天国へ送ってくれますか?
@hinorisa
第1話
——最後に二人で天国に行ければいいの
その医者は気怠そうで、足を引きずるように歩き、屋上へと足を踏み入れた。
屋上は外出できない入院患者や、仕事で忙しい医療従事者の気分転換になればと、出入りは自由だ。
内側に返しの付いた高いフェンスに囲われ、物が少なく閑散としている。休憩用のベンチが数脚と、四季折々の花が植えられたプランターは、歩く際に邪魔にならない様にそれぞれ十分な距離をとって置かれている。
足元が不自由な患者や車椅子での移動の事を考えて、障害物になりそうな物を極力減らし、ゆっくりと体を心を休めるようにとの配慮された結果だ。
時間は夕刻を迎え、ゆっくりと太陽が赤く染まりながら、地平線の向こうへと沈んでいく。
他の病院では分からないが、この時間帯は屋上に人が少ない。入院患者は食事の時間を迎えて部屋に戻り、看護師達はそれを補助する事に忙しいため、この一時間に満たない時間は、常に人と接していなければならない彼にとっては、貴重な休憩時間だった。
元々人と接するのは得意ではない。けれど彼にはある意味、医者とは天職といえる仕事だと自負している。
人が少ないこの時間帯に屋上を訪れて、景色を眺めるのが彼の日課となっていた。
季節によっては完全に日が沈み、フェンス越しの町明かりと、深い紺と黒の狭間の様な色に浮かぶ月や星、時には何もない深い海みたいな空。
医者は設置されたベンチに倒れこむように座り、背もたれに身を任せて、白色と水色と茜色のコントラストを仰ぎ見る。
手に持っていた缶コーヒーを一気に煽り、糖分とカフェインを体内へと補給する。掌に収まるぐらいの小さな缶コーヒーを飲み切るのは、彼には容易い。むしろ足りないと日頃から思っているのだが、お気に入り銘柄はこの小さな缶の物しか売られていない。
子供の頃、新作の清涼飲料水が出るたび、どうして五百ミリのサイズばかりで、一・五リットルのサイズの物は売っていないのかと嘆いたものだが、成長しても悩み自体は大して変わらないなと、彼は自嘲する。
それと同時に、脳裏にかつて言われた言葉が思い浮かぶ。
「むしろ、美味しいかも好みかも分からない味を一・五リットルのサイズで購入しようとは思わない」と、しっかり者の妹に言われた。
けれど五百ミリを三本買うよりも、一・五リットルを一本買う方が安くつく。子供の頃は特にお小遣いをやりくりしていたのだから、その辺りは今よりもシビアだ。
今となっては、値段よりも手間と労力の方が気になっている。
そんなとりとめのないことを考えて、無駄で有意義な時間が流れていく。
「——ねえ。貴方はお医者様ですね」
不意に背後から投げかけられた声に、首を捻り最低限の動きで声の元を確認すると、入院着を着た少女が佇んでいた。
医者は少女を見た瞬間に、その俗世離れした風貌に驚き、目を大きく見開いて固まる。
彼女の肌が、夕陽で燃えるように赤く染まっている。肩につかない程度の長さ髪の先は真っ直ぐに整えられていて、人形のような印象を彼に抱かせる。
夕陽に照らされた少女は整った顔立ちをしていて、ガラス玉のように無機質な瞳と生気が感じられない青白い。
……人気がないことは確認済み。
患者の容体が急変した際の万が一に備えて、屋上には死角は無く、身を隠すような場所も物もないため、少女が先に屋上にいたという可能性は低い。元々人の気配には敏感なため、見落としたということも無い筈だ。
少女が扉を開けて、傍まで歩いてきて、声をかけるまで気が付かなかったという事実に、医者は自分が酷く疲労している事を自嘲する。
一瞬、医者の脳裏に幽霊という言葉が浮かんできたが、すぐに消える。彼はこの職務についてから、お目にかかったことは無い。同業者や看護師達に噂話や体験談を幾度も聞いたことはあるが、彼自身は、幽霊にも、それに類する事象にも出会ったことは無い。
「……夕食の時間だと思うから、部屋に戻った方がいい」
医者は動きの鈍い頭を動かして、この場で最適な行動を逡巡した結果、とりあえずこの場から立ち去るように促すことにした。
けれど、少女はその言葉が聞こえていないかのように、無言で医者のことを睨みつけるように見ている。
「……あー。とりあえず、立ちっぱなしもなんだから、座ったら?」
医者は占拠していたベンチから少しだけ腰を上げて、端の方へと体を寄せる。
少女は医者の動きを目で追っていたが、ぽっかりと空いた空席を暫く見つめてから、無言のまま動き出して彼と反対の端に座った。
二人ほど座れる空間を挟んで座る医者と少女は押し黙ったまま、ぼんやりと揺れる陽光を眺めていた。
「——貴方に、お願いがあります」
ふわふわとした静寂な空気を破ったのは、少女の平坦な声だった。
少女の声には抑揚がなく淡々としていて、酷く無機質なものに聞こえる。それがなおの事、生きている筈の少女に作り物の様な、相反する違和感を与えていた。
けれど、彼は医者で、大人で、常識人を自負していたため、患者で、子供で、未成年らしい少女の話を聞くことにした。
「……聞くことだけはできるけれど、叶えることはできない可能性がある」
大人らしい無難で言い訳を用意した返答。それが分かっていても少女は自らの願いを口にする。
「——私を殺して欲しい」
「…………」
予想の斜め上——天を突き上げる勢いの願いに、反応に困った医者は、顔を前に向けたまま横目でちらりと少女を見る。
少女は体を傾けて医者の方を向き、赤く染まったガラス玉の瞳で真っすぐに見つめている。
無表情の少女は危うい雰囲気を纏っていて、医者には彼女を放置したままここを立ち去るという判断はできなかった。
「……どうして、よりにもよって俺に言うの?」
本来であれば、どうしてそう思うのか理由を問うべきだったのだろうが、医者の口をついて出たのは、よりにもよってその願い事を自分に言うのかという、非難めいたものだった。
そんなにも自分はやばい人間に見えているのだろうかと、頭の隅で思いながら、一番先に出てきた疑問を口にしてしまう。
「……貴方が私を生かしたから」
質問を間違えたと内心頭を抱えていた医者に、少女は簡潔な返答をしてくると、それが呼び水となり、一気に彼の記憶が呼び覚まされる。
「……君、一週間ほど前に緊急外来に運ばれてきた子だね」
基本的には彼は患者の顔を覚えない。良くも悪くも彼には重荷になってしまうと、理解しているから。名前や年齢、身体的特徴や数字などで患者を覚えて、出来るだけ患者の直接顔を見ないようにしている。そのせいで周りからは人を覚えるのが苦手だと思われているが、彼にはむしろ都合がいいのでそのままにしている。
幸いな事に、周囲が彼のことをサポートしてくれるおかげで、今までさしたるトラブルは無い。
そんな彼ではあったが、少女の事はぼんやりと記憶の隅に保存されていた。
たまたま彼が当直で対応しただけで、いつもの様に適切な処置をして、流れ作業として別の医師に受け渡して終わるはずだったのだが、聞かされた少女の情報が原因で、彼女の姿ごと記憶に保存されてしまった。
……なんて未練がましいのだろう。
そんなことを思いながらも、医者は記憶を声に乗せる。
「火事で運ばれてきた。軽度の火傷と、煙を吸って呼吸困難で運ばれてきた」
火傷自体は酷くはなかったのだが、大量に煙を吸ったせいで血中の酸素の濃度が低く、放っておけば拙い事態になっていた。
「……せっかく拾った命だから、大切にした方がいい」
十人並みな言葉に、少女は僅かに顔を顰めた。僅かに浮かんだ表情に、医者は彼女が人形ではないと、当たり前の事に安堵した。
「……生きたくても生きられなかった人の事も考えろ、とか続けないよね?」
何かを言い聞かせる際の常套句。
——それを望んでも出来なかった人が居るのだから、出来る事に感謝をしろ。子供の頃に年寄りに言われてイラっとした言葉を、自分が選択肢の中に入れていたことが、医者には空しく思えてしまう。
その言葉を使わずに済んだことを感謝しつつ、彼は少女に向けて自分の本心だと思う言葉を向ける。
「俺が救った命だから、生きて欲しい」
自分勝手で身勝手な言い分だろうが、彼にとってはそれが全てだ。
「自分がした行為を台無しにされるのは、誰だって嫌だろう。少なくとも人としては間違っていない行為なんだから」
医者は視線を前に戻して、半分以上沈んだ夕陽を意味もなく見つめている。
「……私は生きたくないのに?」
「……ああ、大体の人間は他人の都合に振り回されて生きているものだ。それと折り合いをつけて、妥協して生きている」
少女は不満そうに口元が僅かに歪む。
「……君ももうじき分かるさ」
「分かりたくない気がする」
顔を俯けて、膝の上にのせた手に視線を落としながら、少女は小さくため息を吐く。
「俺は意外と悪くないと思うがな。行動マニュアルを渡して貰えるようなものだ。道筋だっている方が分かりやすいだろ」
そもそも本当の意味での自由など社会には無いし、共存は無理だ。どんな集団社会も何らかのルールはある。それがあるからこそ、他者と生きてけるのだ。
「ついでに言えば、法的にも無理。俺は捕まりたくない」
「……それだと、捕まらないなら良いってこと?」
「良くないな。俺はたぶん罪の意識に耐えられないからな」
人殺しなど、一般社会で常識と共に普通に生きてきた人間には精神的に無理だろう。人によっては気にしないのかもしれないが、少なくとも小心者である彼には無理だった。
「……でも、医者は人の生き死に関わる仕事でしょう?貴方のせいで死んじゃう人もいる筈」
「……ああ、いるな。そのたびに罪の意識が、雪みたいに降り積もっていく」
医者は万能ではない。助けられる命も助けられない命も確かにある。
「警察とか、弁護士とか、検察官とか。人の生き死にに関わる仕事は、きっと多かれ少なかれ、罪悪感と戦っていると思う。まったく気にしない奴らもいるだろうが、むしろそれは少数だろう」
罪悪感という名のモラルが、社会を維持するために必要なのは確かだ。法的な罰も、罪悪感という名の精神的な罰も、両方があるからこそ人は罪を犯さないように生きていく。
「……逆に聞くが、どうして死にたいんだ?他人にそんなこと頼むのはリスクしかないと思うが。……医者が言うのは憚れるけど、死にようなら幾らでもある」
人間の体は汎用性は高いが、脆く弱い。知識をつけて色々できるようになった代わりに、野生の動物たちに比べて肉体的に精神的に脆くなった。
「——天国に行きたいから」
少女の声は僅かにだが震えている。冗談でも噓でもなく、彼女の本心なのだろう。零れそうになる感情を必死に抑えて言葉にしている。
その姿は年相応に見える。薄い青色をした病院着から覗く首も手首も細く、華奢な体は弱々しい。
「自分で自分を殺したら、天国へは行けないの。お母さんが言ってたから」
少女の家、もしくは母親はキリスト教を信仰していたらしい。
「——そういえば、問答無用で地獄行きだったか……。現代人と一昔前の侍達には優しくないな」
「お父さんとお母さんは、お祈りを欠かしたことは無い。日曜日には近くの教会のミサにも毎週通っていた。夏休みとかには家族でボランティアにも参加していた。だから、きっと二人は天国へ行った筈なの」
気づくと少女の手は膝の上で祈るように組まれている。
「私は偶にミサをさぼっちゃった事はあったけど、お祈りはお母さん達と毎日お祈りをしていた。隣人を愛せたかは分からないけど……」
多感な年頃であれば、宗教に疑問を思ったり、周りと比べたりするものだろう。少しだけ面倒なったり、友達との約束を優先させてしまう事だって責められない。
「お母さんもお父さんも祈りを欠かさなければ、それで良いって言ってくれていたの。大人になっても、私が神様を信じているなら祈り続けて欲しいって」
カタカタと少女の体が小刻みに震えて、組んだ指先が肌に食い込むほど力が込められている。表情は薄いが、声には激しい嘆きと怒りが込められている。
それが溢れてしまうのを必死に押し留めている。それが溢れてしまえば、少女は激情のまま行動して、後悔をする暇もなく終わってしまう。
「どうして!神様はお母さんとお父さんを守ってはくれなかったの……?それとも私が神様を疑っていたからいけなかったの……?」
突然起きた理不尽によって奪われてしまった大切な家族。平穏な温かな日常。それを奪われるほどの大罪を犯したのかと、少女はどうしようもない現実に嘆いている。
「……そういえば、神は越えられる試練しか与えない。とかいうの、昔、他人に言われたことがあるなー」
少女の訴えに水を差すような、ぼやくような力のない台詞を口にしながら、医師は背もたれに後頭部を乗せて、暗い空に輝く宵の明星を見上げる。
それを聞いた途端、少女の震えがぴたりと止まる。
「そもそも当事者にしてみれば、どう足掻いても死からは逃れられないし、その遺族も下手すれば一生引きずる。周りに気を使わせるのが嫌で無理に取り繕っていると、もう乗り越えたとか。失礼な奴は不謹慎だとか言うんだ。むしろ四六時中暗い顔している奴とつるみたくないし、被害者遺族はずっと暗い顔していないといけないのか?じゃあ、どういう顔をしていたら満足なんだとか。不満なんて幾らでもある」
少女が空ろなガラス玉みたいな瞳に医者を映しながら、彼の草臥れた横顔を窺い見る。
少女は自分が医者の顔を動画ではなく、静止画としてしか覚えていないことに、今更気が付いた。
沢山の煙を吸って朦朧としていて、ぼんやりとした光景しか見えなかった。がやがやとした聞き取れない音が飛び交う中、彼女に顔を近づけて目を覗き込んできたのが目の前にいる医者だった。
不幸中の幸いで、痛みは殆ど感じなかった。むしろ治療を終えて意識がなくなり、次に目が覚めた時が一番痛かったし、苦しかった。
——両親が亡くなったことを聞かされた時が、精神的に一番辛くて痛かった。
きっと両親も自分の様に怪我をして動けないのだと思っていた。……思おうとしていた。
見舞いに来る親戚や医者や看護師達に、両親のことを尋ねても、今は会えないと曖昧な答えしかくれなかった時点で、薄々は察していた。嘘を吐かれるよりは遥かに真摯な対応だったとは思う。けれどはっきりと言われるまでは、信じないように言い聞かせていた。
医者に真実を伝えられ、飲み込んで、自分の中で消化されて、耐え難い精神的な苦痛に苛まれたとき、幼い頃に母親に聞かされた天国の話を思い出した。
「お母さんが言っていたの。人間は死んだら天国に行くんだって。けれど、悪いことをしたら地獄に落とされてしまって、先に天国にいる両親には会えないんだって」
「だとしても、今すぐ行かなくてもいいだろ?その話は、あくまで天寿を全うした後の話を想定しているだろう。経験則だが、その苦しみは一応は区切りがついて、たまに発作みたいに苦しくなるが耐えられないほどではない。もう少し生きてから天国へ行けばいい」
正直、医者はそういった宗教観を信じてはいないが、あくまでそれを前提に話を続ける。
「——天国に行けなかったら?」
少女が縋りつくような目で医者のことを見ている。今まで何度も患者から向けられたものと、同種の筈だというのに毛色が違う。
「大人になって罪を犯して、天国へ行けなかったら?」
少女は絶対というものが無いことを痛いほど知っている。つい最近に味わって、その痛みと苦しみから抜け出れていない。
「……私は悪い子なの。きっともう、本当の意味で神様を信じることはできないの。だからきっと、年をとればとるほど、罪が溜まっていってしまう」
「——だからその前に若いうちにか?というか、それって大前提として、俺が人殺しの罪を背負うよな?」
大して信仰心が無かろうと、人殺しはいただけない。先ほども言った通りに医者は罪悪感に耐えられないと繰り返す。
「大丈夫。自己犠牲は尊ばれるし、貴方はお医者様だから、これから先も贖う機会は幾らでもある。知識もあるし、上手くやればいい。時間差トリックとかアリバイ作りなら、私も手伝うから」
医者と患者は二人三脚で協力をして病を治すという人もいるが、こんな共同作業は大概の人間はお断りだろう。
「とりあえず、怪我を直して、社会復帰しろ。そして学校へ行って学んで、大学へ行け。そして医者になればいい。駄目でも看護師でもいい。むしろ俺はそちらの方が人出が増えて嬉しいが……」
少女はきょとんとした表情で医者を見ていた。年相応のあどけない表情に、彼は内心で安堵した。
「今、お前自身が言ったことを自分ですればいい。自己犠牲でも何でも、誰かを救う行為をし続ければいい。そうして最終的にプラスに傾いていれば、それでいいんだ」
医者から返された暴論は、少女の中ですんなりと欠けていたパーツを補い、形を作っていく。
「……でも、私、医者にも看護師にも、なれるかどうか分からない」
少女は遠くに輝く星を求めて、朧げに歩く道を探し始めて身を乗り出して、医者との距離が近づくと、彼女の瞳がはっきりと見えた。
「別に人助けをする仕事は幾らでもある。教職も、将来優秀人材を育てる職業だ。間接的に人を救う事もできる。神様も、それぐらいの融通をきかせてくれる筈だ」
どこまでが人助けで、善行に分類されるのかは分からない。けれど、正しく在ろうと、人に優しく在り続けながら、生きがいを持って生きていけば、よほどのことが無ければ悪い人生にはならないはずだ。
「無理に、今どうこうする必要はない。——最悪、お前が地獄一直線の罪を犯した際は俺の所に来い。……せめて後期高齢者になってからな」
少女は淡い赤色の薄明を映した瞳を瞬かせる。
気が付けば薄暗く、医者は予定外に時間をくってしまっている事に、精神的な疲労が全く取れていない事を嘆いて天を仰ぎ見る。
「あー……だからな、あれだよ宗教戦争。十字軍。聖戦」
少女はいきなり宗教の歴史の単語が出てきたことに首を傾げている。
「宗教戦争は言ってしまえば異教徒狩りだ。人の命を奪っている。けど、昔の宗教的にはセーフだ。むしろ、鎖国をして禁教を強いていた時、半ば殉教目的で外国からやって来ていたぐらいだ。幸い俺は浄土真宗。まあ、ほとんど信じてはいないが、一応仏教徒だから異教徒だ。俺を改宗させようとして、俺に断られて殺されれば立派な殉教だ」
かなり強引な解釈に、少女は呆れたようにクスリと笑う。
「お医者様の方が年上だけど?」
「あー……。まあ、八十歳ぐらいまでは何とか生きるつもりだから、ギリギリ高齢者になるぐらいまでは大丈夫だ。……多分」
将来のことは分からないが、とりあえず医者は不摂生を少しは正そうと思いながら、最大限の努力はすると少女に約束する。
「……本当?お医者様。とっても顔色が悪いし、隈もすごい。私より病人みたい」
医者の顔色を窺うように、少女が体を横にずらして近づいてくる。思わず医者は後ろに下がろうとしたが、すでに端に座っているため逃げ場はない。
目の前まで近づいてきた少女は、医者の前に自分の小指を差し出してきた。手の形と状況から、彼女が所謂指切りを望んでいる事を察した医者は、困ったように頭を掻きながら、空いている方の手を差し出す。
ささくれ立った男の小指に、白く細い少女の小指が絡まる。
「……指切りげんまん。嘘ついたら針千本飲ーます。指きった」
抑揚が少ない声でお決まりの台詞の最中に、心なしか針千本の所で少女の小指に力が入った気がするが、医者は何も気づかなかったことにする。
「お医者様は仏教徒なの?」
少女は自分の小指を見つめながら聞いてきたので、医者は軽く頷いて肯定する。
「一応な。日本人は基本的にどこかの宗教に属していると思うぞ。親が入っていて流れでそのまま入る感じが殆どだろうな。じゃないと行事ごと、葬式とか法事とか困るしな」
フーンと興味があるのか無いの分からない相槌を打ちながら、少女は顔を上げて医者をきらきらと楽しげな目で見る。
「じゃあ、宗教戦争の前段階として、私が色々と教えてあげる」
宗教に興味のない医者は口元を引きつらせる。宗教勧誘を少女から受けるのは、何かあれな気がしてならない。
「……俺は、いい。そもそも何で浄土真宗が多いかというと、念仏唱えれば救われて極楽浄土に行けるという文言のおかげだからな。俺は短い念仏で十分だ」
「仏教も悪くないけど、宗教の改宗を求めて戦わなければならないんでしょう」
結局この後、戻らない医者と少女を探しに来た看護師によって、第一回目の戦いは終幕を迎える。
少女はお礼を言ってタクシーに乗り込んだ後も、ずっと手を振っていた。
少女は親戚を保護者として、カトリック系の寮の付いた学校に入ることにした。保護者を引き受けてくれた親戚は、生前に少女の両親に世話になったそうだ。実際にしっかりしていた親だった様で、何かあった時のために遺言状も弁護士に預けれていたそうで、少女が成人するまでしっかりと面倒を見てくれるそうだ。
医者はあれから偶に屋上で少女と顔を合わせて、退院するまで話し相手になっていた。元々賢く落ち着いた少女だったらしく、少しずつ自分の心との折り合いをつけていった。まだ時折悪夢にうなされる事もあるため、暫くの間はカウンセリングに通いながら日常生活に戻っていく。
担当医でもないのに少女の退院の場に彼が居るのは、少女が彼に懐いているのが共通認識として浸透してしまったせいだ。彼が少女の処置をしたことは周知の事実で、彼自身その辺りは気を付けたおかげで、あらぬ疑いをかけられることは無く、ようやく胸をなでおろした。
……あれは一時期の少女の迷い。
退院するまでの間に、携帯端末の番号を抑えられたのは痛かったが、今の所、常識の範囲内の連絡しか交わしていないので、せいぜいネット上の友達みたいなものだろうと思っている。
医者はいつもの様に屋上の扉を開けて、決まったベンチに座り、缶コーヒーを飲む。
最終的にプラスならそれでいいと彼は言ったが、実際の所、自分がプラスの方に傾いているのかは分からないでいる。
結局の所、彼はこれまで一度も自分のことを許せたことは無かった。少女に生きていて欲しいのも自己満足のためだ。
「……本当に浅ましいな」
彼はそう言って自嘲して、思い出す。
——あの少女と同い年の妹。短く、理不尽な人生の終わりを迎えてしまった。
たまたま一緒に外出していた彼と妹が、その場に出くわしてしまっただけの事。それだけの事で、妹は理不尽に命を奪われたのだ。
彼は恐怖で身がすくんで動けなくなり、目の間で妹が刺されるのを見ているしかできなかった。
誰も彼を責めなかった。仕方がなかったのだと。
恐怖で動けず、刺された妹を呆然と眺めていた彼を誰も責めなかった。
けれど、彼が彼自身を許すことができなかった。
あの時、どうしてとっさに犯人に体当たりをするなりして、妹を庇うことができなかったのだろう。どうして倒れた妹の傷を止血するぐらいの事ができなかったのだろう。
ただ茫然と妹が血の中に沈んでいくのを見ているしかなかった自分。
悔やんでも悔やみきれず。誰かが彼は悪くないというたび、彼は彼を傷つけ続けた。
医者になったのも、結局は罪滅ぼし。贖罪。いや、彼自身が生きていくための、生きていく事を許すための代償行為でしかない。
彼は人を救うことで、自分が生きていくための許しを得ているに過ぎない。故に、それに終わりはない。これから先、彼が生きていく間、ずっと続く責め苦。
それは自分だけのもの。自分だけの罪。そこに誰かを介在させるつもりはない。
ない筈だというのに、少女の顔が時々浮かぶ。ガラス玉のような目の人形のように生気が無く無表情だった少女。気が付けば花が綻ぶように笑い、目をキラキラさせて彼に話しかけてくる少女になった。
おかげで興味のない宗教に詳しくなってしまった。
それを見ていると思い出してしまうと、自分が許されるのではと思ってしまうのが苦しい。
彼はこの仕事を天職だと思っている。何故ならば、ずっと生と死がずっと介在している。ずっと肌で感じて罪を忘れないでいられる。
自分の持てる全ての能力を持って挑み、患者や家族に、時には感謝され、時には責められて。
——けれど少女は彼に囁くのだ。
「お医者様が罪を贖えない時は言って下さい。私が一緒に背負って贖って見せます。毎日祈りますね。私と両親とお医者様のために」
——けれど少女は微笑むのだ。
「お医者様。私より長く生きて下さいね。大丈夫です。最後に天国へは二人で行ければいいんです」
少女は彼に甘言を囁き、彼に自分を許すように促してくる。
もしかしたら、彼が改宗する日が訪れるのかもしれない。
天国へ送ってくれますか? @hinorisa
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