第二話 刀傷

 トゥール歴〇九五年 鳳の月


 あの事件から一年と半年が過ぎた。

 怪我を治すのに約半年を要した。縫合手術の際、神聖魔導ホーリーランゲージでも回復を試みたのだが、リセルの背中の傷の中には泥や木っ端など、無数の異物が傷口深くまで入り混じっており、そのままの状態では治癒の神聖魔導を行使する訳には行かなかった。

 神聖魔導の治癒は、細胞の活性化を促す作用がある。患部の細胞を劇的に活性化させ、強制的に傷を治癒させるものだ。もしも神経線などに取り除くことが困難なほどの微細な異物が、僅かでも混入していれば、傷は塞がっても後遺症が出る可能性が高い。

 衡士こうしとなることを志すリセルは今後訪れるであろう激しい訓練の阻害にならぬよう、その怪我の殆どを自然治癒のみでゆっくりと回復させていった。

 それは、傷口が自然に塞がってくるのを遅め、毎日傷口を洗い流し、消毒する、というとてつもない苦痛が伴う治療だった。


 傷が完治するとソニアの指導の下、衡士見習いとして鍛錬を始め、そこから既に一年が過ぎようとしていた。

 剣の稽古は多くの男性衡士やソニア、フィーアまでもが相手をしてくれた。それはリセルの境遇から賛同してくれた先輩衡士達の優しさでもあった。フィデス本部の中でもその剣技は最上級に近い二人の教えの成果、男性衡士たちの力強い打ち込みへの対処法、それにリセルが秘めていた潜在能力の高さもあり、リセルの剣の技術は既に先輩衡士見習いたちを追い越し、現役の男性衡士にさえ追いつこうという勢いだった。

 その間にもリセルは幼い頃から信仰していた美の女神クレアファリスの教会へと足繁く通い、神聖魔導の奇跡を行える才能までをも伸ばしていた。

 神官になるよりも衡士になる道を選んだリセルは、セイローの村にいた頃になろうとしていたクレアファリスの神官のことはもう考えてはいなかった。

 一度は心の底から恨んでしまった神だ。もはや自分が神官になれることもない。

 そしてあの日からずっと抱き続けている復讐の念は神官としてあるまじき念だ。自ら衡士になる道を選んだリセルには、神官として人々に訓えを説くことなどできはしないのだ。

 しかし衡士の規律も一切破ることはなく、頻繁に規律を破るソニアに衡士見習いでありながら、既にクレアファリスの訓えを織り交ぜた説教をするほどであった。


 美人で、性格も極めて真面目で器量も良いが、堅物すぎるのが玉に瑕だ、と男性衡士や衡士見習いから噂されるほど、リセルの存在はフィデス市本部でも有名になっていた。

 しかし公国衡士師団は基本的に男性社会だ。それ故にそんなリセルを疎ましく思う者も少なからずいた。

漆黒の髪帯ブラックリボン直々のご指導とあっちゃ、強くもなるだろうさ」

 最初はそんな言葉にむきになって反応していたが、最近ではそれも慣れてきてしまった。大体リセルを悪く言う者たちは、努力することを惜しみ、自らを高めようとしない考えの劣った者たちだ。

「六王国時代だったら女なんか戦力にさえさせてもらえなかったってのになぁ」

 六王国時代、女性騎士は多くいた。『第二次トゥール六王国大戦』最大の功労者である『トゥール十四爪牙』に選抜された騎士や傭兵、戦士たちの中にも女性は存在した。

 騎士王国とまで謳われたナイトクォリー王国からも、セリカ・アフィッドという名の女性騎士が十四爪牙に選抜されている。

 セリカはナイトクォリー王国騎士団の部隊長をも務めていた、女性騎士の中では最も有名な騎士の一人だ。今でもその血筋は絶えず、ナイトクォリー市では貴族の末裔としてそれなりの発言力を保っているという。

 それに、時代が違えば役割も違う。衡士と騎士ではあらゆる事情が異なる。何も知らない、能力の劣る者の拗れた気持ちというのはどうしようもなくやるせないことでもある。リセルは自らが特に有能だとは思わなかったが、ソニアに対しては強い羨望感を抱いていたのでそれも判らない話ではない。

 努力を怠る者たちに少しでもと協力しようとすれば、哀れむなと断られるだけで、無視すればお高くとまっていると言われ、敵意を向ければ、力の劣ったものを苛めることが好きかなどと散々なことを言われる。

 勿論そういった者たちの方が少数派ではある。リセルがソニアにそうするように、多くの衡士見習いは、リセルに様々なことを訊きにくる。そうした面倒見の良さも相まってか、リセルは衡士見習いから、最短の僅か二年で衡士に上がれるのではないか、とまで噂されていた。


 トゥール公国衡士師団が設立され百年足らずだが、第一期から三期までの衡士以降、衡士見習いから二年で衡士に叙勲されるということは今までにないことだった。近年の衡士の質の低下等の噂も相まって、リセルは公国衡士師団の上層部からも期待が寄せられているようだった。


「ふぅっ!今日の教導はこれでおしまい。じゃあ解散!」

 ソニアは言いながら訓練用の刃引きの細剣レイピアを鞘に収める。

「ありがとうございました!」

 衡士見習いたちが揃って衡士の礼をソニアに向ける。漆黒の髪帯という字名を持つソニア・グリーンウッドは、トゥール公国衡士師団フィデス市本部部隊副隊長でもある。

 衡士見習いの訓練は毎日行われているが、隊長、副隊長の指南は月に一度だ。部隊長であるフィーアと副隊長のソニアが全衡士見習いの中から、衡士に近しい位置にいる者を選抜し、直接剣を交える。その中にはまだ衡士見習いとなって約一年のリセルの姿もあった。


「リセル、ちょっといい?」

 訓練場から退出しようとしているリセルをソニアは呼び止めた。

「ソニアさん。お疲れ様です。どうしたんですか?」

「お肌とお肌のお付き合いよ」

 ソニアは手ぬぐいで額の汗をぬぐいながら、そう言った。

「は?」

「お風呂、一緒に行かない?」

「……いいですよ」

 断ろうとも思ったが、リセルはソニアの誘いを受けた。もう関係のないことだから、と自分に言い聞かせて。

 浴場の脱衣場に着くと、ソニアは勢い良く衣服を脱ぎ始めた。あまりの脱ぎっぷりに、同じ女であるリセルですら思わず赤面する。

「魔王の月も過ぎたってのにまだまだ暑いわねぇ」

 ソニアはリセルよりも五つ年上で、今年二五歳になるというが、その肌は衰えを知らぬように、若々しい張りがある。

「ちょっとソニアさん……」

「なによぉ、男がいる訳じゃないし、別にいいじゃないの」

 そう言っている間にもソニアは全裸になり、浴場へ向かう。

「だけど……」

「そんなに細かいことばっか言ってると男にもてないわよ、リセル」

「別に男なんてどうでもいいです」

 そう言いながらリセルも服を脱ぎはじめた。浴場自体が石造りになっているせいで、浴場は声がやたらと声がこだました。

「あらもったいない、そんなに美人なのに。もうちょっと笑顔になれば男の食いつき違うわよぉ」

 この一年でリセルに言い寄ってきた男の数はことのほか多い。ソニアもそれを知っていてわざと言っているのだろう。

「関係ないですよ」

 リセルは態度を崩さない。リセルも浴場へと入る。湯煙が立ち込める浴場の奥に大きな湯船がある。ソニアは既にその湯に浸かっていた。

「背中の傷、気にしてるの?」

 ソニアはそう言った。

「そういう訳じゃ……」

「気にするもんじゃないわよ。本気で好きになったらそんなもの関係なくなるもの」

「だからそういう訳じゃ……」

 嘘だ。

 特別に好きな人がいる訳ではないし、男をそういう目で見ないようにもしていた。傷の療養中、鏡に写る自らの背中の傷を見た時に、リセルは想像以上の衝撃を受けた。

 自分の身体にこれほどの大きな、醜い傷跡が残っているとは思っていなかったのだ。もしも好きな人ができたときに、自分の背にこんなにも醜い傷があることを知られたら、と思うと怖くなる。

 だから、意識的に男を避けて行動してきた。好きにならないように。好きになられないように。

「見た目だけであんたを好きになるような男が好みなら話は別だけどね」

 あくまで軽くソニアは笑う。

「ま、男のこと考えろって訳でもないし。あんまり考えすぎてて毛嫌いしてるんじゃないかなって思ってさ。男ってばかだけど可愛いもんよ。あんたらを襲ったようなのが全部じゃないってこと」

「!」

 そう、確かにそのことも要因の一つではある。

 男と女の事情のようなものは知識としては知っていた。しかし、あの事件はリセルにとってあまりにも衝撃が大きかった。

 人に見せられないような大きな刀傷。欲望のままに女を蹂躙する男たち。そのたった二つの理由だけでもリセルが男を遠ざけるには充分な理由だ。そしてソニアにはそのことの殆どを見抜かれてしまっている。

「無理に考えを変えろ、なんて言わないわ。あんまり入れ込んで泣いてる女ってのも星の数ほどいるから。ただ、いつかあんたを本気で好きになってくれる男が現れた時に、気付かないままでいたら、ちょっともったいないかなって思うから。……それだけ」

 なんとなく湯煙でかすんだソニアの笑顔は自嘲的なものに思えた。

「ソニアさんはそういう男の人、いるんですか?」

「あたし?いないわよ。好きな男ならいたけどね」

 過去形だ。今はいないということなのだろうか。

「その人とは上手くいかなかったんですか?」

「あんた、嫌なこと訊くわねぇ」

 何の気遣いもなしに、ごく自然に訊いてしまった。ソニアは苦笑して髪をかきあげる。

「あ、ごめんなさい」

「別にいいけど。もう今じゃなんとも思ってないから。あんた神威しんいって知ってる?」

 知らない訳がない。

 神威といえば、トゥール最強との呼び声も高い傭兵だ。確か名はアインス・ゼル・ディヴァインといったはずだ。

「勿論知ってますけど……。もしかして」

「そう、そのもしかして、ってやつ。もう六年も前の話よ。まだあたしがあんたくらいの頃ね。見習いの頃にね、一緒に戦う機会があったの。その時に知り合って暫く行動を共にしたわ」

 最近では少なくなったが、以前は傭兵との共同戦線で反乱分子を叩く、という作戦も頻繁にあったらしいことをリセルは公国衡士師団の歴史書などで知っていた。

 ただ傭兵は報酬よりも命を優先する人間が殆どであるが故、高額な報酬を払っても、その報酬に見合った働きをしないことがある。神威ほどの傭兵ともなれば話は別なのだろうが、信頼の置けない傭兵であることには変わりがない。そして傭兵は報酬しだいで汚れた仕事も当たり前のようにこなす。

 神威の名は悪名ではないが、傭兵が汚い仕事をしていることは周知の事実であり、後々の調査で判ったことだが、リセルたちを襲った野盗の集団の中にも傭兵が混じっていたのだ。それ以来リセルにとって、傭兵も忌むべき存在となっている。

「その時にね。結婚してることも知らないで夢中になってたわ。性質の悪いことにあいつ、そういうことにはえらく鈍感だからね。あいつが既婚者だって判ったときにはもう傷つかずにはいられないほど深みにはまってたわねー」

 先ほどソニア自身が言った泣いている女、というのはまさしくソニア本人のことだったのだろう。

「……大丈夫です。私、男なんて好きになりませんから」

 リセルはそう言って湯船から出た。今のまま生きていればきっと男のために傷つくことも、泣くこともない。

 このままで良い。

 一度だけ、肩越しに背中の傷に触れると、リセルは軽く息を吐いた。

「ま、それも自由だからね」

 ソニアもリセルに続き、シャワー室へと移った。



 浴場を出て宿舎に向かう途中、風が心地よくリセルの湿っている髪を揺らした。ふと複雑な気分になる。男を意識しないと言いながら髪や肌の手入れを怠らない自分に対して。

(意識していないなんて嘘だ)

 衡士として市民の前に立つ以上、最低限の身だしなみは必要だ。あまりにみすぼらしい格好をしていては衡士師団の名に傷がつく。

 しかし、心の片隅に、本当は普通の女の子のように恋をしたいという願望が、リセルにもあるのかもしれない。

「リセル」

 不意に声がかかる。宿舎の入口の目の前についた時だった。同期の衡士見習いであるアサートだ。年はリセルと同じ二〇歳だ。プラチナブロンドの髪が目にかかりそうなほど長い。前髪を掻き分けて見える垂れた目が優しさをかもし出しているが、事実この男は優しい男であり、物腰のおっとりしたこの男にリセルは何故か苛立ちに似たような感情を持っていた。

「アサートか」

「どうしたの?怖い顔して」

 アサートはそういってリセルの顔を覗き込んだ。

「なんでもない」

「また秘密かぁ」

「アサートに洗いざらい全てを話す義務もないわ」

 ついつい突っ慳貪な口調になってしまう。

「そりゃそうだね」

 なにが可笑しいのか、アサートは小さく笑ってそう言った。

「一つ、訊いてもいい?」

 リセルは口調を多少改めてそう言う。

「なに?」

「アサートは何故衡士になりたいと思ったの?」

「僕?……僕はね、この街が好きなんだ。その街を守りたいだけ」

「守りたいだけ?」

「はは、情けないと思うでしょ。でも僕にはそれが精一杯だよ。現に女の子であるリセルに剣で一度も勝った験しがないし。ここの女の人は皆強いね」

 事実本部の隊長フィーアと、副隊長ソニアは女性だ。他の市の常駐部隊から男どもは何をやっているんだ、と言う声も聞こえてくるらしい。本部の隊長、副隊長の選抜は第八代トゥール公国衡士師団長のコッド・スナイプスが行った。

 フィーアはセルディシア市常駐部隊でも隊長をしていたのだが、二年前にフィデス本部に呼ばれたのだそうだ。それは本来ならば夫であるドヴァー・ベルクトに回ってくるはずの役目だった。しかしドヴァーはがんとして首を縦に振らず、それならば、とドヴァーと共に竜伐の任務を見事遂行し、竜の討伐ドラゴンスレイヤーの称号を得たフィーアにお鉢が回ってきたのだという。ソニアは去年副隊長に選抜された。それまでは隊長、副隊長共に男性であった。

 アサートの剣の技術は確かにそれほど高くはない。しかし市内の警備部に回ることを望んでいるのであれば、多少剣技が劣っていようとも充分に働けるはずだ。

「いや、そうは思わないけど……」

「いいんだよ、僕が弱いのは本当なんだから。じゃ、邪魔したね。湯冷めしちゃうから早く部屋に戻ったほうがいいよ」

 アサートはそう言って浴場へと向かって行ってしまった。

(力の有る無しだけでは衡士の技量は測れない)

 リセルは心の中でそう呟く。鍛え抜いた戦闘の技術をどう使うか、という心も育てなければならない。戦闘能力のみを追求した特殊部隊も公国衡士師団には存在する。一つ力の使い方を間違えればそれは暴力と化す。アサートのような優しい、人や街を守るための気持ちも、衡士としては必須なのだ、とリセルは思い直した。


 髪を手ぬぐいで丹念に拭いて櫛で梳かした後、リセルは身体をベッドに投げ出した。

(この街が好きなんだ。その街を守りたいだけ)

 アサートの言葉が頭から離れない。

 本当ならばその守りたいと願う心こそが衡士の本懐だ。しかしリセルの中に渦巻いているのは激しい復讐の念だけだ。グラズニィ・ツェーンロードを討つという気持ちだけでリセルはここまできた。

 それは本来衡士としてあるまじき思いだ。今の気持ちをクレアファリスの教会へ行き懺悔する気も起こらない。

 美の女神の訓えの基本概念は、美しくあること。

 それは外見のことだけを説いているのではなく、身も心も穏やかで美しく、高貴であれ、という訓えであり、醜悪な心を捨てろということだ。

(リセル……。私はどうしたらいい?美の女神よ、私はどうしたら……)

 グラズニィ・ツェーンロードの存在を忘れることなどできない。

 リセルのあの温かな優しい笑顔を思い出すたびにグラズニィの残忍な顔が脳裏にちらつく。そしてそれは復讐心へと変貌する。リセルの村の仲間、セレンの、エリンの、あの場に居合わせた全ての被害者たちの仇を討ちたい。自分の心と身体に癒えることのない傷を負わせたグラズニィを討ちたい。

 裏を返せばそれは、グラズニィを殺したいという単純な殺人願望なのではないのだろうか。時折リセルは自らの気持ちが危うい方向へと傾いてしまうことを自覚している。その都度自らを叱咤し、負の感情に押し流されてはいけないと歯止めをかける。

 クレアファリスの訓えがギリギリのところで歯止めとなっている。

 しかし本当は判っていた。

 その歯止めすらも、グラズニィを目の前にしたら簡単に消し飛んでしまうだろうことを。

 ひとしきり考え込んでいたことに区切りがついたときに、扉をノックする音が聞こえてきた。

「リィーセル!」

 ソニアの声だ。リセルの怪我が治ってからというもの、ソニアは殆ど付きっ切りといって良いほどリセルと行動を共にしていた。リセルはソニアの歯に布着せぬ物言いも、あっけらかんとした性格も大好きだった。

 それに一人になるとつい考え込んでしまう節があるせいか、ソニアの屈託のなさはありがたかった。

「開いてますよ」

 ベッドから起き上がり、リセルは乱れた衣服を整えると、そう言った。

「ご飯食べに行こ」

 ドアを開けるなり、くわえ煙草のソニアはそう言って笑った。能天気な笑顔だが、それがどれほどリセルの気持ちを軽くしてくれただろうか。

「また煙草吸って!宿舎内は歩行禁煙なんですよ!」

「硬いこと言いっこなし、よ」

「よ、じゃないですよ……。副隊長なんだからちゃんと規律は守ってください」

 衡士で、しかも副隊長と言う立場の人間がこれでは下の者に示しがつかないのではないだろうか。フィーアはそれほど規律に厳しい人ではないが、ソニアの行動はあまりにも規律から逸脱している。

「規律なんか破るためにあんのよ」

 あっけらかんとソニアは言って笑った。

「フィーア隊長の前でそれ、言えますか?」

「あんた、逞しくなったわよね……」

 リセルの言葉に渋面を作ると、ソニアはぶふー、と煙を吐き出した。

「ソニアさんに鍛えられてますから」

 ソニアの唇からひょいと煙草を取り上げると、リセルは水道から水を出し、煙草の火を消した。

「言うようになったわー。ま、あんたはそうやってあたしを叱り飛ばしてる方がらしいけどね」

「また『女神の調べ亭』ですか?」

「また、とはなによ!あたしの唯一の楽しみなのよ、あそこの楽器を弾くのは」

 煙草のことなどまるで意に介さずソニアは言う。リセルにしてみれば他意があった訳ではないのだが、つい要らぬことを言ってしまう。それはアサートやソニアに対してだけではない。他人への配慮が足りないな、と時々自分でも反省する時がある。

「あ、あぁ、別にそういう意味で言ったんじゃ……」

「あんたって時々余計なこと言うわりに言葉が足りないことがあるわよね」

 ドア枠にもたれかかり腕を組んでソニアは言った。

「自分でもどうにかしたいとは思ってるんですけどね……」

「落ち着いて見えるわりに案外そそっかしいのかもしれないわねぇ、あんたって」

「私が、ですか?」

 ソニアの言葉はリセルにとって意外なものだった。元々それほそ口数は多くはない。そのせいで大人しく見られたり、落ち着いて見られたり、冷たく見られたりすることは多かったが、そそっかしいと言われたのは初めてのことだった。

「!」

(マリルはあわてんぼうね)

 まだセイローの村に住んでいた頃、リセルに言われたことがあったことをリセルは思い出した。ソニアはそんなリセルの一面を見抜いたのだろうか。ソニアはリセルにとって姉に近い存在だ。まだ出会って一年と半年だが、そう感じることができる。命を救われ、付きっ切りで看病してもらい、怪我が治った後でもこうして面倒を見てくれる。ソニアがリセルを気にかけてくれるのは、使命感だけではないということをリセルも良く判っていた。

「他に誰がいんのよ。あんたの場合、もうちょっと話を吟味してから口に出した方がいいのかもしれないわね」

「吟味、ですか」

「そ。どうせそんなべらべら喋る方じゃないんだし、ここでこう言ったらどうなるか、とか考えてみてから喋ってもいいんじゃない?ま、あたしにはそんなことしなくていいけどね。知らない人とか初対面の人とかにはそういう配慮はあってもいいと思うわよ」

「なるほど……」

 それは有効な手立てかもしれない、とリセルは真剣に考えた。それならば余計なことを言わずに済むというものだ。余計なことを言って人を傷つけることもない。ここ数ヶ月でリセルに思いを寄せてきた男の何人かには辛辣な言葉でそれを拒絶したことがあったのだが、後々考えてみればもう少し言い方というものがあったのではないか、とも思えるような断り方しかしていなかったような気がする。

「さ、行くわよ。あたしもうお腹ぺこぺこだわ」

「はい。今日も演奏するんですか?」

「あったりまえじゃない」

 ソニアの言う女神の調べ亭とは六王国の時代から続いている老舗の宿で、昔から食事と一緒に素晴らしい音楽を聞かせてくれることでフィデス市では有名な店だ。最近その女神の調べ亭で、珍しい楽器を購入したとのことで、昔から音楽を嗜んでいるソニアはその楽器の演奏をしてみたところいたく気に入ったようで、時間ができればことあるごとにその楽器の製造者であり演奏者でもある人物に話を聞きに行き、師事している。

 ピアノ、というのがその楽器の名らしく、六王国時代にはごく少数しか存在しなかった楽器らしい。

 音楽を生業とする大きな楽団、例えばトゥール公国一と謳われるフィデス交響楽団のような団体がフィデス市にはいくつもある。元来そうした楽団の音楽などは王族や貴族など高貴な人々が嗜むものであったため、そうした昔から本格的に音楽を生業とした者の間ではそう珍しい楽器ではなかったのだ、と教えられた。

 ピアノの腕前が上がり、人前でも演奏できるようになってからは、度々女神の調べ亭へと足を向けては演奏をしている。老後は楽器を演奏して生計を立てて生きたいと何度も聞いた。音楽の素人であるリセルの勝手な意見ではあるが、ソニアにはそれだけの腕があると思っている。ソニアの奏でるピアノの旋律はリセルも気に入っていた。

「楽しみにしてます」

 ソニアのおかげで心が軽くなったことを実感したリセルは、本心からそう言って笑顔になった。

 ソニアは外見だけではなく、心も綺麗だ。自然体で生きている。規律こそ守らないが、本当はソニアのような女性こそ美の女神の訓えに一番近い存在なのかもしれなかった。

「あんたはそういう笑顔が一番いいわね」

 リセルの思惑などまるで気付きもせずに、ソニアもそう言って笑顔になった。

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