刺すような視線に耐えられなくなった。逃げるように走り去り、城へ駆け込み自室に籠った。
お珠は、ずっと前から四郎と深い仲だったのだ。二人は陰で儂のことを笑っていたに違いない。
そ の屈辱よりも、お珠が二度と自分のもとに戻ってこないのではないかという恐れのほうが勝っていた。
どうすればいいのだ。お珠を取り戻すにはどうすれば。
三郎は頭を抱えうずくまった。なぜか涙が出てくる。気が付くと嗚咽していた。口惜しさと怒りと寂しさが混じり合い三郎を襲った。
廊下で人が走り回る音がする。なにごとかと顔を上げた時、部屋の外で女中の取り乱した声がした。
「三郎さま、お母上さまが、お美津の方さまが」
急いで涙を拭き襖を開けた。
「なに母上が」
母の居間に向かいながら、「
「母上」
部屋に駆けこむと母は紙のように白い顔で眠っていた。そばに座る薬師が手をこまねいて座っている。三郎は、『まさか、まさか』と心の裡で叫びながら母の枕元に座る。
「母上、母上。目をお開けくださいませ」
しかし母は、ぴくりとも動かない。
「母上はどうしたのじゃ」
薬師を叱りつけるように言った。
「人事不省にございます。このままお目覚めにはならないかと」
「そんなばかな。そのほう何をしておった。なぜ手当てせぬか」
薬師を怒鳴りつけると、部屋の中の女中たちが首をすくめてうなだれた。
「母上、母上、目をお覚ましください」
母を揺すり叫びながら、誰のせいでもないことを悟ってはいたのだった。もう何日も前から、母は
その日は片時も母のそばを離れなかった。ときどき母の口元に頬を寄せて息を確かめる。母の息は文字通り虫の息だった。ただ苦しんでいないのが救いだった。あと一日、もつかどうかという薬師の言葉通り、母は明け方に息を引き取った。あっけない最期であった。せめて、今一度目を開けて、一言なりとも声が聞きたかった。
母の葬儀は滞りなくとり行われた。葬儀の間、三郎は現実を受け止めかねて涙も出なかった。母を亡くした悲しみと、最期の言葉を聞けなかった悲しみとが怒涛のごとく打ち寄せる。
葬儀が終わって、人々は母の死を忘れたかのように過ごしている。しかし三郎は、もし母があの時、一瞬でも目を覚まして三郎にものを言ったとしたら、何を言うだろうと考え続けていた。
「三郎さま、どうかお力落としのないように」
日がな一日、庭を眺めて過ごす三郎に声を掛けたのは新八だった。
新八は例の調べがついたことを報告に来たのだった。父は放下師の内藤を呼び寄せたわけではなかった。話をするうち内藤を気に入り、不運な事情に同情したのだという。野間村の話の真相は、現在の地頭に跡継ぎがないため、養子に入ってはどうかというものだった。そうすればいずれは野間村は内藤のものになるだろう、と父が話したことが、どういうわけかそこだけが伝わったものらしい。
「ですから三郎さま、どうかご安心ください。内藤が人目につかないところで、剣の稽古をしていたのも、もとは武士なればこそ。腕が落ちるのを懼れてのことでしょう」
三郎は、「そうか」とだけ答えて、また庭に目を遣った。内藤のことなどどうでもよかった。毎日が心に蓋をされたように、重く暗く、ただただ苦しかった。
「三郎さま」
庭先で膝をついていた新八が、いきなり飛び掛かるようにして三郎の両肩を掴んだ。
「しっかりなさいませ。お母上さまはいつもなんと仰っておられましたか。種子島家の家督を継ぐ者にふさわしくおなりください、と言ってはおられませんでしたか。そのように、いつまでも悲しんでいる場合ではござりませぬ。一日も早くお立直りになって、四郎さまに負けぬよう勉学と剣術にお励みくださいませ」
三郎は宙を見つめ新八の手を払いのけた。なにかに引っ張られでもしたかのように、すっと立ち上がる。
「三郎さま?」
「新八、ご苦労であった。下がってよいぞ」
新八が下がるのを待って、三郎は部屋に入り襖をぴったりと閉じた。
部屋の中央に座る。涙が止め処なく流れる。母が逝ってから一度も泣いていなかったことを思い出した。新八の言葉でようやくわかった。もし母が奇跡的に意識を取り戻し、三郎になにかを言うとすれば、それは一つしかない。種子島家の家督を継いでくれ、とそれ以外にないのだ。なぜ気が付かなかったのだろう。そんな
『だが、俺は母の願いを叶えることができるのだろうか』
四郎は父に言ったに違いない。三郎が父を疑ったことを、これ幸いとほくそ笑みながら耳打ちしたに違いないのだ。
『お珠を奪った上に、家督まで奪うつもりだ』
激しい怒りが三郎の体を貫いた。
『そうはさせぬ』
数日後、三郎は護摩堂の中にいた。
目の前には三角形の護摩壇。泥人形が二体と鯛の骨。犬の糞。供物には
これは
吒枳尼天は大日如来の化身である大黒天から食人を許されている。人の心肝を
三郎は禍々しい三角形の護摩壇で護摩を焚いた。さらに曼荼羅華の種を加える。
ぱち
曼荼羅華の種がはじける。
同時に甘く刺激のある香りが鼻をつく。
犬の糞を塗った鯛の骨を、泥人形の左肩に刺す。
右手の握りこぶしに左掌をかざし、口を覆い人血を飲むが如く舌を以って掌に触れる。これが吒枳尼天の印である。
真言を百八遍唱える。
「
この時点で、すでに三郎は体に異変を感じていた。軽い吐き気と共に視界の遠近感が失われる。二本目の骨を人形の右肩に刺そうとするが、見当違いの場所にばかり刺してしまう。震える手でようやく目的の場所に突き刺し、再び真言を百八遍唱える。
三本目の骨は左の脛に、四本目は右の脛に刺し、最後は心臓に思いを込めて刺す。 刺すたびに百八遍の真言を唱え、もう一体の泥人形に同じことを繰りかえす。二体とも終えると二万一千遍の真言を唱えて仕上げとなる。これを七日間繰り返すと、六か月後には父と弟の
二万一千遍の真言が半ばに差し掛かった時、三郎はそれまでの息苦しさが、ふっと軽くなるのを感じた。薄暗い護摩堂には極彩色の霧が立ち込め、どこからともなく美しい歌声が聞こえる。
あれは
三郎は正面の大日如来の像を見つめていたが、堂内を飛ぶ迦陵頻伽の姿は見えていた。上半身は翼を持った菩薩で、下半身は錦の羽を持った鳥だった。
両肩に蓮の花の痣がある。
「お珠」
三郎は歓喜に震えて叫んだ。真言を唱え続けていながら、どこから自分の声が出ているのか疑うことすら忘れていた。
いつの間にか三郎の魂は体から抜け出し空を飛んでいた。はるか下に宝珠の突き出た護摩堂の屋根が見える。さらに上空へと飛んで種子島全体を俯瞰する。古代の言葉で細長いものを「タンネ」と言う。なるほど種子島は細長い島だ。遠くに薩摩の国と大隅の国が仲良く海に突き出ているのが見える。海の中、薩摩寄りに硫黄島がぽつりと浮かんでいる。
いつのまにか隣をお珠が飛んでいた。もう迦陵頻伽の姿ではなく目も綾なる着物に透きとおった
虹色の光を纏ったお珠は、光の雫を放ちながら三郎に身を寄せてきた。得も言われぬ芳香で陶然とする三郎に、お珠は軽くうなずいて微笑んだ。
大和の
大和の宇多の赤土の色が付いたように、あなたを思って頬を朱に染めたなら、そんなことでも人は噂をするのでしょうね。
思わせぶりな歌を歌い、お珠はするりと身を翻して大海原の上空を優雅に飛んだ。 なぜお珠はこの古い歌を三郎に歌って聞かせたのだろうか。丹については空海の書物に度々登場していた。密教にとっては非常に重要なものである。
丹は辰砂、丹砂、
丹はその鮮やかな赤色が命の象徴である血と同一視されてきた。流れ出た血は黒く変わってしまうが、丹は赤いまま変化しない。そこに人は生命の永続性を見出してきたのである。
つまり丹は
煉丹術によって
煉丹術は古くから唐土で研究されてきた。唐に渡った空海が、その術を会得したのはごく自然な成り行きだったと言える。
三郎が物思いにふけっていると、お珠が誘うように振り返り、妖艶な微笑みを投げかけてくる。
「お珠、そなた本当は儂のことを好いておったのだな」
お珠はそれには答えず、どこかへ飛び去ろうとする。三郎にはそれが四郎のところへ向かっているように思えた。
「お珠、行ってはならぬ。四郎はそなたを
お珠は険しい顔で振り向き、どこかへ飛んで行ってしまった。
「お珠」
三郎はお珠の消えた空に声を限りに叫んだ。
叫んだつもりだった。
しかし三郎は護摩堂の中にいた。
ちょうど二万一千回目の真言を唱え終わったところだった。
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