終章

 トゥール公国歴〇九八年


「じゃあ、達者でね。しっかりやんのよ、リセル」

 フィデス本市の外れ、大街道へと続く門で馬を連れたソニアは笑った。

「落ち着いたら必ず連絡ください」

「辛気臭い顔するんじゃないよ。昨日あれだけ大騒ぎしたんだからね。しんみりするのはなし」

 リセルの表情は明らかに落胆したものだった。

 漆黒の髪帯ブラックリボンこと、トゥール公国衡士師団こうししだん、フィデス本部部隊副隊長であった衡士こうし、ソニア・グリーンウッドはもういない。

 今リセルの目の前に立っているのは、ただ音楽を愛する、ごく普通の女性だ。

「でも……」

 ソニアの顔を見てリセルが言う。どんどんとソニアの顔が涙でぼやけて見えなくなって行く。

「ばか、泣かないの!死に別れるみたいじゃないのよ」

 縁起でもない、とあくまでもあっけらかんとソニアは笑った。

「ソニアさん、私本当はリセルなんかじゃないんです……」

 リセルはずっと隠してきたことをソニアに明かした。ソニアにだけは言っておかなければならないことだ。リセルは涙を拭って、ソニアの顔を見た。しかしソニアの顔は特に驚いた様子もなく、安堵したような表情すら浮かんでいた。

「知ってるよ」

「え?」

「本当はね、知ってた。あんたの目の前で殺されてしまった、あの人がリセルだったんでしょう?」

 そう言って、ソニアは視線を逸らす。

「あんたの本当の名前は知らないけれどね、あの時グラズニィに無謀にも突っかかっていったあんたをあたしは見てたんだから」

 そして続けて言うと、ソニアは空を見る。何が言いたいのか、リセルには痛いほど判ってしまう。

 リセルへの優しさ。

 思いやり。

 気遣い。

 無骨でもずぼらでも、こんなにも繊細に人を思う心を持っている。

「ソニアさん」

「結局あんたのリセルもあんたも救うことはできなかった。だからね、名前のことはあたし、口にできなかったんだ」

 それをすら自らの落ち度にしようとする。

 あの場に現れてどうしてリセルを救えただろう。どうして剣など届く訳もないほどに離れていたソニアが、グラズニィの剣を止めることができたただろう。

 どうしようもなかったことだ、とリセルは判っていたし、こうして救ってくれた上に、様々なことを教えてくれた。そんなソニアを尊敬こそするが、責める気など皆無だった。

 リセルはセレンとは違う。届くことのなかった剣を恨むことなどできなかった。

「ソニアさん……」

「やっぱり辞めて正解だね。あの時からあたしは、何一つ守れやしなかったんだ……」

 そんなことはない、と言えば良かったのだろうか。

 ソニアの言葉はその場凌ぎの慰めを欲している訳ではないと思えた。リセルは言葉を失ってしまった。どうしたら良いのか判らない。ソニアに救われて今の自分があるのは紛れもない事実だというのに。

「アンセスタランカー、グラズニィ・ツェーンロードのこと……。忘れろとは言えないけれどね。もしも対峙することがあったら、自分を見失うんじゃないよ。私闘じゃ自分を見失った奴から死んでく。どんなに強い奴でもね。いいね、それだけは、絶対に忘れないで」

 真剣な面持ちでソニアは言う。

 判っていた。リセルはセレンと、同郷の被害者であったはずの者と戦い、そして勝利した。しかし、その勝利は殆ど偶然と言っても良いほどのものだった。あの戦いで、リセルは死んでいてもおかしくはなかったのだ。

「奴はリセルや、あの時斬られたあんた自身の仇かもしれない。殺したい気持ちは判らないでもないけどね……」

 気持ちが判る、とまでは言わなかった。それでも恐らく、ソニアには判っているのだろうと思えた。

 しかしそれは、殺人許可の言葉ではない。公国衡士師団の構成員である衡士には罪人の処刑という権限は持たされていないのだ。

 今回のように戦争と同じ状況になってしまえばその是非は問われない。しかしこんな戦争など起きてはならないのだ。

 いつの日か、グラズニィと対峙することがあっても、セレンと同様に扱ってはならない。被害者であった、友であったセレンを殺してしまったというのに、グラズニィ・ツェーンロードは殺してはならない。

 本来の衡士とはそういうものなのだ。

「リセル、あんたの本当の名前、教えてよ」

 ソニアはそう言って、煙草を取り出した。

 本当ならば罪人は捕縛することが衡士の勤めだ。リセルはそんなソニアを見ていつか自分も衡士を捨てることになるかもしれない、と漠然と思った。

 そしてもう衡士ではなくなったソニアが、リセルの本当の名を訊いてきた。

 いつかは自分から言おうと思っていたことだ。

 リセルは逡巡せずに口を開いた。

「はい……。マリルって言います。マリル・セルウィードです」

「マリルか。いい名前じゃないの。ま、でもリセルの方が似合ってるわ、あんたには。生前のリセルさんがどんな人だったのか、あたしには判らないけど、ね」

「強い、人でした。優しくて心の大きな人。姉のような、ソニアさんみたいな人でした」

「ば、ばかね、あたしそんな人間じゃないわよ……。だいたいあんたいっつもあたしを叱り飛ばしてたくせに」

 本心からの言葉をリセルはソニアに贈った。ソニアにとっては嬉しくないかもしれないが、照れ笑いを浮かべているソニアを見れば、不愉快な気分ではないことがすぐに判る。

「ふふ、そうですね。でも似てないのに、全然違う人なのに、似てるんです。私もいつかリセルやソニアさんみたいな人間になります」

 マリルであることを捨てた時から心に決めた。

 優しさに守られるだけの自分にはならない。強さがなければ本当の優しさとは言えない。強さがなければ何も、誰も救うことはできない。

 もっと心を強くしたい。強い心を持ちたい。手先だけでも、力だけでもなく、本当に強い人間に。

「もうなってるじゃないの。あんたは充分、リセルを名乗る資格があるわ」

「そうでしょうか」

 不安な顔つきでリセルは問い返す。ソニアにそう認めてもらえることは嬉しいことではあるが、自分自信で納得することはできない。

 あくまでも目標は高く、高貴なものだ。そこまでたどり着くことはまだ不可能だろう。しかしソニアの言葉もきっと嘘ではない。

 そのソニアに恥じないようにこれからを生きなければならない。

「もちろんよ。……とりあえずはセルディシアに向かうわ。落ち着いたら連絡する」

「はい。必ず遊びに行きます」

 ろくに吸いもしなかった煙草を足元に落としてソニアは言う。いよいよ別れの時だ。リセルの涙はいつの間にか止まっていた。泣くべき時ではない。笑って送り出した方が自分たちには似合いだろう。

 リセルは笑顔になって答えた。

「そん時は洒落た格好できなさいよね!男の一人でも連れて!」

 ぴ、とリセルの鼻先に人差し指を突きつけてソニアは悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「それは約束できませんけど!お洒落くらいはしていきます!」

 一瞬だけ赤面して、リセルは目を閉じるとつん、と顔を背けてそう言い返した。

 そしてソニアは傍らに停めてある馬に飛び乗った。

「じゃあねっ!口うるさい妹とも暫くお別れ!」

「暫くぐうたら姉の世話を焼かないで済むと思うとこっちも気が楽ですよ!」

「あはははっ」

 最後に二人は笑いあって背を向けた。


 時にトゥール公国歴〇九八年のことであった。



 碵石せきせき事件の後、数週間でソニアは衡士を辞めるという決断を下した。

 リセルにはそれが信じられなかった。信じたくなかった。

 しかしコッドもフィーアもそれを止めようとはしなかった。リセルだけが執拗なほどにソニアを引き止めようとしていた。

「リセル、あたしが将来音楽で生きていきたいっていうのは今まで散々言ってきたでしょ」

「でもそれは老後にって……」

「確かにそう思ってたわ。でもね、今度のことであたしはもう、あたしが衡士であることの意味を失った。あたしが守りたかったものは衡士の面子でも衡士師団の立場でもなく、音楽を知らない人、知っている人、これからあたしの演奏を聞いてもらって、音楽の素晴らしさを教えてあげたい人達だったのよ」

 アインスはいっそのことあの場で全てを壊してしまえば良かったのだ、とソニアはあの事件の後にリセルに言った。

「音楽を……」

「そ。要するに、この街の人たちを守りたかった。だけど今回あたしたちが出動して、何を守れたの?野盗の連中が起こした暴動に巻き込まれた市民、全てが偽りだって知らないまま野盗と剣を交えて命を落とした衡士、衡士師団に騙されて衡士と戦う羽目になった野盗、何よりも最大の犠牲者、ロイ・ファーゼル……。何一つ、誰一人守れちゃいないわ」

 女神の調べ亭のカウンター席でソニアは強めの酒を煽ってそう言った。

「そうかもしれないですけど……」

「あたしにとってはその一回で充分。……花の命は短いのよ!あんたみたいに若いんならともかくっ」

 突然おちゃらけてソニアは笑った。この話はもうおしまい、ということだろう。リセルは何もかけられる言葉が見つからず、ただ押し黙っているしかなかった。

「ま、あんたみたいなのがいればきっと衡士師団は間違った方には行かないって信じてるわ」

「そんな……。私なんて何も」

「なぁに言ってんのよ、見習いの時分からあたしに散々説教してたくせに」

「そ、それはソニアさんがあまりにも規律を守らないからいけないんですっ」

「そうそう、その調子だよ、リセル」

 リセルの肩に腕を回し、ソニアはリセルを引き寄せると頷いた。

「ソニアさん」

 リセルは追求するのを諦めた。もう自分が何を言っても聞き入れはしないだろう。その散々の説教も聞き入れなかったソニアだ。ここで折れてはソニアらしくない。

 既にソニアの送別会も予定されている。誰もがソニアの引退を惜しみつつ、盛大に送り出す準備をしているのだ。

「心残りなのはあんたの男関係だけねぇ。あいつ、アサートっつったっけ?リセルのこと好きなんじゃないの?」

「何言ってるんですか!」

 こんなところでアサートの名前が出てくるとは思わなかったせいか、リセルは急に声を高くした。アサートに対しては随分と失礼になってしまうが、本当になんとも思っていないのだ。

 確かにアサートは優しい。良くリセルに声をかけてくるが、リセルにその気は全くない。今でもまだ男に対しての抵抗はリセルの中にある。それがアサートのような優しい男でも同じことだ。

「ま、焦んないでいい男見つけなよ」

 ソニアはそう言って、グラスの中の酒を一気に煽った。

 ソニアの、先輩としての最後の言葉だった。リセルは、リセルになってからもソニアという姉のような存在に守られていた。

 以前のリセルのように、ソニアはリセルの中の少女、マリルの顔を少しずつ引っ張り出してきた。リセルはその優しさに甘えてしまっていた。

 ソニアが衡士を辞めると言い出した時の虚無感は、マリルの目の前で息を引き取ったリセルの時とは違ったが、どれだけ自分がソニアを頼っていたかを思い知らされた。

 そして、ソニアやリセル、少女だったマリルにとって姉のような、強く優しい女性になるには、そこからいつか旅立たなければいけないということを、少女であるマリルはようやく悟ったのだ。

 そしてリセルは一つ頷くと口を開いた。

「マスター、私にもシードル下さい」

「リセルあんた……」

「大丈夫ですよ、いつまでも子供扱いしないで下さいね」

 自ら酒を注文したリセルをソニアは驚愕の眼差しで見詰めた。

「後で吠え面かくなよ」

「これでも漆黒の髪帯の一番弟子ですから」

 マスターから渡されたシードルのグラスを受け取り、リセルは言う。

 その一言でソニアにもリセルの決意が伝わったのだろうか。穏やかな笑顔になり、ソニアはもう一杯マスターに酒を頼んだ。すぐにボトルを持ち出し、ソニアのグラスに酒を注ぐ。

「よく言うわ」

 二人は笑顔になって、お互いのグラスを傾けた。



 トゥール公国暦〇九九年


 碵石事件、今では野盗襲撃事件と捏造、変名された事件の調査は当然の如くできなかった。

 身元が判った死者の一覧は閲覧できたが、そこにはグラズニィ・ツェーンロードの名もエリン・ユークリッドの名も記されてはいなかった。グラズニィ・ツェーンロードは顔が割れているので、もしも遺体が上がっていればすぐさま公表されたであろうが、エリンはリセルと同じ身の上だ。もしも死んでしまっていたとしても、身寄りのないエリンの名はやはり死者一覧には記されないだろう。

 記されていないということはグラズニィ・ツェーンロードを捕らえることも、打ち倒すことも、そしてエリンを救うことも可能性が残されているということだ。

 微かな希望を胸に、リセルはソニアが抜けた穴を埋めるように必死に働いた。


 年が明け、リセル・セルウィードはナイトクォリー市常駐部隊に転属が決まった。それと同時にナイトクォリー市常駐部隊副隊長に任命され、公国衡士師団が預かっている、時の勇者たちが使用した剣の一振りが贈呈された。

 旒爪りゅうそう谺式かしきという魔導剣だった。

 リセルが使う剣術に見合った片刃であり、鞘口にはより強力な鞘走りの仕掛けが施された、見るも美しい白鞘の刀だ。

 六王国時代の高名な騎士の一人、剣風ウィンドの二つ名を持つ女性騎士、リィズ・アンハード・クリスツェンも所持していた剣でもあった。

 その柄はリセルの手に吸い付くかのように収まりが良かった。


 野盗襲撃事件での功績を買われ、衡士となって僅か三年での副隊長任命だった。あの事件での功績を買われたなど冗談ではない、とコッドに猛抗議を申し立てたが、後押しをしたのは他でもない公国衡士師団長コッド・スナイプス本人と、フィデス市本部部隊長フィーア・レイ・ベルクトの、事件の真相を知る二人であったことを聞かされた。

 その二人の進言であれば、とリセルは渋々承諾したが、転任先はナイトクォリー市だ。

 あの偉大なる悪魔グレーターデーモンよりも恐ろしい、屠竜とりゅう、ドヴァー・ベルクトが部隊長を務める隊である。

 この先も思いやられる。

 しかしナイトクォリー市はマーカス市の隣市でもある。いかに幼少時に世話になったとはいえ、人身売買をしている仮初の両親を捕えることもできる。

 もしもあの両親に拾われなければリセルと出会うことはなかった。

 そして連れ出され、リセルを喪うこともなく、こうして自分が衡士になることもなければ、セレンをこの手にかけることもまたなかったのだ。

 複雑な思いだ。

 しかしそれとは別に楽しみもある。

 ナイトクォリー市はソニアが在住するセルディシア市の隣でもある。いつでもソニアに会いに行けるようになったのはリセルにとっても嬉しいことであったし、アインスが在住しているのもナイトクォリー市であったはずだ。

 その妻であるトレスも勿論ナイトクォリー市に暮らしている。

 噂では軽食店を営んでいて、料理の腕前はかなりのものだという。トレスの料理を食べてみたいという新たな楽しみもできた。

 リセルがフィデス市にきてからの約五年間のように、騒がしくも楽しい、充実した毎日がきっとまた訪れるであろう。

 副隊長としての責務もソニアやフィーアをも凌駕する強さを持つドヴァーとの訓練も望むところだった。

 

 いつしか、心の片隅に渦巻く復讐の念を捨てることができるだろうか。

 美の女神、クレアファリスの教えに準じることはできるだろうか。

 その思いを胸に抱えながらリセル・セルウィードはナイトクォリー市へと向かう。


 剣戟の音すらさせず、無音で敵を討つ静かなる衡士。

 『静けき衡士、リセル・セルウィード』はこうして誕生した。

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静けき衡士 yui-yui @yuilizz

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