第二話 遠雷

 天文十二年八月二十六日朝。若狭わかさは不思議な音を聞いた。

縫物をしていた手を止め、開け放たれた濡れ縁の向こうの空を見上げた。

「どうしました」

 母の嘉女かめは繕っている小袖から目を上げて訊いた。

「雷が鳴ったようなのですが」

「このように良いお天気に雷ですか。雲も風もないではありませぬか」

「私もおかしいと思ったのです。でも、あ、また。聞こえませんでしたか」

「いいえ。私にはなにも」

 嘉女は童女のように首を傾げ、秋めいた青空を仰いだ。束ねた髪がさらりと音を立てて肩に掛かった。豊かで艶やかな髪はとても四十が近いようには見えない。母と道を歩くと、まるで姉妹のようだなどと言われる。なにごとにも控えめな嘉女は、それをたいそう恥じて、ことさら地味な色の着物を着るのだが、皮肉にもそれが嘉女の若々しさを引き立てる結果となっていた。

「ほら、また聞こえます」

 今度は嘉女もうなずいた。

「雷ですよね」

 若狭がそう訊いたのは、雷にしては短く乾いた響きだったからだ。これが雷ではないというなら、なんの音なのか。生木の裂ける音か、あるいは大岩の砕ける音か。しかもそれがはるか空の彼方から聞こえる。

不思議なこと、と使用人たちも怪しみ囁きあった。

 その日の午後のことだった。若狭の父、八板金兵衛の仕事場に城からの使者がやってきた。種子島家のお抱え鍛冶である金兵衛のところに、城から使いが来るとすれば、刀のご下命かめいに違いないのだろうが、金兵衛の腑に落ちない面もちは、どうも異例なお召しのようだった。

 嘉女に着替えを手伝わせながら、金兵衛はしきりに首をひねっている。今年、洗い張りをしたばかりの小袖に、家紋の入った肩衣かたぎぬと袴を着けると金兵衛は、ぐっと武人らしくなった。先々代は武家だったというのが金兵衛の自慢であり口癖だった。どういう経緯で鍛冶屋になったのかはわからないが、お抱えの鍛冶となったいまも武士としての誇りは持ったままなのであった。

「父上、お殿様のお召しとは時堯ときたかさまでございますか」

「あたりまえじゃ」

 金兵衛は朱塗りの鞘の脇差しを帯に差し込みながら言った。

「殿様といえば若殿に決まっておる」

 この年、種子島時堯は七月に父恵時しげときから家督を譲られたばかりだった。時堯は今年、十六歳になったが、すでに名君との呼び声が高い。というのも、二月、時堯の叔父、時述ときのぶは恵時を討つために、大隅半島南部に勢力を持つ禰寝ねじめ氏とともに種子島に攻め込んだのだった。父恵時はこの時、禰寝の軍勢を恐れ一も二もなく兵を連れて屋久島に遁走した。時堯は城を守って防戦したが敗れ、屋久島を禰寝氏に与えることとなってしまった。早々に逃げだした恵時に対し、死を覚悟しながら種子島に踏みとどまった時堯は種子島の家臣だけではなく禰寝氏からも賞賛を浴びることとなった。この時、謀反を起こした叔父、時述は切腹させられている。

「何ゆえの急なお召しでございましょうか」

 金兵衛は娘の顔をじっと見て、言おうか言うまいか考えているようだった。

「詳しいことは儂も知らぬ。だが、戸締りを厳重にしておくように。儂が戻ってくるまでは外に出てはいかん。くりやの女たちにもよく言っておくのじゃ」

「あの、また戦が起こるのでございましょうか」

 嘉女は不安そうに夫を見上げた。

「まだ、わからん。よくわからぬのじゃ。とにかく用心することじゃ。よいな」

 金兵衛は慌ただしく出かけて行った。

 父に言われたとおり若狭は戸締りをし、女たちにも外に出ぬよう言い付けた。だが、そこに志津の姿が見えないことに気が付いた。

「お志津はどうしたのです」

「はい。あのう。母御のところへ行きました。茂助さんが呼びに来ましたので」

 茂助というのは志津の家の近くに住む農夫だった。男手のない志津の家は、なにかと茂助を頼りにしているのだ。

「そうか、茂助が一緒なら心配ないな」

 若狭はそうは言ったものの志津の身が気掛りだった。父がなにを危惧しているのか、気遣わしげに戸締りのことなどを言い置いて出かけたのも若狭を不安にさせていた。城からの使者がどんな口上で父を呼びに来たのか、若狭や母に教えないのはいたずらに案ずることのないようにとの配慮に違いないが、父の強張った顔が思い出され、若狭は胸騒ぎのようなものを感じるのだった。

 嘉女は襖を閉ざした居間で、念珠を手に一心に祈っている。

 なにも手につかないまま日暮れとなり、ようやく父が帰ってきた。着替えが終わった父に、嘉女が夕餉を用意させている。若狭が厨に酒を取りに行くと、ちょうど志津が戻ったところだった。

「お志津、戻ったか。茂助が呼びに来たと聞きましたが」

「はい、実はそのことで、お願いしたいことがございます」

 志津は額に脂汗を浮かべ、青ざめた顔で手をついた。

「お志津、そなたの話はあとで聞く。父上がたったいま戻られたところなのじゃ。父上との話が終わるまで待っておれ。よいな」

 一瞬、志津の顔に悲しみが浮かんだように見えた。しかしすぐにおもてを伏せ、「かしこまりました」と答えた。若狭は志津の様子が気になりながらも、酒を満たした瓶子を抱え父のもとへ急いだのだった。

 金兵衛はすっかりくつろいだ様子で湯漬けをかき込んでいた。そばで嘉女が目を細めて見守っている。若狭もほっとしてそばに座った

「若狭、もう心配はいらぬぞ。若殿様のお力じゃな」

「なにがあったのでございますか。父上が用心をするようにとおっしゃったので、何が起きたのかと心配しておりました。若殿様の御用はなんだったのでございますか」

「そう、矢継ぎ早に聞くでない。なにから言っていいかわからぬではないか」

 金兵衛がいつものように豪快に笑うと、嘉女は袖で口元を押さえて笑った。

唐船からふねが西之浦に来航したというのは知っているか?」

「それはいつのことでございますか」

「昨日じゃ」

「唐船がですか。来襲ではなく、来航、したのでございますか。めずらしきことにございますね。唐船がこの種子島に漂着することはよくありますが、襲撃でもなくやってくるというのは」

 赤尾木あこうぎ城下の港に唐船が隊列を組んで来襲し、石火矢いしびやを放ち大騒ぎになったのは天文元年の頃だ。若狭がまだ幼い時のことだが、子供心に大変なことが起きているのはわかった。後々までも大人たちがその時の恐怖を語るので、若狭もよく覚えていた。

 当時、明国では密貿易と海賊行為を禁止する目的で海禁策をとっていた。これに反発した者たちが海賊となり、密貿易で巨万の富を築いたと言われている。その者たちは倭寇と呼ばれ恐れられていた。この時代の倭寇はほとんどが明国人だった。高麗人や日本人などもいたが、それは一割ほどだった。

「唐船はなんのためにやってきたのですか」

「驚くな、若狭。あきないのためだ」

「驚きませぬ。この島に船が来るのは、遣明船が風待ちをする他は、大概商いのためですもの。ただ、これまでに唐船が商いに来たことがなかったというだけでございます」

「商いの相手は唐船の倭寇ではないのだ。南蛮人なのだよ」

「南蛮人」

 若狭と嘉女が同時に叫んだ。嘉女は両手で口を押え、まるで金兵衛が南蛮人ででもあるかのように身を引いた。

 城からの使者の口上は、「南蛮人が来島した。ついては金兵衛に急ぎ城へ参上するように」というものだった。

それを聞いた金兵衛が、南蛮人の襲撃かと思ったのだという。

「父上は南蛮人をご覧になったのですか」

金兵衛は大きくうなずいた。日に焼けた顔が灯火に照らされ、目が異様に赤く燃えていた。

「やはり蛇のような化け物でございましたか」

 若狭は我が口から出た言葉ながら、おぞましさに背筋が寒くなった。

「蛇? 何を言う。南蛮人は人であったぞ。どこからそのようなことを聞いた」

「時堯様に教えていただきました。明の国の古くからある考えで、南には蛇のごとき野蛮人が住むと」

 南蛮の『ばん』という文字は、虫すなわち蛇がもつれるさまを表しているという。世界の中心である明は四方を野蛮な民族に囲まれている。東夷とうい西戎せいじゅう北狄ほくてきそして南蛮である。東には背の低いむじなと同類の蛮族が、西には羊を放牧する武器を持った蛮族、北にいるのは火に追われるいぬの仲間である。明にはそういう思想が古くからあるという。

 時堯は、浜辺の別邸で若狭の手を取り砂浜にその文字を書き、教えてくれた。そして蠻という字の『虫』を消し、代わりに心という文字を書いた。

 こい。もつれる心。

 若狭はその時の時堯の熱い吐息を思い出し赤面した。

「そなたは若殿様とそのような話もするのか」

「はい。時堯様はなんでも私に話してくださいます。武芸だけではなく学問にも秀でておられますから、お話はとても面白うございます」

 金兵衛の眉に、一瞬、不快そうな皺が寄った。しかしすぐに気を取り直して、初めて見た異国人の様子を語り始めた。

「南蛮人は確かに野蛮人ではある。言葉が通じず、異様な着物を身に着けておった。目の色、髪の色、鼻の形が我々とは似て非なるものだった。儂が行ったときには物を食しておったが、手づかみで口に入れていた」

「それでは、やはり獣のようなものでございますね」

「うむ。儂もそのようなものたちが、どうやって城に入り殿の御前に控えていられるのかと思っておった」

 金兵衛が不思議に思って見ていると、南蛮人の他に明国人らしき男がいる。あとでわかったことだが、その男は倭寇の頭目、五峰ごほうという男だった。倭寇では殿に対面することは敵わぬと思ったらしく、はじめは儒者であると言ったらしい。

「この五峰という男は南蛮人の言葉はどうにかわかるが、こちらの言葉がまったくわからないときている。それで、西ノ村の地頭、西村織部おりべが砂に文字を書き、南蛮人に敵意が無いことをどうにか聞き出した。織部は学のある男で特に明国の書物を読むに堪能であると知られていた。織部が五峰を仲立ちにして知ったのは、南蛮人たちは商人で、この島を目指してやって来たというのだ」

 南蛮人は満剌加マラッカに拠点を置く商人だが、しばしば倭寇船ジャンクに便乗し、新たな取り引き先を開拓していた。去年の大風の折、たまたま乗船していた倭寇船が種子島に漂着し、そこが日本という国の一部であることを知った。日本は古い書物に金が産出する豊かな国であると書かれてあった。しかも、今、日本は戦乱の世だ。各地で戦が起きているということを倭寇から聞いた南蛮人は、「必ずや我々の商うところの物は、日本人に必要とされるだろう」と確信した。それで今年になって、その商品を携え再び西之浦を訪れたという。

「南蛮人は何を商うのでございますか」

「今朝がた雷のような音が聞こえていただろう」

「あの音がするものを南蛮人は売りに来たのですか」

 若狭が身を乗り出すと、嘉女も気をそそられたように膝を乗り出した。

火筒ひづつじゃ」

「火筒とはなんでございますか」

「形は鉄の棒だが、中が空洞になっておる。そこに妙薬を入れ玉を入れる。そして火をつけると、どうなるか」

 金兵衛は少年のように、いたずらな目をして嘉女と若狭を見た。

「雷のような音がするのですね」

「音がするだけではないわ」

 金兵衛は手にしていた盃を一気にあおった。

「時堯さまは儂に言うたのじゃ。『金兵衛、よく見ておれ』とな。そして南蛮人から火筒を受け取ると、そうだな、二十間はあったか。お馬場の端から、向こうの端に置いた小さな貝に向かって火筒を放った。ものすごい音がしたぞ。儂はしばらく耳が聞こえなんだ。そこにいた者たちは慣れたもので、皆耳を塞いでおった。一発目は当たらなかった。しかし、二発目は見事、貝を撃ち抜いたのじゃ。ほんの半刻、習練しただけで、あのように遠くにある小さな的に当てるとは、南蛮人も、さすがは種子島の王だと賞賛しておった。的の貝殻は粉々になって砕け散った。そのあと時堯さまは、お池の鴨をお撃ちなされた。これは一発で当たった。鴨は羽毛を飛ばし、血しぶきを上げた。鴨の死骸を見たが、もとの姿を留めぬほどだった。人に当たれば、急所でなくとも必ず命を奪うことができるだろう」

 金兵衛は興奮のあまり、そばで気分が悪そうに袖で口を覆う嘉女に気が付かないようだ。

「父上、それで時堯さまの御用というのは、何だったのでございますか」

「うむ。新しい打ちもののご下命じゃ」

「太刀でございますか」

 金兵衛は笑いながら首を横に振った。

「まさか、その火筒でございますか」


 若狭は自分の部屋で灯に揺らめく自分の影を見ていた。夜は更けていたが、志津を来させるように言いつけてある。

 南蛮人は火筒を売りに来た。そのことが若狭の心に重く暗い影を投げかけていた。

 新しき武器。

 父の子供のようにはしゃぐ姿と、かつてなかった新兵器の重く黒光りする筒。

 父はにしきの袋に入った火筒を得意げに若狭と嘉女に見せた。

 時堯は二挺の火筒を南蛮人から購入し、そのうちの一挺を金兵衛に預けたのだ。

「若殿は儂に同じものを作れと命じられた」

 父の誇らしげな顔に、若狭は悪い予感のようなものを感じていた。それが何なのかまったくわからないのだが。

 部屋の外で「若狭さま」と声がして戸が一尺ばかり開いた。志津を呼びにやらせたおんなだった。

「お志津はどうしました」

「それが、どこにもいないのでございます」

「待っておれと言ったはずだが」

「申し訳ございません。また母御のところに行ったのかと」

「おせんの具合が悪いのか」

「いいえ、そうではないようでしたが」

 志津の母、お千は若狭の乳母だった。体の弱い嘉女のために雇われた女だった。千の夫は足軽小頭まで務めた男だったが、志津が三歳になった時、怪我がもとで死んでしまった。千は子を養うために若狭の乳母になったのだった。若狭に手が掛からなくなったあとも八板家で働いていたのだが、数年前、病がちになった千は自分の代わりに志津を働かせてもらえるように頼み込んだ。千には息子がいたが、遊び人でまったく当てにならない男だった。

 若狭より三つ年上の志津は、子供の頃からの良い遊び相手だった。そして若狭の面倒をよく見てくれた。若狭と志津はまるで姉妹のように育ったのだった。

「私に頼み事があると言っていましたが、そなた聞いておらぬか」

 婢には思い当たることがないようで、首をかしげている。

 千のところへ行ったのなら、頼み事というのも急ぐことではなかったのだろうと、若狭は強いて思うことにした。しかし、それが後々若狭の心を責め苛むことになろうとは、この時は予想もしなかったのである。

 翌日になっても志津は戻ってこなかった。赤尾木の港には今朝早くに倭寇船が入港していた。西之浦に来航した船を目の届きやすい城下に繋ぐことにしたのだろう。倭寇が二百人ほど乗っているという船を、弓矢を持った足軽隊が警固していた。城下の町人たちは突然現れた倭寇船と物々しい戦支度に驚いて、戸を固く閉ざしていた。

 若狭が厨に行くと茂助が立っていた。白髪交じりの頭を何度も下げて、志津を呼んでほしいと言った。

「お志津はお千のところにいるのではないのですか」

 茂助は小さな目を見開いて、激しく首を振った。

「お志津さぁはここにはおらんとですか?」

 若狭が絶句していると、茂助はすがるような目で、「それではどこに?」と訊いた。

「それは、こちらが訊きたい。お志津はどこへ行ったのじゃ」

若狭と茂助がうろたえ騒ぐので、厨の女たちも何事かと仕事の手を止めた。

「だれか、お志津の行き先を知る者はいないのか」

 女たちはおびえた目で見交わし、それぞれが小さく首を振った。若狭はまだ見ぬ南蛮人を野蛮な倭寇と昔話で聞いた恐ろしい鬼の姿に重ね合わせた。両の手には火筒の重量のある冷たさが甦った。

 若狭と茂助は千の家に急いだ。千に事の次第を訊くためだった。

道々、茂助は昨日、志津を呼びに来た経緯を語った。

「人相の悪い男がお千さぁのとこに来たのでごわす」

 昼過ぎに着いた交易船からは、たくさんの商人や船乗りが降り立った。交易船は堺から出て、琉球や明国に向かう船である。応仁の乱以降瀬戸内海の航路が閉鎖され、堺から明に向かう船は紀伊水道を経て土佐沖を通る南海航路をとるようになり、赤尾木は交易船の寄港地となったのである。出航までの数日間、品物を仕入れる商人、水や食料を積み込む水夫かこで賑わうのが常だった。

 その商人の中にいたのが村田屋という日銭屋ひぜにやだった。村田屋は堺に店を構えているとは言うが、その人相風体からしてまともな店とは思えなかったという。

 村田屋は志津の兄、佐平が多額の借金をこしらえたのだ、と千の家に上がり込むなり凄んだ。佐平はすでに呂宋ルソンに奴隷として売られたという。しかし、それだけではとても足りない。残りの銭をどうやって払ってくれるのか、と証文を見せた。だが、千も茂助も文字が読めないので、急ぎ、八板家で奉公している志津を呼びに行った。しかし志津もまた証文の内容を理解できなかった。若狭の父に読んでもらうので待ってほしいと志津が頼むと、村田屋は態度を豹変させ、この家にはどのみち払える額ではないので志津も呂宋に売るしかない、と声を荒げたという。

「そりゃあもう、怖ろしい剣幕で。お志津さぁもお千さぁも、かわいそうにぶるぶる震えちょりました。いまにも村田屋はお志津さぁの手を引っ張っていきそうなんですわ。そのときに、お志津さぁが銭なら作れますって言いなさって。その時は、口から出まかせを言ったのかと思いましたが、どうもそうではないようで、何か、とても値打ちのあるものを持っているとかで包を開いて村田屋に見せっいもした」

 しかし村田屋はそんなものに値が付けられるか、と歯牙にもかけない。志津は必死に頭を下げて、お殿さまなら買ってくれるのだと頼み込んだ。奉公先の若狭さまがお殿さまとは懇意なので、きっと買ってもらえるように頼んでくれる、と村田屋を説得した。村田屋は渋々うなずいて志津が八板家へ行くのを承知した。だが、もし逃げたら母親を代わりに呂宋に売り飛ばす、と脅すのを忘れなかった。

「お千さぁとおいは待っとったとです。お志津さぁが戻るのを。へえ、朝まで待っとったとです。村田屋は夜中すぎに居眠りを始めもうした。俺もそげなつもりはなかじゃっどん、寝てしもうたようで。気が付くと、村田屋の姿が見えず、お千さぁが同じ格好で座っておりもうした」

 村田屋はどうしたのかと、お千に聞いても要領を得ない。志津も戻っていないので金兵衛の家に呼びに来たのだという。

「いったい何がどうなっちまったんだか。お千さぁも、まるで呆けたようになってしもうたし。あの強欲な村田屋もいなくなってしもうて」

 若狭は、心の臓をひと突きにされたような痛みでめまいがした。自分が取り返しのつかないことをしたのを知った。志津の頼みとはこのことだったのだ。

千の家は甲女川こうめがわ上流にあった。蘇鉄そてつが生い茂る小山を回るとわずかに開けた平地がある。数軒の百姓家に交じって比較的見栄えのよい家が千の家だった。夫がまだ生きていた頃に建てたものなので部屋もいくつかあり、裏には畑もあった。お千の夫は戦のないときには、百姓として働いていたのだ。茂助がなにくれと手伝ってはくれるが男手のない家は、どこかうらぶれていて修理されずに放っておかれる遣戸などがあるのだった。若狭は見かねて家の者を遣って修理させたこともあった。

 しかし、久しぶりに訪れた千の家は、よく手が入っていて畑の作物も大きく実っていた。近頃は千の体の具合がいいと聞いていたので、暮らしが上向いているのだろう。

 千は薄暗い家の中で背を丸めて座っていた。声を掛けると、びくりと肩を震わせた。そして若狭の顔を認めると、がばりとうち伏して何事かをつぶやいている。よく聞いてみると、「申し訳ございません。申し訳ございません」と繰り返していた。泣いているようだった。

「お千、なにを謝っているのじゃ」

 若狭は千の背中に手を掛けさすった。千は声を殺して泣き続けている。

「お千さぁ。泣いている場合じゃねえよ。お志津さぁが、親方のところにもいねえんだよ。あんた心当たりはねえのかい」

それを聞くとお千は、はっと顔を上げ、「お志津が」と叫んだ。

「志津は若狭さまのところへ行ってないということですか」

「お志津は夕べ確かに来たのじゃ。だが私は話を聞いてやらなかった。待っておれ、と、あとで聞くから待っておれ、と言うた。私が戻ったときにはお志津の姿はなかった。ここへ来ていると思うておった」

「村田屋が」

 茂助は両手を握りしめ吐き出すように言った。

「村田屋が、お志津さぁを勾引かどわかしたんじゃねえかな。なにかは知らねえが、銭にかえると言っていた、あの包ごとお志津さぁをさらったんじゃなかじゃろか。最初からお志津さぁを連れて行くつもりじゃたったんだ、きっと」

若狭はいよいよ胸が潰れる思いで、なぜあの時、志津の話を聞いてやらなかったのかと悔やんだ。

「佐平はなぜ村田屋などという日銭屋に銭を借りたのです」

 それは訊かなくてわかっていることだった。だが訊かずにはいられなかった。志津の兄、佐平の無分別。若狭の至らなさ。そういう志津を取り巻く不運が、いつも志津を不幸にしている。善良で働き者の志津がなぜ、いつも苦労をしなければならないのか。若狭が憤っても、志津はいつも諦めたような微笑みを浮かべるだけだった。

「前にも同じようなことがあったではないか。佐平は少しも悔いていないのだな」

 千が床に頭をこすり付け、「申し訳ありません。申し訳ありません」とまた泣いた。千を叱っているわけではないのだ。だが、怒りのために言わずにはいられなかった。

 佐平は、もとは若狭の父、金兵衛のもとで刀鍛冶の見習いをしていた。目端が利く男だったが、いくら諌めても博打がやめられず、ついに破門になってしまった。それでも金兵衛が堺の鍛冶屋に受け入れ先を見つけてやったのは、若狭の乳母の息子だということで温情を掛けたのだった。

 しかしそこでの働きも、とても感心できたものではなく、一年ほど前には博打でできた借金が払えず妹に泣きついてきたことがあった。そのとき若狭は、金兵衛には隠して金子を都合してやったのだった。

「今回も博打なのか」

「はい。それで堺の親方の道具を盗んで売り捌いたとか」

 千が涙声で言う。

「佐平のことは、もう諦めておりまする。呂宋でもどこでも売られて奴隷になるのも仕方のないこと。ですが、志津だけはなんとか助けてやりとうございます」

 言うまでもないことだ。昨夜、なぜ志津は、待っていろと言う若狭の言葉を守らず八板家を出たのか。どこへ向かい、何があったのか。南蛮人や倭寇や、交易船に乗ってやって来た何者かが志津と夜道で出会い、想像するのも恐ろしいことが起きたのか。いずれにせよ、もっとも怪しいのは村田屋だ。

「交易船は昨日の昼過ぎに着いたと言いましたね。ならば時間はある。村田屋がお志津を攫ったとしたら船に隠しているか、そこにいなければこの島のどこかじゃ」


 若狭は茂助を連れて家に戻った。鍛冶場は人気ひとけが無く閑散としていた。火筒を作り始めるまでは、弟子たちはなにもすることがないので来ていないのだ。

 だが、炭小屋の前で弥三郎が一人、炭切りをしていた。炭切りは弥三郎がやるような仕事ではなく、入門したての弟子が始めに教わる仕事だ。それでも、だれにでもすぐできるというものではなく、やわらかい松炭まつずみを粉を出さずに五分角ほどの大きさに揃えて切るには、三年はかかると言われている。

 弥三郎はたぶん、他の弟子たちと同じように休んでよいと言われていたはずだ。それをこうしてやって来て無心に鉈を振るうのは、生来の真面目さなのかもしれない、

 若狭は立ち止まり踵を返した。弥三郎とはあまり顔を合わせたくないのだ。しかし、弥三郎は目ざとく若狭を見つけると、炭の粉を払い落としながら駆け寄ってきた。

 弥三郎は寺の小坊主のような生真面目さで、若狭に一礼した。

「お志津さんの行方がわからないと聞きましたが」

 若狭は会いたくなかった弥三郎に、いまもっとも気がかりな志津のことを聞かれたのが癇に障った。

「そなたには関わりのないことじゃ」

 若狭は言い捨てて母屋に向かった。茂助が、「失礼いたしもす」と慌てて頭を下げている。八板家の者でなくても、金兵衛の跡を継ぐのは弥三郎であることはだれでも知っている。つまり、いずれ若狭の婿になる男だった。若狭は弥三郎の顔を見ると、ついきつい言いかたをしてしまう。そんな自分が嫌で不快になる。弥三郎にそんな感情を抱くようになったのは、金兵衛の跡継ぎだという話を父から聞いてからだった。その頃に、弥三郎も内々にそんな話をされたのだろう。互いに意識するようになり、ぎくしゃくした関係になってしまった。しかし、そればかりではなく、若狭は弥三郎の利口そうな口元や、妙に腰の低い態度が気に入らなかった。どうしてそれが、と聞かれると答えようがないのだが、要は相性が悪いということなのだろうか。

 茂助に勝手口で待つようにと言い置いて、若狭は父のいる部屋へ向かった。

 金兵衛は奥の座敷を締め切って籠っていた。若狭が襖越しに声を掛けると、金兵衛の返事が聞こえた。

 若狭が襖に手を掛け一尺ほど開けると、「そこまでだ」と父の厳しい声が聞こえた。

 びくりとして手を止めた。

「父上、どうかなさいましたか」

「それ以上、開けてはならぬ。話があるのなら、そこから顔を出して話すがよい」

 若狭は言われるままに、襖の隙間から中を覗くと、部屋いっぱいに絵図面が散らばっている。その隙間、隙間に昨夜、父から見せられた火筒をばらばらにしたものが置いてあった。

「父上、これは」

「入って来るでないぞ」

 金兵衛は火筒の部材や金具の一つ一つを筆で描き起こしていた。昨夜は、刀とまったく形の違う火筒を父が作れるとは思わなかった。しかし、いま父の顔は喜びで輝いている。作れるかどうかなどということは問題ではないという顔だった。火筒に触れ、仕組みを調べ子細を知りつくす。そういうことに無上の喜びを感じているようだった。

「見よ。筒と台木との間にこのような絡繰からくりが仕込んであった。この火挟みに火縄を挟み、引鉄ひきがねを引くことによって弾き金が弾かれ、火挟みの先が火皿の薬に火をつける。火皿からは筒の中に続く火道があるのじゃ、そこを通って筒の中の薬に火が点き、ものすごい勢いで玉を押し出す」

 見ろ、と言いながらこの距離では、細かな絡繰りなど見えるはずもないことに、金兵衛は気付く様子もない。

「父上」

「どうじゃ、この筒の堂々たる重さは。中空ちゅうくうになっておるというのに、この重さだ。この中を鉛の玉が恐ろしい速さで飛び出していくなどと、だれが考えたものか。とても人が考えたものとは思えん。見よ、この先にある出っ張りは狙ったものに正しく当てる目当てじゃ。手前の目当てと先の目当てを、このように目をすがめて一つに重ねると玉は思ったところに当たるのじゃ」

 金兵衛は以前から若狭を相手に仕事の話をよくするのだった。鍛冶のことがおなごにわかるはずもない、と思うのが普通のはずだが、なぜか事細かに、まるで鍛冶の弟子にでも言うように仕事の進み具合なども話して聞かせた。

 若狭は不思議に思って訊ねたことがあった。

「父上はなぜ、女の私に鍛冶の話をするのでございますか。おかげで私は、太刀をてそうなほどに詳しくなりましたが」

 すると金兵衛は、さも可笑しそうに笑った。

「儂も、自分ながら不思議なのじゃ。なぜか若狭には鍛冶の話をしたくなる。そなたが興味ありげに聞くからではないのか。そなた、男なら刀鍛冶になりたいと思うておるのだろう」

 金兵衛にそう言われても、鍛冶にそれほど関心があるわけではなかった。しかし金兵衛は、そう思い込んでいるようだった。

「そなたがいつも熱心に聞いてくれるから、儂もつい話したくなる。たまには愚痴めいたことも言いたいのじゃ。弟子には言えぬからのう」

 その時、金兵衛はばつが悪そうに笑いでごまかしたのだった。

そんなことがあってから、若狭は金兵衛の話を心して聞くようになった。また、そのような気持ちで聞くと意外に面白く、男なら刀鍛冶になったかもしれぬ、とそんな気がしてくるから不思議だ。若狭もつい金兵衛の話を楽しみにするようになった。

 しかし、今はそれどころではない。若狭は金兵衛の言葉を遮って声を張った。

「父上」

「なんじゃ」

 金兵衛は夢から醒めた人のように若狭を見た。

「なんの用じゃ」

「父上、お志津の行方がわからないのでございます」

 若狭は昨夜からの経緯をかいつまんで話し、志津を探すために時堯の力を借りたいのだと話した。

「佐平が……しようの無い奴じゃ」

 金兵衛は苦い顔で話を聞いていたが、吐き出したその言葉は口惜しそうだった。

「心配なのは志津だな。どこへ行くというのだ。だがな、若狭。志津は賢い娘じゃ。呂宋に売られるかもしれないと聞いて身を隠したのかもしれぬぞ」

「それならばよいのですが。私にはどうしてもそう思えないのです。あのとき私に頼みがあると言っていました。私になにも言わず身を隠すなんてことがあるでしょうか。それにお志津が戻らねばお千が呂宋に売られてしまいます。母親思いのお志津がそんなことをするとは思えませぬ」

 金兵衛は低く呻いて、「今日一日は待った方がよかろう」と言った。

「私が話を聞いてやればよかったのです。」

「明日になっても行方がわからなければ、うちの若い衆に探させよう。それまで待つのじゃ」

「父上」

 若狭は手をついて頭を下げた。

「時堯さまにお頼みすることをお許し願いたいのですが」

 金兵衛は持っていた鉄の筒を下ろし、「ならぬ」と鋭く言った。

「父上」

「よいか、若狭。時堯さまには近々、島津家から御正室をお迎えなさる。もう幼い頃のように親しくおそばにお仕えすることはできぬのじゃ。志津のことをお願いするのも、いかん。時堯さまはいまやこの島の島主なのじゃ。そのような些末なことで若殿を煩わせてはいけない。時堯さまに甘えてはいかんのじゃ。わかったな」

 父の言わんとしていることはわかる。だが、物心つく頃から親しく語らってきた仲である。時堯からも、「真に心を許せるのはそなただけだ」と言われている。若狭自身も時堯と会っている時はこの上ない幸福を感じる。その幸福が、近頃はそれなしでは生きていけないような、若狭を追い詰めるような強さで駆り立てることがある。

「そなたはもう子供ではない。わかっておるだろうが、弥三郎を婿に取ることは決まっていることじゃ。そなたが弥三郎を嫌っておることも知っている。だがな」

「嫌ってなどおりませぬ」

 若狭はつい、尖った声を出してしまった。

「そなたのそういうところが儂は心配じゃ。だからこそ弥三郎のような男がそなたには似合いなのじゃ」

「わかっておりまする」

 言葉の最後が力なく震えた。

 時堯が島津家から正室を迎えることは、ずっと前からわかっていたことだ。それは、ほとんど物心ついたころからと言っていいほどだ。だが、こうして改めて言われると、若狭は胸に鈍い痛みを感じるのだった。

 若狭がいつになくしおらしい様子だったからなのか、金兵衛は気まずそうに咳払いをすると、「頼るのなら弥三郎を頼れ。この絵図面ができあがるまでは弥三郎も暇を持て余しているはずじゃ」と宥めるように言った。

「志津を探すのは、茂助に手伝ってもらいます」

「そうか。ならば気を付けるのじゃぞ。去年の今頃に鬼が出たと大騒ぎになったことがあった」

「ほほほ、父上は鬼なぞをお信じになりまするか」

 金兵衛がなにかを言い返そうとした時だった、表の通りで人が騒ぐ声がする。女中をやって聞きに行かせると、甲女川こうめがわで人の死体が上がったという。

「父上、まさか」

「まさか志津なのか」

 金兵衛は太い眉を翳らせた。

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