第三話 叙勲
トゥール公国歴〇九七年 王妃の月
フィデス市
あの惨劇から三年の月日が過ぎた。
今日は叙勲式があり、リセルは晴れて
「ソニアさん!遅れますよ!」
リセルはソニアの自室の前で叫んだ。真新しい衡士の制服を身に着けると誇らしい気分になったものだが、叙勲式に同席するはずのソニアが一向に部屋から出てこないせいで、新鮮な気分もぶち壊しになってしまっていた。
「判った!判ったから大きな声出さないで!」
そう言いながらソニアは自室のドアを開けた。出てきたソニアの顔色は最悪だった。
「また遅くまでお酒呑んでたんですか!」
今日は叙勲式があるから控えめに、と昨晩口煩く言っておいたというのに。
「あぁぁぁ……。大きな声出さないで……」
誰がどう見ても二日酔いの顔をしている。ソニアは額を押さえ、呻くように言った。
「お酒臭いですよ、ソニアさん……」
「だって可愛い可愛い後輩が異例の速さで正式に衡士になるんだから、こんな嬉しいことはないでしょう。もう昨日は吞めや歌えやの大宴会よ。ね?」
よくも本人のいないところでそれだけ盛り上がれるものだ。
「ね、じゃありませんよ……」
全く、とリセルは腰に手を当てて呆れ顔を作った。いざ仕事となるとソニアは立派な衡士ぶりを発揮し、男女問わず憧れの的となっているが、規律は守らない、事務仕事は殆んどリセルに丸投げ、私生活は不規則な上にだらしなく、衡士見習いであったにも関わらず、リセルは幾度となく先輩であるソニアに説教をしたものだった。
「うー、気持ち悪い……」
「叙勲式終わるまで我慢してくださいね」
生憎二日酔いを治せる
リセルは無慈悲にそう言うとソニアの腕を引っ張った。
フィデス市役所内にある大広間でトゥール公国衡士師団、衡士叙勲式は行われていた。かつてはフィデス王国国王謁見の間であり、王国騎士の叙勲式もここで行われていたと言われている。
フィデス市は六王国時代から武力と学力、そして文化を重んじる国であり、王権政治時代であったにもかかわらず、国王の即位に関しては世襲制をいち早く廃止した国でもあった。
フィデス王国最後の王、
ナイトクォリー王国国王
他にも
など、そうそうたる時の英雄たちがグランツ王の指揮に従ったと言われている。
第二次トゥール六王国大戦終結後、グランツ王がこのトゥール公国衡士師団設立の案を持ちかけ、他五王国の首脳陣たちがそれに賛成をした。
トゥール公国衡士師団の本部がフィデス市に置かれているのはそういった経緯がある。
毎年行われる叙勲式では公国衡士師団を総括するトゥール公国国営局の役員たちも出席をすることになっている。
公国衡士師団総司令や副指令は公国衡士師団の最頂点に位置する者たちであるが、衡士の出ではなく、国営局から選抜され者が殆どだ。
「リセル・セルウィード。本日を持って、トゥール公国衡士師団の衡士に任命する。トゥール公国のこれからを守るため、貴公の活躍、期待している」
「はい!」
トゥール公国全土の衡士の頂点にいる、第八代トゥール公国衡士師団長、コッド・スナイプスが公国衡士師団の紋章をリセルに手渡した。リセルはコッドの声に答え、その紋章を受け取る。
公国衡士師団の制服の背にも刺繍されている、翼と杖と若葉をイメージしたものであり、翼は力、杖は秩序、若葉は平和を意味するものとなっている。
その後、数名の衡士見習いがリセルと同じように叙勲され、叙勲式はつつがなく終了した。
「さてリセル!呑み行こっか!」
衡士見習いから衡士に上がったと同時に、宿舎はフィデス市役所内にある衡士宿舎に移ることになる。リセルは先輩、後輩たちに手伝ってもらい、荷物を移動させ、一息ついたところだったのだが、突然ソニアが顔を出した。
「ソニアさん……。さっきまであれだけ苦しんでたのに……」
すでに夕刻時とはいえ、ソニアの元気さにリセルは呆れた。リセルはクレアファリスの信者ではあるが、神官ではない。クレアファリスの神官は酒を嗜む時を決められているが、単なる信者にはそこまでの厳しい戒律は当て嵌められない。
「なに、二日酔いなんか夕方になりゃ吹き飛ぶってもんよ!吹き飛ばなくたって向かえ酒よ!」
リセルの部屋へ入り、ソニアは声も高らかにそんなことを言った。
「やっぱり女神の調べ亭ですか?」
「そうね、可愛い可愛い後輩のお祝いに、心を込めて一曲プレゼントするわ!」
「それは大変いいことだけど、あんまり呑みすぎないようにねぇ、ソニア副隊長殿」
そこへ、もう一人女性が入ってきた。フィーアだ。ソニアはフィーアの顔を見るなりばつの悪そうな表情をした。
「フィ、フィーアさん……」
「あ、フィーア隊長」
「おめでとう、リセル。たった二年で衡士になれちゃうなんてさすがね。ソニアだって三年かかったのに」
フィーアはそう言って笑った。
「三年でなれれば早い方ですぅ!」
リセルが優秀すぎるのよ、と嘯くようにソニアは言う。
「ま、あたしの見る目があったってことよね」
自己満足するようにフィーアは笑顔になる。
「いやいや、あたしの教育が良かったんですぅ!」
「二日酔いで叙勲式に出た口が良く言うわね」
「う……」
まともに言葉を詰まらせたソニアを見てリセルは思わず噴き出した。
「今日のお祝いはね、ソニアの思いつきだけじゃないのよ。あたしも同じこと考えてたし、今日は叙勲式だから
フィーアは言ってソニアの肩に手を置いた。
「屠竜!屠竜って……旦那さんのドヴァー隊長もですか?」
フィーアの口から出た名前を聞いて、リセルは目を丸くした。
確かにドヴァー・ベルクトは叙勲式に参加していた。そして彼の二つ名でもある屠竜といえば、傭兵の
「そうよ。だからさっさと支度しなさいよ、リセル」
もとよりソニアに誘われた時点で断るつりもなかったのだが、屠竜との邂逅の機会があるのならば、喜んで誘いを受けようという気になる。
「判りました。ではありがたくそのお誘い、受けることにします。ただ……」
「よっしゃ!呑むぞー!」
リセルの言葉を遮ってソニアがはしゃぐ。ソニアは知っていることなのだが、リセルはフィーアとは杯を酌み交わしたことがないので、言おうと思っていたことがあるのだ。
「じゃ、また後でね。いい頃合になったら声かけるわ」
フィーアはそれだけ言うとリセルの部屋から出て行った。
「はい」
結局言えず終いだったが、その時になってからでも遅くはないだろうと思い、リセルはソニアに向き直る。
「ソニアさん」
「え?」
「今日は本っ当に控えてくださいね!」
ずい、とソニアに詰め寄ってリセルは言う。
「え?あ、あぁうん、判ったわよ……」
目を逸らしてソニアは曖昧な返事を返した。
「ちゃんと私の目を見て、言ってください」
「判ったわよ!今日はハメを外さないって誓うわ!」
観念したのか、ソニアは半ば自棄になってそうリセルに誓った。
フィデス本市から少し離れたところに郊外の村、リーンがある。女神の調べ亭はそこにあった。
リセルがソニアと共に到着した頃には既にフィーアとドヴァー、そして衡士師団長であるコッド・スナイプス、そして初めて顔を見る男がいた。
「あ、きたわね、リセル、ソニア」
「あら、アインスじゃない」
ソニアはリセルの知らない男にそう言った。
「よ、ソニア、久しぶりだ」
「アインス、さん?」
「おうおう、この見るからに頭の悪そうなのが、天下の神威って奴だ」
ドヴァーがそう言ってアインスの肩を叩いた。青黒髪を肩まで伸ばした、男性にしては少し小柄で、とても最強と謳われるような男には見えない。
「初対面の相手がいんのにそういうこと言うなよドヴァー」
「本当のことだろ」
アインスの言葉に間髪いれずに返すドヴァー。どうやら屠竜のドヴァーと神威のアインスは顔見知りで、しかも随分と深い仲らしい。そしてついついソニアの顔色を伺ってしまう。
もう六年ほど前のこととはいえ、本当に吹っ切っているのだろうか。そんな気持ちとは別に鎌首をもたげてくる、ざらついた感情をリセルは自覚する。
「お互いになー」
「ま、否定はしねぇけどよ」
は、とアインスは短く笑って立ち上がった。
「今日衡士になったって?アインスだ。まぁ商売柄敵対することも……まぁ最近じゃあないか。ともかくよろしくな」
アインスは笑顔になってリセルに手を差し出した。その手を見た瞬間、今思い返さなくても良い記憶が脳裏をかすめる。
「傭兵が、何故……」
「ちょ、ちょっとリセル、こんな時に何考えてるの?」
「……でもソニアさん」
傭兵というのは金次第で汚れた、違法である仕事も平気でやる。あの事件以来傭兵も嫌悪してきたリセルにはソニアの言葉も耳に入らなかった。
「あー、なんかアレかな。んじゃ別んとこで呑み直すわ」
「アインス」
頭を搔きながら言うアインスにドヴァーがなんとも言えない表情でアインスの名を呼ぶ。
「あ、も、申し訳ありませんアインスさん。私どうかしてました。是非ご一緒してください」
アインスの、言ってしまえば腰の低い態度にリセルは我に返った。
気まずい雰囲気を作ってしまって、リセルはすぐさまアインスに謝罪する。ドヴァーだけではなく、コッドやフィーア、ソニアにも迷惑をかけてしまう。折角祝賀の場を作ってくれたというのに、これでは申し開きの余地もない。
そもそもアインスは犯罪者ではない。『神威』という二つ名は悪名ではないのだ。傭兵すべてがあの事件に関わっていたような悪人ではないことはリセルも判っていた。
あの隊商を、リセルたちを護衛して命を落としたのもまた傭兵だったのだから。
そして一度でもソニアが好きになった人物であれば、それを疑うことはソニアをも認めないことと同じになってしまう。
それにアインス本人も、元々知り合いであったソニアやドヴァー、フィーア、コッドの新しい後輩を祝うために態々駆けつけてくれたのだ。
なんという恥知らずな態度を取ってしまったのだろうか、とリセルは後悔し、アインスに深く頭を下げた。
「い、いやいや頭なんか下げないでよ。敬われる商売じゃないことは百も承知だしさ。主役がそう言ってくれるんだったら、おれもありがたい」
アインスは崩れた衡士の礼を、おどけてリセルに見せた。気さくな人なのだろう。リセルのような若輩者に失礼な態度を取られても笑顔でそれを許してくれるというのは中々できることではない。
「折角だからトレスも連れてくればよかったのに」
再び腰を下ろしたアインスにフィーアが言う。
「あぁ、かれこれ一年は帰ってねぇからなぁ」
「一年!あんたばかじゃないの?」
「もう愛想つかされてるんじゃないの?」
アインスの間延びした声に、フィーアとソニアが口々に言う。ソニアの表情を見る限り、本当に今はアインスのことをなんとも思ってはいないのかもしれない、とリセルは安堵した。
「だから頭悪そうって言ったろ」
「……」
閉口したアインスを見て楽しそうにドヴァーが笑う。後から聞いたことだが、トレスというのはアインスの妻のことらしい。フィーア、ドヴァーとは長い付き合いなのだそうだ。
そうこうしているうちに、飲み物が運ばれてきた。各々の手元にカップが回ると、ドヴァーがカップを手にする。
「さて、じゃあ乾杯の音頭はコッド師団長殿にやってもらうかな」
「わしか?まぁ別に構わんが……」
コッド・スナイプス衡士団長は髭面のいかにも貫禄ある初老にも届きそうなほどの厳つい顔立ちをしているが、性格はとても温厚で、リセルも直々に何度か声をかけてもらったことがあった。
「手短に頼むわよ、コッド殿」
フィーアがそう言うと、コッドが立ち上がった。
コッドはアインスは勿論ドヴァーやフィーアよりも随分と年配に見えるが、昔からの付き合いなのだろうか。その口調は親しげで上官と部下という関係ではないように思える。
「あー、わしもそろそろ引退が近付いてきた訳だが、引退前にリセルのよ」
「なげぇ」
ぶすぅ、っとコッドの言葉を遮ってアインスが呟いた。
「何が長いか!だいたいお前が戻れば衡士師団だってずいぶんと楽になるというに、いつもいつもわしを無視しよって!」
まだ一言しか話していないというのに早速ぼやいたアインスにコッドは食いかかる。お互い冗談でやっているということがすぐに判る。それにしても戻るとは一体どういうことなのだろうか、とリセルは訝しげにアインスを見た。
「だめだめ、こんなのが戻ったら規律が乱れるだけですよ、師団長」
ソニアが手をひらひらと振って笑う。ソニアに規律云々を言う資格があるとは到底思えなかったが、リセルはとりあえず黙ってことの成り行きを見守った。
「ちげぇねぇ」
ドヴァーがそれに同意する。いくら犯罪者ではないとはいえ、傭兵と衡士とは敵同士になることもある。それなのにこのメンバーが醸し出す和やかな雰囲気はどういうことなのだろう、とリセルは今更ながら首をかしげた。
「ま、堅っ苦しいの嫌だしよー。気が向いたらなー」
「そういえば聞いたぞアインス。お前、三代目の時からまだ正式に除隊してないそうじゃないか」
三代目、とは何のことだろうか。話の流れから察するに、アインスが元衡士だったというのは何となく理解できる。しかしコッドの言う三代目、という言葉が理解できない。
「何年前の話だよ。でも随分と懐かしいな。あの頃までは衡士でも強ぇ連中がうじゃうじゃいたからさ。訓練だけでも退屈しなかったな」
「今の衡士は駄目、ということですか?」
リセルは判らないながらも、なるべく角が立たないようアインスに訊ねた。アインスの言い様は今の衡士では駄目だと言っているようにも聞こえる。今日衡士になったばかりのリセルにとっては聞き捨てならないことだった。
「や、そうは言わねぇよ。ただ、あの頃の衡士は大戦で活躍した連中の子供やらなにやら、血筋がいいのがまだ揃ってた。あの頃の英雄と同じくらいの衡士は実際今は少ないぜ」
いや、聞いたことがあった。
神威は森の妖精エルフ、もしくは有翼人種フェザーであり、長寿なのだと。とすると、三代目というのは第三代公国衡士師団長のことなのだろうか。
「結局同じことなのでは……?」
「……まぁそう思いたきゃそれでもいいさ。今の自分を信じられないなら尚更、な」
アインスの目つきはそれまでの呑気なものではなく、真剣なものに変わっていた。
(……!)
深い、戦慄すら覚えるその瞳にリセルの自尊心は吸い込まれそうになる。
(これが、神威……)
「そ、それは……」
アインスの格に完全に飲まれた。
戦わなくても判ってしまうほど、自分とアインスの実力には差がある。思わず口ごもってしまったことで完全に負けを認めたようなものだった。
確かにリセルは戦争を知らずに生きてきたが、どん底は知っている。
アインスはそのことを見抜いた上で、リセルにそう言っているのかもしれなかった。
「衡士になることが甘いもんじゃないことくらいは良く知ってるさ。たださ、心も体も強い人間ってのが今は少ないんだ。戦争がなくなったこの微温湯状態の中で、心身ともに強い戦士ってぇのはこのご時世じゃよっぽどの事情がなけりゃ育たねぇもんでさ。何もリセルが弱いって言ってるんじゃないことくらいは判るよな?」
言いたいことはそれだけ、と言わんばかりにアインスは懐から煙草を取り出し、背もたれに背を預けた。
「私は、弱くないですか」
アインスとの格の差を見せ付けられたばかりで、自分が強いなどと納得することはできない。ただ単に物理的な強さだけを指摘しているのではないであろうことは何となく判るが、それでも簡単に納得はできない。
「はぁいけねぇいけねぇ。年取るとどうも説教臭くなっちゃうなー。すまんリセル、忘れてくれ。それよりも今日はリセルの衡士叙勲祝いなんだろ、楽しくやろうぜ」
全く年を取っているようには見えないアインスがそうぼやく。アインスの一言でリセルは遅まきながら気付いた。
「アインスさん……」
「アインスでいいよ」
今度はなんだ?とばかりに疑問のまなざしを向けてくるアインスにリセルは続ける。
「ではアインス。貴方は先ほど、コッド師団長が三代目の時から正式に除隊していない、と言った時に頷きました」
「あぁ」
「三代目師団長、セヴァーツ・カティスが活躍した時代は公国歴二二年から三〇年。これは一体どういうことなんですか?」
エルフやフェザーという亜人類には寿命がないと聞く。リセルがまだセイローの村にいた頃にエルフは二回ほど見たことがあったが、エルフは僅かに耳が尖っている種族だ。フェザーという種族はリセルは見たことがなかったが、背に二対の翼を持つ亜人類であることは知っている。そして今、アインスの耳は尖ってはいないし、背にも翼はない。
となれば、どういうことなのだろうか。
「おれは呪われてんだよ」
端的にアインスは答えた。
「呪われて……」
「あぁ、禁呪の中に『
「……はい。聞いたことだけは」
禁呪というのは
「おれとトレスは六王国時代にその制約の魔導をかけられちまったんだよ」
「どんな制約が……」
「時の流れに準じられない、生きるって制約の魔導さ。ま、死のうと思えばいつでも死ねるけどな。自殺以外の手段なら。不老ってだけで不死じゃない」
制約の魔導というのは最も魔導が発達した魔導帝国エールスの時代に生まれた魔導だと本で読んだことがあった。その制約を破ろうとするものには、耐え難い苦痛が与えられる、という。
「クソの役にも立たねぇ魔導さ。だからこそおれはそれを呪い、って言ってるんだけどな」
「しかし永遠の命を欲しがる輩はいくらでもいるぞ」
コッドがそう言ってアインスの肩を叩く。どうやらコッドはこのことを知っていたようだった。もしかするとアインスの実年齢はコッドよりもずっと上なのかもしれない。そう考えれば先ほどのやり取りも納得ができた。
「くれてやれるもんならとっくにくれてやってるさ」
「今じゃ禁呪なんて扱える魔導師はごく僅かだし、制約ほど高度な魔導ともなると使い手はいないでしょうし」
そう補足してくれたフィーアはかなり高度な魔道を使用できると聞いたことはあった。しかし、禁制魔道を行使できるほどではないのかもしれない。
「なるほど……」
「ま、おれも大戦時は連合にいたし、公国が発足しても魔族の残党だの反公国派だので色々大変だったからさ。ちぃとばかり力を貸しただけのことさ。あの頃に比べりゃ魔族も大人しいし、大した反乱も起こらない今じゃのんびり暮らすのが性に合ってる。ま、おれも腑抜けたってことさ」
軽く笑いながらそう言うアインスの瞳の中に、微かな憂いを感じる。
「ちぃとばかりなんてのは謙遜だな、
「黒衡!」
コッドの言葉にリセルは頓狂な声を上げた。
黒衡というのはコッドが述べた影閃黒衡衆という特殊部隊に所属する衡士の俗称だ。
トゥール公国衡士師団には特殊部隊が存在する。
一つは形式上だけではあるが、六都市に駐在する部隊の隊長のみを集めた
どの部隊も戦闘力に特化した部隊であり、性格的、人格的に問題のある者もいると言われている。また、六鉾白衡衆以外はフィデス市本部部隊に籍を置くだけで、行動にはほぼ制限がない。
影閃黒衡衆、月華蒼衡衆、雪華紅衡衆の三つの特殊部隊は相当な修練を積んだ者でなければ選抜されず、どの部隊もトゥール公国衡士師団設立から百年が過ぎようとしているのに、十人を超えたことがない。
「お前の籍はまだ残っておるらしいぞ」
「そう言えばそうね、今の相方は確かリュリュだったかしら」
聞いたことがある。特殊部隊に選抜された女性衡士はことのほか多い。絶対数はやはり男性衡士の方が多かったが、比率で考えると、特殊部隊以外の、一般衡士の女性衡士の割合よりは、特殊部隊における女性衡士の割合の方が高い。
「あー、あいつも立派になったもんだ。相棒なんて動きが窮屈になるだけだから衡士師団には戻ってこなくていい、ってこないだ言われたばっかだよ」
「リュリュ・エヴェリーン、ですか」
「あぁ、知ってんのか?」
「いえ、面識はないですが特殊部隊に所属する女性衡士はつい気になって……」
リュリュ・エヴェリーンはリセルより四歳ほど上だ。ソニアやフィーアよりも若くして特殊部隊に選抜されたのは、剣技はもちろん、古代語魔導を使いこなす魔導衡士でもあったからだ。
「なるほどなぁ。……なぁリセル」
「はい」
アインスは苦笑を浮かべて言う。
「今日はお前さんの祝賀会だ。こんな辛気臭ぇ話やめて、楽しく呑もう」
テーブルの上のワインボトルを一本持つと、アインスはそれをリセルに差し出した。
「あ、いや、私は……」
「一杯くらい呑みなさいよ。天下の神威が注いでくれるってんだから」
どう断ろうか、と迷ったところにフィーアの声がかかる。そういう訳ではないのだ。しかしつい持ってしまったカップの中はもうワインで満たされてしまっている。
「あーフィーアさん、リセルってば下戸なのよ。もうてんで弱いの」
「ほぉそうか、じゃあどんどん呑ますぞ!」
宿舎を出る時にフィーアに言いかけたことを今更ながらソニアが言う。こうなる前にやはりしっかりと言っておけば良かった、とリセルは後悔した。早速ドヴァーが悪乗りする。いくら上官の指示とはいえ、呑めないものは呑めない。
「ドヴァー、呑めない人間に無理に薦めるもんじゃないわよ」
「薦めてんじゃねぇよ、め、い、れ、い」
ドヴァーが意地悪い笑顔でフィーアに返す。
(く……)
命令とあればもう退くことはできない。リセルは意を決した。
「……で、ではこの一杯だけで許してもらえますか?」
「あんたねぇ、こんな時にまでそんなくそ真面目になる必要なんかないのよ」
「まぁおれも薦めといてなんだけど、下戸なら無理はよした方がいいと思うぞ」
ソニアとアインスが口々に言う。しかしもうリセルにはその言葉は届いていない。
「ばかだなてめえら。面白ぇじゃねぇか。ほれ呑め呑め!」
「鬼だな、ドヴァーよ」
心底楽しそうなドヴァーに、しかしコッドが笑って言う。
「酒で辛い思いしねぇうちはイッパシとは言えねぇんだよ。判んねぇかなぁ」
「判んないわよ」
「……!」
ドヴァーの一言がきっかけとなった。もう半人前扱いされる訳にはいかない。今日からリセルは衡士になったのだ。きつく目を閉じると、カップの中のワインを一気に呷った。
「うぷっ」
「リセル……」
呆れた顔でソニアが言う。
「おっ、いけるじゃねぇか」
そう言うとドヴァーもそれに続くようにカップに入ったエール酒を一気に飲み干す。
「結局わしの乾杯のなんとやらは無視か」
「話が長ぇからいけねんだよ」
「なにが長いか!」
愚痴るコッドにアインスがそう言って、コッドのカップにカップをぶつける。リセルはワインを飲んでから動かなかった。
正確には胸の辺りがかっかと熱を持ち、身体が熱くなってきていて、下手に動けない状態に陥っていたのだ。目だけで周りのできごとを判断しているようなものだった。
「じゃあ仕切り直しか?リセル、もう一杯だけな」
「ドヴァー隊長!意地悪言わないの!」
ひひひ、と笑ってドヴァーが恐ろしいことを言う。一杯呑んだだけでこの有様なのだ。もう一杯呑んだらどうなるかリセルには見当もつかなかった。ソニアが制止の声をかけてくれてはいるが、恐らく効果はないだろう。
「ふむ、将来有望なリセルの健康のために仕切りなおしはやめておくとするか」
「もう顔に出始めたぞ」
アインスがこちらを見て言う。身体が熱くなっているせいか、顔も高潮しているのだろうか。リセルの思考能力は既に低下し始めていた。
「顔に出る奴ぁ本当は強ぇんだぜ。ただ単に今まで呑んでなかったってだけで、後は慣れだ慣れ。酒なんぞ吐いた数だけ強くなるってもんだ」
そう無茶苦茶なことを言いながらドヴァーがリセルのカップに再びワインを注いだ。
(潰す気だ……。ドヴァー隊長は私を潰す気だ……)
目の前の男が
ごくり、と喉を鳴らし、自分のカップに注がれるワインを見る。
「おいよせってドヴァー。おれもそんなに強ぇ訳じゃないからな。弱い奴の気持ちは判る」
(弱い?)
何故神威は先ほどから気にかかることばかりを口にするのだろうか。
「私はやっぱり弱いんですか?」
「やっぱりも何も一杯でその有様じゃ……」
(その有様?)
今、自分が何をしでかしたというのか。酒の席で酒を呑んだだけだというのに、その有様も何もないではないか。
確実に回っていない思考回路を勿論自覚することなどできないままにリセルは考えを巡らせる。
「これでも訓練は一生懸命積んできました。……実戦経験はありませんが、でもそれはこれからです」
「……んん?」
新米の衡士に実戦経験を問うのは愚問だとは思わないのだろうか。長く生きていればそれだけ実戦経験はあって当たり前だ。それをアインスよりも遥かに若い自分に言うこと自体が間違っていると何故神威は気付かないのだろうか。
「お酒の話よ、リセル」
「そんなもの関係ありません。確かに私は貴方より弱いと思います。剣を合わせなくても……」
「んん……」
アインスがこの世の終わりかと思うほどの困った顔を向け、そしてそのままの表情でフィーア、ドヴァー、コッド、ソニアへと視線を巡らせる。アインスの表情に誰もが苦笑を返すことしかできない。それもそのはずだ。そもそも返答に困ることならば最初から言うべきではないのだ。
何故だかリセルは勝ち誇ったような気分になった。
「誰だ呑ませた奴ぁ」
「お前だ」
ドヴァーとアインスの言い合いを他所に、リセルは目の前にある、カップを再び口元に持って行く。
「……」
「てめえから呑んでんじゃねぇか」
自分で命令だと言ったはずなのに、ドヴァーはリセルを指差し、驚いている。神威も屠竜も先ほどから言っていることが支離滅裂だ。
「あぁ!こ、こら、ちょっと!」
ソニアが慌てて静止しようとしたが遅すぎる。もう全て呑み干し、リセルは勢い良くカップをテーブルに置いた。
「ソニアさん!」
「な、何よ……」
リセルのカップを隠そうとしていたソニアの手を止めて、リセルはソニアの名を呼ぶ。
「私は、別に男なんてなんとも思ってないですから」
「はいはい、判ったわよ。マスター!ちょっとお水!」
取り合わないソニアが気に入らない。
普段ソニアが酔った時はいつも自分が面倒を見ているというのに、ソニアのこの態度は有り得ない。
「ソニアさん!」
「何よ!」
「ちゃんと聞いてください!」
「聞いてるわよ、男なんてなんとも思ってないんでしょ!」
「そう、そうれすよ……。ひゃっく。……あれ?」
呂律が回らない。何故だかしゃっくりまで出てくる始末だ。
「フィーア……」
アインスが何事かをフィーアに言ったが、良く聞こえない。意識が朦朧としすぎて、今自分が何を言ったかさえ定かではない。
「判ったわ……」
フィーアの声が聞こえ、直後になにやらぶつぶつと呟くようなフィーアの声がかすかに聞こえた。
リセルの目の前にごくごく小さな雲が発生したが、リセルはそれを雲とは認識できず、目を細めるだけだった。
一瞬の後、リセルの意識は暗転。崩れそうになったリセルをソニアが支えた。
「
フィーアの悪戯っぽい笑みと共に出た言葉は既にリセルの耳には届いていなかった。
リセルが目を覚ますと、そこは昨日移動したばかりのあまり片付いていない自室だった。
身体を起こした瞬間、激しい頭痛がリセルを襲った。
「っ!」
風邪でも引いたのかと思ったがそうではない。昨日ワインを呑んでからの記憶が殆どないのだ。アインスに失礼なことを言ってしまい、それをしっかりと詫びてから宴会になったはずだった。ドヴァーが呑め、と命令を下し、一杯目を呑んだところまでは覚えている。
だとするならば、何をどう考えてもこれは二日酔いというものだろう。
「リセルー」
ばんばん。
突然の扉を叩く音に頭が痛んだ。この呼び方は間違いなくソニアだ。
「あれー?リセルゥ?」
音がばんばん、からがん、に変わる。なんと乱暴な女だ、とは口には出せない。扉を叩く音と共に聞こえてくるソニアの能天気な声に苛立ちさえ覚えるほどに、いちいち物音が頭に響く。
ベッドから降り、扉を開けようとしたときに、ぐらり、と足元が揺らいだ。バランスを保とうと一歩飛び出した足が床を踏みつけた瞬間、足からの振動までもが頭に響く。
「……!」
気分も悪い。最悪だ。
「リセルー、まだ起きてないの?」
ともすれば扉を叩く音にかき消されそうなほど、ソニアはがんがんと扉を叩きつけている。恐らくは足でも蹴り飛ばしているだろう。わざとやっているのだろうか。
「おぉーい!リセルー!」
がんがんがんがん。ばしん、ばしん。どん、どん。
自分の頭が悲鳴を上げているようだ。リセルはふらつく足元を叱咤しながら、扉にまでたどり着くと、勢い良くその扉を押し開けた。
「なんですか!」
自分の上げた大声で更に頭が痛んだ。一瞬くらり、とする。
「おぉーいリセ」
奇妙な声と共に、ドアを叩く音とソニアの声が消える。ドアを開けたときに何かにぶつかる手応えがあったが、そんなことにいちいち構っていられない。
「おはようございます……。あの、大きな音立てないでくれます?」
リセルは俯いたままそう言ってまた部屋の中へと戻る。
「いったぁ……!」
扉が開き、鼻を押さえたソニアが中に入ってくる。
「うぅわ酒くさっ!」
部屋の中がワインの匂いで充満している。ソニアは部屋に入るとカーテンと窓を一気に開けた。
「なっさけないわねぇ、たかが二杯や三杯で二日酔い?それでも
「仕方ないじゃないですか……。呑めないのに……」
額を押さえてリセルは呻く。二日酔いがこんなに酷い症状だとは知らなかった。もしも神聖魔道に二日酔いを直す奇跡があったのならば、迷いなく行使していたに違いない。
もう二度と、どんなことがあっても酒は口にしない、とリセルは固く誓った。
しかし、ソニアがこれほど元気だということは、昨日は珍しくリセルの言い付けを守ったということなのだろう。
何たる皮肉か。
「うぇ」
急激に気分が悪くなり、リセルは自室のトイレに駆け込んだ。
「……重症ね、こりゃ」
ソニアの声を背中で聞きつつ、何も考える余裕がないまま、リセルはトイレのドアを閉めた。
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