第五話 再会

 トゥール公国歴〇九八年 フィデス本市


 ロイと別れ、正門前広場南口から再び東口へと環状線をひた走る。

 先ほど東口から来た時にはいなかった集団がこちらに気付いた。

衡士こうしだ!」

「一人だぞ!囲んで殺せ!」

 野盗にしては着ているものが少し見栄えする。

(まさか!)

 最悪だ。

 やはりこの騒ぎに乗じて、他の反公国分子が野盗に加担している。盗賊団アンセスタランカーが手を引いたのかもしれない。現状、恐らくは公国衡士師団こうこくこうししだんでも盗賊団アンセスタランカーの規模は正確には把握できていない。

 それは反公国分子が入り混じっていることもあるが、トゥール公国各地にアンセスタランカーの息がかかった盗賊団などが多いせいもある。長であるグラズニィはまるで教祖のように崇められているという噂まで有るほどだ。

 リセルは馬を停め、剣に手をかける。これだけの人数だ。まともに相手をすれば確実に殺される。

(もし他にも反公国派がいたとしたらフィデスとアレイジアの部隊だけでは……!)

「待ちなさい!」

「!」

 逸る反公国分子の男たちを制する声がした。それは女の声だった。

「貴方達は正門前広場へ。こんなところでもたもたしてる時間はないわ!」

 聞き覚えのある声だ。

「しかし!」

「衡士なんて広場に行けば幾らでもいる。貴方達はそこで戦って。一応指揮を取る立場上、勝手なことをされては困るの」

 聞き憶えのある声は更に言って、馬から降ると、反駁した男に剣を向けた。暗がりのせいで顔は良く見えない。

「わ、判った。行くぞ!」

 反公国分子は女の言うことを聞き、馬首を巡らせる。

「待て!」

 リセルが馬の尻を蹴ろうとした途端、女が動いた。

「行かせない!」

「!」

 女はナイフを投げたようだった。それはリセルの左腕に装備された鉄羽スティールに当たり、ほんの一瞬、火花を散らす。

 鉄羽は金属板を数枚重ね強度を持たせた、盾に変わる現在の装備だ。手甲よりも遥かに丈夫だが、当然守備範囲としては楯よりも狭い。だが取り回しの良さは盾と比べるべくもない。

「くっ!」

 リセルの愛馬、アイセアが嘶き、前足を高く上げる。リセルは巧みに手綱を操り何とかことなきを得たが、反公国分子達はもはや追うことができそうもなかった。

「指揮を取っていると言ったな!」

 リセルは指揮をとっていた女に目をやり、馬を降りると剣を抜く。

「……貴女、マリル?」

 聞き覚えのある声が自分の、本当の名を呼ぶ。遠く轟音が響き、一瞬だけ辺りが明るくなる。どこかでまた火球の魔導が炸裂したのだろうか。その明かりでリセルの本当の名を呼んだ女の、軽くカールしたプラチナブロンドが鮮明にリセルの瞳に焼きついた。

「……セレン?」

 生きていた。

 あの事件の、あの場に残った生存者はリセル、いやマリルのみだった。となればセレンとエリンは連れ去られた、ということだったのだろう。

 こうして自分の前に現れたということは。

 しかし。

「な、なんで、どうしてセレンが……」

 胸元にはストールを留める三角形のプレートに逆髑髏のブローチ。

「生きていたのね……。あの時引き上げたグラズニィ達と一緒にいなかったから死んだものだとばかり……」

 リセルと仲も良く、リセルと似て嫋やかな女性だった。物腰の優雅さは少しも損なわれていない。しかしマリルを見詰めるその瞳は異常なほどに冷たい。

「エリンは……」

「エリンもこの戦場のどこかにいるわ」

「どうして!」

 正門前広場に手をやり、セレンはマリルから視線を外さないまま言った。

 どうしても信じられない。

 あんなにも嫋やかだったセレンが、敵として、盗賊団アンセスタランカーの一員として、マリルの目の前に立っていることが。

「どうしてもこうしても、グラズニィは私たちの恩人よ。貴女、あのままフィデス市に無事に着いていたらどうなっていたか、判らない訳ではないでしょう?」

 セレンが発した言葉は自分の耳を疑いたくなる言葉だった。

「……!」

「リセルは……死んだのね」

 マリルが真っ先にエリンの心配をしたからであろう。セレンはマリルから何かを感じ取ったのかもしれない。

「グラズニィの配下に殺されたわ!何故!どうしてリセルを殺した奴らと一緒に……。リセルを殺した奴を恩人だなんて!」

 もはや反公国分子のことなど忘れてマリルは叫んだ。

「グラズニィは私達に自由をくれたわ」

「自由……」

 何を言っているのか理解ができない。

 マリルにこうして自由を与えてくれたのは公国衡士師団のはずだ。グラズニィ・ツェーンロードはマリルから大切なもの全てを奪って行った、忌むべき存在だ。

「そう。私達は全員、あのまま売り物にされて、奴隷か、男たちの慰み物にされるしか道は残っていなかった」

「……くっ!」

 背中の刀傷がずきり、と痛んだ。あの時の記憶が鮮明に蘇る。

 物資を略奪する盗賊。

 女を蹂躙する男。

 無抵抗の者を殺害する悪魔のような嘲笑。

 瞳を伏せてもまだこんなにも鮮明に心に焼き付いている、暗黒の、嵐の記憶。

「まさか貴女が生きて、衡士になっていたなんてね……」

 セレンの声ではっと我に返る。セレンは間違っている。こんなことがあってはならない。討つべきは公国衡士師団ではなく、盗賊団アンセスタランカー。

 そしてグラズニィ・ツェーンロードだ。

「グラズニィを捕らえ……。いや、グラズニィを殺すために私は衡士になった!リセルの仇をこの手で討つために!」

 背中の傷が痛む度にふつふつと憎しみが沸き起こる。

 リセルと同じ目に遭わせるだけでは到底治まりそうもないこの怒りを、何故セレンは解ってくれないのか。

「無理よ。この状況を見て判らない?この勢いはもはや止められないわ」

「それに屈するようでは衡士は勤まらない」

 そう言いつつ、リセルは馬から降り、セレンを見る。罪もない人々を傷つけるだけだと何故判らないのか。無力だった自分達を襲った輩と同じことをしようとしていることに何故気付けないのか。

「人を殺そうという貴女がそれを言うの?」

「……」

 セレンがマリルを嘲笑う。

 判っている。この自分の中に渦巻く感情が、衡士にあるまじきものだということは。

(冷静に、自分を見失わず、全てのことを清算してきなさい)

 ソニアの言葉が脳裏をよぎる。

 そうだ。

 今はまだ、マリルは衡士なのだ。いやマリルではない。

 リセル・セルウィードというトゥール公国衡士師団の一員だ。

「あの時、衡士師団が何をしてくれた?リセルを救ってくれたの?貴女は助けられたのかもしれない。でも私とエリンは助けられなかった。ここまで成り上がるために何人の下衆に抱かれたと思う?どれほど苦しい鍛錬をしてきたと思う?どれほど辛酸を舐めてきたと思う?」

 まくし立てるようにセレンは言う。嫋やかで美しかった表情が今では怒りに彩られている。

「それは私も同じだ。グラズニィを討つために、ここまで厳しい訓練を続けてきた。あの嵐の記憶に苛まれ、辛酸を舐めてきた!それでも衡士師団は私をここまで育ててくれた!」

 そう。

 きっと想いは同じなのだ。マリルがグラズニィに抱く怒りも、セレンが公国衡士師団に抱く怒りも。

 そしてもう、二人が昔には戻れないという現実も。

「それならもう話すことはないわ」

 マリルの意思を読み取ったかのようにセレンは言い放つ。

「辱めを受けてまで、どうして奴に従う意味がある!」

「貴女には一生判らない」

 怒りの嘲笑をセレンは浮かべる。それをマリルは正面から受けて立った。

「ふざけないで!」

「ふざけてなどいないわ。屈辱の日々を送ったこともあった。アンセスタランカーから放り出されそうになったこともあった。それでも耐えてきた私達を、あの男は認めてくれた。何も、何もない真っ暗な未来からあの男は私達を救い出してくれた」

「結局同じような目に」

「えぇ、遭ったわ。でもね、それでもこうして私はもうくだらない男どもの慰み物になることもなく、剣を取って戦う意思を貫ける」

 マリルの言葉を遮って、セレンは言う。

(戦う、意思……)

「あの時、何もしてくれなかった衡士師団に対して……か」

「そうよ」

(……違う)

 判って、しまった。

「愚かな……」

 万感の思いを込めて、マリルは吐き捨てた。

 この愚かな女に。

 女という生物に。

「愚かなのは貴女だわ。何故命を繋ぎ止めながら公国の犬などに成り下がったの?」

「……」

 憎しみがない訳ではないのかもしれない。公国衡士師団に対し。しかしマリルはあの時、どうしても救えなかったと悔やむソニア・グリーンウッドを三年間も見てきた。

 被害者だったマリルと顔を合わせることも辛かったはずだ。

 副隊長という立場であれば、付きっ切りでいち被害者の看病をする義理も、暇もなかった筈だ。ましてやマリルを看病するなどという任務もなかった。

 それでもソニアはずっと、怪我が治っても一緒にいてくれた。

 あれほど責任感の強い女性衡士が、マリルの恩人であり、恩師とも呼べる存在で良かった。

 そして恐らくは殆ど前例のない、マリルの衡士志願をフィーア・レイ・ベルクトも受諾してくれた。マリルにとって、公国衡士師団こそが自分を救ってくれた唯一絶対の存在だ。

「公国衡士師団はグラズニィの敵。そして私達の敵よ」

「敵、か」

 セレンは狂ってしまった。

 狂わされてしまった。あの事件に。

「トゥール公国衡士師団、マリル・セルウィード、貴女もね」

「……ならばもう語る言葉はない。盗賊団アンセスタランカー!セレン・ユークリッド!」

 抜いた剣の切っ先をゆっくりとセレンに向ける。

(狂っているのは私も同じだ!)

 そうだ。

 セレンの言う通り、もう一生判りなどしない。友を殺され、大切であろう義妹と共に辱めを受けても尚、その男の言いなりになる女の言葉など。

「……」

 セレンはマリルの剣の切っ先を見詰め、そして俯いた。

「……?」

 戦う意思はないのか。

「しまっ!」

魔導の矢エナジーボルト!」

 古代語魔導アビリティランゲージ発動の呪文が完成する。俯いていたのは呪文詠唱をする口元を隠すためだ。マリルは顔前で腕を十字に組み、防御体制を取った。

 魔導の矢は絶対に標的を外さない。回避行動は無意味だ。

「!」

 セレンの掌から現れた魔導の矢は三本だ。力を抑えているのか、それが限界なのかは判らないが、しっかりと防御すれば致命的なダメージは避けられる。

 がつ、と瞬間的に三度、左腕、左脇腹、左大腿部に衝撃が走る。剣を振るう右腕を負傷しないよう僅かに半身になって左半身で魔導の矢を受けた。大怪我とまではいかないが、無理が効くほど無視できるダメージでもない。

「っ!」

 魔導の矢が消えた瞬間にマリルは無言の気合で踏み込んだ。セレンは既に剣を抜き、防御体制に入っている。軸足となる左大腿部に残る痛みのせいで踏み込みが浅い。マリルは剣を横薙ぎに振るうと、もう一歩踏み込み、返す剣で更にセレンを狙う。

 ぎぃん、と、独特の剣戟の音が響く。

旒剣りゅうけん!)

 旒剣同士がぶつかり合うと発せられる独特の剣戟の響き。マリルの剣を弾き、セレンも反撃をしてくる。マリルの伸びきった腕の根元、肩口を狙い済まし、上段から剣を振り下ろしてきた。咄嗟に左腕の鉄羽でそれを阻む。

「!」

 魔導の矢を受けた箇所が悲鳴を上げるかのように疼いた。ぐん、と左腕が押し下がる。

「がっ!」

 セレンの剣はマリルの鉄羽を押し下げ、鎖骨にぶつかった。鉄羽のおかげで骨折まではしていないようだったが、マリルは膝をついた。

(くそっ!)

 まだセイローの村にいた頃は、セレンには魔導の素養は見受けられなかった。しかしアンセスタランカーにいる間に、魔導の素養が生まれたのだろう。相手がどんな攻撃をしてくるか、予想し切れなかったマリルの油断だ。

「剣を引きなさい、マリル」

 マリルを見下ろしてセレンは言った。その瞳の温度は驚くほど低い。

 しかし。

「……そんなものか」

「何?」

 低く呟いたマリルの声がセレンに疑問を抱かせる。

「何が衡士師団を討つだ。ここで私を見逃すようでは程度が知れる」

「マリル!」

「あああっ!」

 マリルは渾身の力を込めて立ち上がる。同時に左腕を乱暴に振り回し、セレンの剣を弾いた。

(美の女神クレアファリス……)

 口の中で神聖魔導ホーリーランゲージの奇跡を行使するための呪文を詠唱する。

 神聖魔導の中では初歩的な神聖魔導だ。ごく僅かな呪文で神聖魔導は完成する。

空圧撃エアブラスト!」

 呪文の完成と共に奇跡の言葉を発する。両手に圧縮された空気が集中する。その両手をがら空きになったセレンの腹に突き出すと、両腕に衝撃が返ってくる。セレンは吹き飛ばされ、二度、三度と転げ周り、仰向けになって倒れた。

(……美の女神クレアファリスよ)

 更にマリルは精神集中を続け、呪文を唱えた。今度は右手に淡い光がともる。治癒の神聖魔導キュアライトウーンズだ。その光を自分の鎖骨に当てると、セレンに切り裂かれた鎖骨の傷口が見る間に塞がった。そして魔導の矢を受けた部位にもそれを当てる。

神聖魔導ホーリーランゲージ……」

 セレンもまた、マリルが神聖魔導を使えることは知らなかった。空圧撃のダメージは見た目ほど軽くはない。マリルは傷を癒し、これで立場は逆転した。

「覚悟がないから油断する」

 どちらかと言えば自分にそう言い聞かせるようにマリルは吐き出した。剣を鞘に収め、ぐ、と腰を落とす。無論このままではマリルの剣はセレンに届くことはない。しかしマリルが得意とする剣技には特殊な歩法があり、一気に間合いを詰められるのだ。一気に間合いを詰め、剣を抜くと同時に斬る。それがマリルが得意とする居合イアイという剣技だ。

「覚悟がない、ですって?」

 セレンは立ち上がると、左手にナイフを構え、そう言った。

「偽りの、歪んだ想いに何が宿る!」

「言ったはずよ。貴女には一生判らないと!」

 言った後にセレンはまた某かの呪文を唱えたようだった。しかし同じ轍は踏まない。マリルは踏み込んだ。

鏡幻影ミラーイメージ!」

 古代語魔導発動の呪文を発した途端、セレンの姿がゆらりと揺れた。そして背後にもう一人セレンが現れる。

「甘い!」

 魔導師が己の身を守るために使う魔導だ。セレンが最初に使った魔導の矢と同じく、この鏡幻影の魔導は術者の魔力が強大なほど現れる幻影の数が多くなる。最初に放たれた魔導の矢は三本だ。そして三本であれば初歩の域を出ていない。

 その証左か、今現れた鏡幻影も一体のみ。セレンは魔導師としての力はそれほど強大なものを持ってはいない。

 鏡幻影は衝撃を与えただけで簡単に消すことができる。マリルは一歩目の踏み込みでその鏡幻影を消し去ると、更にもう一歩踏み込んだ。

「貴女がね!」

 鏡幻影を消されても動じることなく、セレンは狙い済ましたようにナイフを投げる。そのナイフはマリルの腹部に深く突き刺さった。衝撃と腹部に走る熱を咄嗟に感じ、それでもマリルは気を吐いた。

「覚悟……!」

 半ば自暴自棄に踏み込むと、力の限りに剣を振るう。

「!」

 その剣はセレンの腹部を深く切り裂いた。強い踏み込みの勢いが余り、セレンと激突してマリルの体は地面に転がる。

「ぐっ!」

 腹部に刺さったナイフの柄が地面に当たり、更に深く体に突き刺さる。それでもマリルは痛みに耐え、立ち上がると、残心する。

「……」

 倒れたまま起き上がれなかったセレンは、信じられないものを見るかのように自分の腹部を見、手を当てた。致命傷なのは火を見るより明らかだった。あれでは言葉を発することも難しいかもしれない。

「う、そ……」

「それが、貴女の結末だ。セレン・ユークリッド」

 非情に、マリルはそう告げた。

「マリ、ル……」

 途切れ途切れに、弱々しくセレンはマリルの名を呼ぶ。

 しかしマリルは、いや、リセルはそれを否定する。

「違う」

「……?」

「私は、リセル・セルウィードだ」

 剣を大きく振るい、セレンの鮮血を払うと、剣を収める。リセルはそうセレンにも自身にも言い聞かせる。

「そう……。強く、なったのね」

「リセルの遺志と、衡士師団の恩恵、そしてグラズニィ・ツェーンロードへの復讐心で私はここまできた。マリル・セルウィードはあの時、グラズニィ・ツェーンロードに殺された。既にこの世にいない」

 リセルはそう言って乱雑に上着と肌着を脱ぐと、背の刀傷をセレンに見せた。

「ふふ、本当に、ね。覚悟がなかったのは、私、なのね……」

 リセルの背の傷に手を伸ばしかけ、そして辞めた。恐らくはもうその力も残っていないのだろう。リセルは上着を着直し、整える。

「……セレン」

「どうしようも、なかったのよ……。私は、グラズニィを、あの男に抱かれて、そして、愛して、しまった……」

 そうだ。

 本当に、どうしようもなかった。あの時に運命の矢は放たれ、セレンとリセルは完全に進むべき道を隔たれてしまった。あの時、リセルとセレン、そしてマリルとエリンが逆の立場になってしまうことも充分に有り得たのだ。

「すまない」

 今リセルの胸中を占めるのはただただ、友を手にかけたという悔恨の念だ。

「いいのよ……。誰をどうやっても、責められ、ない……。貴女が、衡士師団、を、愛するよう、に、私も、あの男を愛した……」

 力があれば、セレンも救えたはずだった。こうして戦う前に、救うことができたはずだった。それが不可能でも、致命傷を治癒するほどの神聖魔導を行使できる力があれば、セレンを救えるというのに。

「私がグラズニィを憎むように、貴女も衡士師団を憎んだ」

 お互いに、何の矛盾もない思いなのかもしれない。

 けれど、リセルはそれを納得することができない。セレンは恐らく、死んでしまいたいと思うほどの辱めも屈辱も受けてきたはずだ。

 それでもセレンがそれに耐えてきた、本当の、たった一つの真実。

「そう、ね……。そして、残された、真実、は、唯、一つ……」

 そう、セレンが言う真実とは別の。

「私が、セレンを殺した」

 リセルが口にする真実とは別の。

「救って、くれた、のよ、リセル……」

 今ある結果という事実とは別の思いが、真実がセレンにはあった。

「それが判っていながら!」

 リセルの声に、セレンは笑顔になったようだった。ただ哀しみしか感じられない、淋しい笑顔だった。

「どうしようもない、って、言った、でしょ」

 グラズニィ・ツェーンロードを愛してしまったという過ちの真実も、確かにあったのだろう。

「でも、だからって!」

 恐らく、もうリセルの姿も見えていないであろうセレンに、リセルは言った。その声は涙に滲んでいた。

「泣か、ない、で、リ……セ」

「……」

 リセルは跪き、セレンの既に冷たくなり始めた手を取った。

「エリ、ンを……妹、を……お、願い、ね……」

 それが、最初で最後の、たった一つの、真実。

(生きなさい……)

 あの日のリセルの声を、聞いた気がした。



 フィデス本市 正門前広場外周環状線


 セレンが息を引き取ったのを確認すると、リセルはセレンの遺体を環状線の道端に横たわらせた。セレンには申し訳ないが、弔っている時間はない。美の女神の葬送の詩を、祈りと共に捧げると傍らに跪き、手を合わせ、ストールを留めていた三角髑髏のブローチを手に取る。

 それを上着のポケットに入れると立ち上がり、セレンの遺体に背を向ける。

「すまない、セレン……」

 リセルは立ち上がると、精神集中を開始した。腹部のナイフは刺さったままだ。抜いてしまえばそこから血液が噴出し、止まらなくなってしまう。ナイフを抜く前に治癒の神聖魔導を行使するための精神集中を開始する。

(美の女神、クレアファリスよ……)

 呪文詠唱を終えると、一際強く精神を集中させ、ナイフの柄を掴み、一気に引き抜く。

「っ!」

高みの癒しの神聖魔導キュアクリティカルウーンズ!)

 精神集中が乱れそうになるが、何とか持ちこたえ、治癒の神聖魔導を行使する。患部の細胞が急激に活性化し、熱を発してくるのが判る。

「く……」

 酷い熱と痛みが走るが、徐々に、ゆっくりと痛みが和らいで行く。しばらくそうして立ち尽くしていると、轟音がまた響いた。

「急がないと……」

 痛みが引き、傷口が完全に塞がったのを確認すると、リセルは持っていたナイフの、自らの血で汚れた刃を上着の裾で拭った。帯剣用のベルトにはナイフをストックするためのスリットが付いている。そこにセレンのナイフを納めると辺りを見回した。

「いてくれたか!」

 少し離れた所にリセルの愛馬、アイセアがいた。流石に厳しい訓練を積んでいる軍馬だけあって多少の騒ぎでは動じず、こうして主人を待ってくれていたのだ。

「ありがとう、アイセア。……急ごう」

 リセルは馬に飛び乗り、首元を優しく叩き、腹を蹴った。

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