プリマ・マテリア

和久井清水

第一話 目覚め


為人ひととなり暴悪にして家を嗣ぐの器に非ず。群臣相議し、いつわりりて馬毛島まげしま田猟かりするまねして是をしい

――種子島家譜


 

 どろり、と暗闇が動いた。

 目蓋を通して闇が侵入する。

 あぶくが一つ、どこかで生まれた。顎の先で寸刻逡巡したあと闇の奥に吸い込まれていく。俺にはその軌跡がなぜか見えていた。小さく輪を描きながら立ちのぼるせわしげな泡の動きまでも克明に。

 体の中の感覚が順を追って覚醒していく。

 指の先、足の先まで徐々に目覚めていく。

 体の隅々まで俺は俺であることを確認する。底なしの静寂が耳の在り処を曖昧にし、暗闇は目蓋の存在を忘れさせる。温かく柔らかく流動的なものに全身が包まれ、ともすればその心地よさに、再び眠りに引き込まれそうになる。

 俺は頭を振ってその誘惑にあらがった。もう眠ることには飽いていた。やらなければならないこともあったはずだ。

 やらなければならないこと。

 思い出そうとして愕然とした。

 俺は何者なのだ。

 名前すら思い出せない。

 指先が痺れている。

 痺れがなにかの記憶を手繰り寄せる。だがそこまでだった。記憶は尻尾も掴ませず泡と一緒に消えてしまった。

 無音の闇の中で、なぜ俺は目覚めたのか。そもそもここはどこなのだ。俺はだれで、どんな顔をしている。

 顔を指でなぞろうとした。だが指がない。痺れていたはずの指がどこにもないのだ。指もなければ手もない。腕も肩も胸も足もあることはわかっているのに、どうしても見つからない。感覚はあるのに実体がないとはどういうわけか。

 とにかくこの暗闇から出なければならない。

 俺は闇雲に手足を動かした。大量の泡が生まれ俺を取り巻き押し流す。流れの中に誰かの声が聞こえる。「許さぬ」「世界の王となって」「お珠」俺の声だった。だが意味はわからない。流れは渦を巻いてどこかへ向かっている。俺はす術もなくきりもみしながら流されていく。巨大な巻貝の中をき回されるように、くるくると回りながらどこかへ落ちていく。

 不意に流れが止まった。

 再び静寂の中に取り残された。だが、小さな光が見える。

 俺は光に徐々に吸い寄せられているらしい。

 光の先にはうち捨てられた墓石があった。

 あれは俺の墓ではないのか。

 耳元であぶく泡がはじけた。



 波の音が聞こえる。

 潮の香。

 眼窩に色彩が溢れた。とりわけ眩しいほどの青が両眼を射る。色彩の波が押し寄せ渦巻き、肉体がさらわれるかに思われたとき、舟縁ふなべりに小波が当たって砕けた。

『そうだ。俺は舟に乗っていたのだ』

 前方には馬毛島の平たい島影が濃い緑を湛えている。後方には住み慣れた種子島があるはずだ。

 舟は漕ぎ手の他に六人の家臣が乗っていた。それぞれが狩り装束に身を固めている。心持ち強張った顔つきである。見れば自らも萱草かんぞう色の鎧直垂よろいひたたれに鹿革の行縢むかばき綾藺笠あやいがさ弓籠手ゆごてという出で立ちだった。

 三郎は、普段狩りなどしない重臣が揃っているのを異なこと、と首をかしげた。特に西村弘宣と内田友重は父の取り巻きで、これまで三郎の狩りに付き従うようなことはなかった。

 その時、新八がいないことに気が付いた。鷹匠の新八はいつもそばにいたはずだ。

「弘宣、新八はどうした」

「は」

 弘宣は体を半身だけ向き直り頭を下げた。

「新八は後ろの舟に乗りましてござりまする」

「なぜじゃ。今日に限ってなぜ別の舟に乗っておる」

「それは……」

 弘宣は眉根を寄せ憐れむような目をした。

「それは三郎さまのお言いつけにございます」

「なに、儂の?」

 いきり立って詰め寄ると舟がぐらりと揺れた。

「三郎さま、覚えておいでではござりませぬか。つい先ほどのことでござりまする」

 覚えていなかった。

 他の者たちが気まずそうに目を伏せた。

 痺れた指先が苛立ちを増進させる。

 弘宣はぎこちなく笑顔を作り、子供をあやすようにうなずいた。

「三郎さまは近頃お疲れなのですよ。お堂に籠ってばかりでは病にもなりましょう。たまにはこうして、狩りなどなされて気晴らしをするのがよろしゅうございます。のう、内田殿」

 内田友重は日に焼けた武骨な顔で、「そうでございますとも。狩りがお嫌いならば、ほかにいくらでも面白きことがございますぞ」と不器用に笑みを浮かべた。

「気晴らしなぞ」

 三郎は叫び、痺れている手を膝に打ち付けた。

 そなたたちのような凡夫と一緒にするな、と叫びそうになるのをかろうじて堪えた。言っても詮無いこと。そう思ってはみるが腹立ちは収まらない。

『そうか。思い出した。新八は俺に意見をしたのだ』

 新八の言葉は思い出せなかったが、その不快な気分がまざまざと蘇った。

 おんなを斬り捨てたのは、つい昨日のことだ。いや、もっと前だったかもしれぬ。何が癇に障ったのか、それは忘れた。新八はそれを咎めたのだろう。そばにいれば、新八をも斬り捨ててしまいかねない。それで、別の舟に乗るよう命じたのだ。

 またしても三郎の癇癪が起きるか、と家臣たちは身構えた。しかし三郎が拳を握って考えに沈んでいるので、互いに首を竦めて目配せをしている。その卑俗な目つきを三郎は嫌悪した。

 かりにも種子島家の家臣たるものが、このような体たらくでよいものか。揃いも揃って泰平の世になれきった間抜け面をしている。父がこのような者どもに厚い信頼を置いているのが情けない。

 初代種子島信基は平清盛の孫、行盛の遺児であった。長じてから北条時政の養子となり、種子島にほうぜられた。種子島家は鎌倉時代から営々と続く由緒正しき名門なのである。

 古来、豊かな島であった種子島は他のどんな所よりも米が多くとれる。日本書紀にもその記述がある。

『一たびゑてふたたび収む』と。米は一年に二度収穫される。二度植えるというのではない。一度刈り取った茎から、放っておいても小さな穂が出て黄金色に実るのだ。土と水と気候がよほど稲作に適しているのだろう。秋のとりいれが終わり切り株だけになった田は、しばらくすると、このあたりではヒツツと呼んでいる青々としたひこばえが芽吹いてくる。温暖なこの島は米だけでなく他の作物もよくとれる。

 京の都では前年の大洪水に続いて今年は大干ばつとなり、餓死者が多数出ていると聞く。しかし、ここ種子島ではほぼ例年通りに米がとれ、下々に至るまで飢えとは無縁の暮らしをしている。

 かくも豊かな島だ。我が物にしようとする輩がいるやもしれぬと父は考えたことがあるのだろうか。腑抜けのような家臣に囲まれ、父もまた安逸をむさぼるだけの無能な島主に成り果てている。隣国の島津に対しても、ひたすら恭順の意を示すばかりでは、近い将来この島は薩摩に呑み込まれてしまうだろう。島津が確実に勢力を増しているのを、父は直視しようとしない。

 これまで再三にわたって、三郎は父に進言してきた。そんな三郎を父は次第に疎ましく思うようになったのだろう。家督を嫡男である三郎ではなく弟に譲ろうとしているのだ。それは城中では知らぬ者のない公然の秘密だった。

『この者たちも』

 三郎は舟の上の忠臣づら面した者どもの顔を見まわした。

『この者たちも、知っていながら素知らぬ顔をしているのだ』

 三郎は頭の芯が熱を持ってくるのを感じた。苛立ちに呑み込まれそうになり、ぐっと拳を握った。手のひらの水泡が潰れ痛みが走る。

『慌てることはない』

 醜く潰れた水泡を見て、三郎はひそかにほくそ笑んだ。すべてが予定通りなのだ。 この水泡も。白濁した爪も。指先の痺れも。これはその時が近づいている証しなのだ。あの書物にそう書いてあった。

「三郎さま、さ、着きましたぞ。おお、あそこに鹿がおりまする」

 蘇鉄そてつの低木の陰に佇む馬毛鹿まげしかを友重が指さした。鹿は濡れた瞳でこちらをじっと見ていたが、友重の声に驚いたのか、身を翻し背中の黒い毛の筋を光らせ走り去った。

「鹿狩りもよろしいですな。いたちだの狸だのを捕っても面白くはありますまい」

 馬毛島は周囲が四里ほどの小さな島だ。飛魚漁も終わり、ほとんどの島民は種子島に帰っているはずだ。閑散とした島には、鹿と空を飛ぶ鳶のほかは生き物がいないかのように、ただ風だけが吹いていた。

 もう一艘の舟もともづな綱が下され、家臣たちに交じって新八や漕ぎ手が降りてきた。

 三郎が船着場から砂浜に降り、浜撫子の花に目を留めた時だった。不意に両腕が自由を失った。強い力で羽交い絞めにされたのだ。

「なにをする。無礼者」

 一喝し睥睨へいげいすると、三郎は新八が刀で貫かれるのを視界の端で捉えた。声もなく倒れる新八。その一部始終を止まり台の鷹がじっと見ていた。

 居並ぶ重臣たちは一様に青ざめてはいるが、誰一人として三郎の自由を奪っている不届き者を成敗しようとしない。

 鷹狩りに、重臣たちが揃って付き従ってきた理由がようやくわかった。

「なにをしておる西村殿」

 内田友重の叫びが頭のすぐ後ろで聞こえ、三郎の腕はさらに強く押さえ込まれた。

 西村弘宣は、こし腰がたな刀を女のように胸の前で構え、震えている。

「はやく、はやくやってしまわぬか」

「三郎さま、どうかご勘弁を」

「西村、これはだれのさしがねじゃ」

「われらの総意でござる」

「なんだと」

 侮っていた家臣どもが、まさか自分に刃向かうとは想像だにしなかった。

「西村、思い直せ。さすればそなたを悪いようにはしない。父にもそう進言しよう」

「西村殿、なにをしておる。早くせぬか」

 内田の叫びはほとんど悲鳴だった。

「三郎さま、これは殿もご同意なされたこと」

「なに、父上も」

 腰刀を構えた西村が突き進んでくる。



 泡のはじける音とともに三郎はこの世界に産み落とされた。目の前にあったのは自分の墓だった。草と苔に覆われ、うち捨てられた墓石を三郎は蹴飛ばした。

 その時、耳慣れぬ音を聞いた。

 ああそうだ。俺はこの音で目覚めたのだ。

 禍々しいものが、黒潮に乗ってこの島に集おうとしている。俺もその一つなのか。

 三郎は音の正体を確かめるためにゆっくりと歩き始めた。

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