第一話 春雷

 トゥール公国歴〇九四年 王妃の月 フィデス市郊外 大街道


 とある隊商が春の嵐の中をひた走っていた。

 目的地はトゥール公国南西部に位置するフィデス市。そのフィデス市の郊外にあるスラム街、トーントだ。馬車の中の荷は一様に不安な顔つきでみな息を殺している。

 そう、隊商の運ぶ積荷は人間、しかも女性ばかりだった。

 この隊商は人身売買等の裏取引をしている隊商であり、奴隷制度が廃止されたトゥール公国では今や立派な犯罪行為である。

 別の馬車には魔導の品物や魔導生命体など、法外な価格で取引されるような珍しい物も数多く積まれている。そのため、闇取引をしている闇商人の隊商は、荒野を徘徊している下級魔族や野盗の恰好の餌食にもなりやすい。二台の荷馬車を有する隊商を護衛する傭兵は六人。隊商の護衛としてはさほど多くない人数だが、嵐の中の強行軍ということにもなると多すぎてもその人数が足手まといになることがある。

 闇商人たちの夜間、あるいは悪天候の中の移動は外敵の目を欺くための常套手段だが、常套手段だけに襲われる可能性も無い訳ではない。

 そして隊商にとっての脅威は下級魔族や野盗だけではない。

 トゥール公国唯一の武力、トゥール公国衡士師団こうししだんも脅威のひとつだ。

 悪天候、魔族、野盗、公国衡士師団、あらゆる脅威を跳ね除けなければ報酬は得られない。

 闇商人たちは組合や情報屋に高額な報酬を支払い、公国衡士師団の行動計画や、自分たちの進行ルートに野盗が出現する場などを綿密に調査してから行動に移る。

 それでも予想外のできごとは起こるものだった。



「……リセル、私たち、フィデスに着いたらどうなるの?」

 一人の少女が静かに口を開いた。

 この馬車に乗る前から何度も繰り返した質問だ。少女は一〇代後半、まだ幼さは抜けきらないが整った顔立ちをした、燃えるような赤髪が印象的な少女だった。

「ついたら説明するわ。それまではゆっくりお休みなさい、マリル」

 リセルと呼ばれた女性は少女、マリルの頭に手を置くとそう囁いた。リセルは肩までつく黒髪が美しい、年の頃なら二〇代前半ほどの女性だ。

「でも、なんだか不安」

「大丈夫よ、マリル」

 リセルの隣に座るセレンがそう優しくマリルの頭の上に手を置いた。プラチナブロンドの髪は軽く癖っ毛になっており、ふんわりとカールした髪を肩口で揃えている。とても柔和な印象を与える嫋やかな女性だ。

 マリルとリセルとの友人でもあり、リセルにとってのマリルと同じように、エリンという血の繋がらない妹がいる。マリルはエリンと年も近く、良く遊んでいたし、リセル、セレンと共に四人でお茶を飲んだりと、元いた村、セイローでは掛け替えのない友人だった。

「そうね……。不安なことばかりじゃないわ」

 セレンの言葉にリセルも優しく頷いた。エリンはセレンの隣で静かに寝息を立てている。

「うん……」

 馬車に乗る前まで、マリルたちはマーカス市のセイローの村に両親と共に四人で暮らしていた。孤児だったマリルをリセルの親が引き取ってくれた。リセルも孤児で、二人の育ての両親は子宝に恵まれなかったせいもあり、リセルとマリルを引き取った、と言っていた。

 姉妹同然に二人は育った。

 マリルにとってリセルは理想の姉であり、常に強く、優しくあり続けた。いつしかマリルもリセルのような女性なりたいと思うようになっていた。


 マリルは十年もの間、リセルと共にセイローの村で生活を続けてきた。

 リセルとマリルは毎週のように美の女神クレアファリスの教会へ行き、祈りを捧げ続けた。

 将来的にはクレアファリスの祝福を受け、二人揃ってその訓えを説くクレアファリスの神官になろうと語り合っていた。

 そんな平穏な日々が続いていたある日、隊商が現れた。

 仕事口を紹介してくれるということになり、四人の娘が村から選ばれた。それがマリルとリセル。そしてリセルとマリルの親しい友人であり、やはりリセルやマリルと同じ境遇であった、セレンとエリンだった。

 リセルは形相を変えてマリルだけは残すように懇願したのだが、聞き入れてはもらえなかったようだった。

 何も事情を知らなかったマリルは、リセルと離れるよりは良いと思っていたのだが、不安は募るばかりだった。

 そして――


「来たぜ!」

 隊商の先頭を行く傭兵の一人が叫んだ。嵐のせいで視界は最悪だが、下級魔族の類ではない。

 人間だ。

「衡士師団か、野盗か……」

 公国衡士師団にしても野盗にしても数が上回るのであれば突破する。こちらの戦力が足りない場合は、公国衡士師団ならば降伏するしかない。命あっての物種。公国衡士師団に抵抗し殺されるいわれはなく、契約もそういう契約が交わされている。元来傭兵というのはそういったものだ。護衛という仕事の名目上、相手が公国衡士師団であれば、には危害は加えないだろう。だとするならば、公国衡士師団と刃を交える必要性はどこにもない。

 しかし相手が野盗であれば逃がせるものは逃がさなければならない。野盗や魔族相手ではは略奪されるだけだ。少しでも被害を抑えるために、隊商の荷馬車を最優先で逃がさなければならない。それが報酬に見合った仕事というものだ。死んでしまっては元も子もないが、契約通り、報酬分の働きはきっちりとこなす。それがいつの時代も傭兵としての信頼を保っている。

 しかし現れた敵は公国衡士師団でも魔族でもなく一番厄介な相手だった。

「野盗だな!」

 前方に見えるだけで八人。着ている衣服は揃っていない。公国衡士師団であれば制服を着ているのですぐに判別がつく。

「八人なら何とかなる!強行突破だ!」

 隊商の脇を護衛していた傭兵が顔を激しく打つ雨に目を細めながら先頭に出て、そう叫んだ。

「そうだな……。行くぞ!」

 先頭の二人は外套のフードを跳ね上げ、野盗と思しき者たちに先行して突進して行く。それに他の護衛の傭兵たちが続く。二人が剣を振りかぶり、最前列の野盗と切り結ぶ瞬間、背後でとてつもない轟音が轟いた。

「なんだ!」

 落雷の音ではない。

 一瞬の閃光の後、一人が振り返ると、背後は爆炎と水蒸気が立ち込め、何がどうなっているのか全く判らない状況になっていた。

「魔導か!」

 恐らくは魔導師がどこかに潜んでいる。待ち伏せていたのだろう。

 この隊商が雇ったギルドか情報屋が、この隊商の情報を野盗に売ったのか奪われたのか。頻繁に起こる事態ではないが、ありえないことではない。後列についていた傭兵たちは全て、今の、恐らくは火球の魔導ファイアボールに巻き込まれてしまっただろう。

 火球の魔導の直撃を受けて生存できる可能性は限りなく低い。よしんば息があったとしても戦力にはならない。振り返り、背後の様子を探った傭兵の首に強い衝撃があった。傭兵の視界は真上を見、そのまま逆さまで背後を見て、暗転した。

 首を刎ねられた。

 もう一人の傭兵も、八人いたうちの数人に囲まれ、抵抗という抵抗も見せぬままあっという間に斬り捨てられた。

 そして略奪が始まった。



 荷馬車の幌が破かれ、強い雨が差し込んだ。王妃の月は冬と春の変わり目の季節だ。暦上春になったとはいえ、その身を打つ雨は冷たい。驚く間もなく女たちは外に引きずり出され、嵐の中だというのに野盗たちに蹂躙された。乱暴な力でマリルとリセルも外に投げ出される。そして一人の野盗がリセルにのしかかった。

「リセル!」

「逃げなさいマリル!」

 リセルは野盗に必死に抵抗しながらそう叫んだ。マリルは野盗の背後に取り付き、必死にリセルから野盗を引き剥がそうとした。

「放して!リセルを放して!」

「マリル、駄目!」

 リセルがそう叫んだ瞬間に野盗が振り返り、マリルを殴りつけた。野盗の拳はマリルのこめかみに命中し、マリルは気が遠くなるほどの衝撃を受けた。足元がふらつき、泥の中に倒れこんだが、それでも立ち上がり、マリルは野盗に近付いた。

「マリル!」

「リセルを……」

 激しく脳が揺れたせいでまっすぐに歩けない。野党はとどめとばかりにもう一度マリルを殴りつけた。

 そこでマリルの意識は暗転した。


「!」

 意識を失っていたのはほんの一瞬のようだった。マリルが気付いた時、まだ野盗の略奪行為は続けられていた。マリルはぐらつき、言うことを聞かない身体を叱咤しながらもリセルやセレン、エリンの姿を必死で探した。

 そして、間もなく目の前に倒れているリセルを見つけたマリルは絶句した。衣服という衣服は切り裂かれ、首筋には大きな切り傷。そして腹部に剣が突き刺さっていた。

「リセル……」

 微動だにしないリセルの身体に取り付き、マリルは呟いた。

「マ、リル……。早く……、逃げ……」

 リセルは微かに、うわ言の様にそう呟いた。その右手には小さなナイフが握られていた。首の傷から察するに自刃したのかもしれない。優しく、誇り高いリセルはこんな男どもに蹂躙されるよりも、死を選んだのかもしれない。

「リセル!」

 まだ息がある。しかしそれでも絶望的な状況は変わらない。恐らくはもう自分の姿も見えていない。ただうわ言のように、不規則な、いつ途切れるか判らない奇妙な呼吸音と共にやけに空気の抜けるようなかすれた声で呟いていた。

 リセルはもう、助からない。

 マリルは直感した。

「生きな、さ、い……」

 見えていないであろうマリルに、伸ばしかけたリセルの手が、だらりと落ち、泥の中に埋まる。

「あ……。あ……」

 何故。

 どうして。

 マリルはリセルの手を取り、呆然とした。

 降りしきる土砂降りの雨の音に混じって、一際大きくばしゃり、という足音が聞こえた。危機感と共に音のした方へ視線を巡らせると、男が一人立っていた。

「!」

 先ほどリセルにのしかかり、リセルをこんな目に合わせた男だ。自分を殴り、リセルを殺した男だ。

 マリルの中に急激に憎悪の念が生まれる。マリルはリセルの手中にあったナイフを手にとって、男と対峙した。

「よくも……」

 怒りの感情が高ぶり過ぎて、思った通りの言葉が出ない。有ろう限りの罵詈雑言を叩きつけてもまだ足りないほどの相手に、怒鳴りつけることすらできないほどに、マリルは怒り狂っていた。

「あぁん?」

 べろり、と手に持つ剣を舐め、男は尋常ならざるぎらつきを持った目でマリルを一瞥する。

「く、くるな!」

 男はマリルににじり寄るといきなりマリルの手元も良く見ずに蹴りを放った。両手で握っていたはずのナイフはその蹴りの衝撃で弾け飛び、マリルの頼みの綱であった武器が失われる。

「まだ餓鬼だな……。でもま、二、三年もすりゃまぁ……」

「くっ!」

 大きな剣を肩に担いでまた一歩、マリルに近付く。

「リセル、ごめん!」

 そう言うと、マリルはリセルの腹部に刺さったままの剣を全身の力を込めて引き抜いた。勢いがあまり、抜けた幅広剣と一緒に後ろに転び、泥にまみれてしまう。それでもマリルはすぐに立ち上がり、重すぎる剣を必死に両手で持ち上げた。泥の交じった水滴が眼に入り、視界が悪い。辛うじて男の姿が見える程度だ。

「よ、よくもリセルを!」

 全身ががたがたと震えだす。剣も持っているのがやっとだ。しかしそれでも、マリルは叫んだ。絶対的な危機よりも、身体の不具合よりも、今は燃え滾る憎悪の念がマリルを突き動かしていた。

「よもやオレと戦おうってんじゃねぇだろうなぁ。痛い目見るぜぇ」

 野盗は下衆な笑みでマリルを見るとそう言った。

「殺してやる!」

 憎い。

 リセルを奪ったこの男が憎い。

 リセルの未来を奪ったこの男が憎い。

 リセルを殺したこの男を殺したい。

 憎悪はいとも簡単に殺意へと変貌した。

 リセルの遺体から剣を引き抜いた時に転がっておかげで、ある程度の間合いが取れていた。ぐい、と目を擦り先ほどよりもいくらかましな視界の中、全身の力を籠め、狙いを定め、きつく目を瞑ると、マリルは横なぎに剣を繰り出した。がつ、と手に衝撃が返ってくる。

「そんなもんで人間が斬れるとでも思ってんのか?餓鬼が!」

 剣は野盗の脚で止まってしまっていた。恐らくすね当てなどの装備を入れている。傷一つ負わせることができなかった。野盗はせせら笑い、マリルに近付く。

「近寄るな!」

 渾身の力で剣を引き戻すと、今度は刀身を抱きかかえるようにして切っ先を野盗に向ける。振り回して切れないのなら、全身の力で突き刺さりそうな部位に突き刺すしかない。

「さぁて、お前は持ち帰るとするかな」

 更に野盗は近付いてくる。下衆な、卑しい、人間、いやこの世の者とは思えない下衆な笑みを見てマリルは意を決した。

 こんな男などに連れ去られてたまるものか。

 リセルを殺したこんなくだらない男になど、絶対に屈服してなるものか。

「うわああああああああ!」

 半狂乱になり、マリルは身体ごと野盗に突撃した。

「けっ」

 躱そうともせずに剣を担いだままの野盗の腹部に狙いを定める。そしてきつく目を閉じると、さらに足に力を込め、野党にぶつかった。

「て、んめぇ……」

 自分の腹部に刺さった物が信じられない物のように目を見開いて野盗は震えた。雨とは明らかに違う熱い液体の感覚がマリルの手に伝わる。抱えた剣の刃の辺りを手で持っていたせいで手のひらが深く斬れた。野盗の腹部からとめどなく血液が溢れ出てくる。

「ひ」

 自分が何をしたのか理解できずに、マリルは崩れ落ちる野盗から飛びのいた。

「ころし、た……。わ、私が、ころ、殺した……」

 リセルの仇だ。

 殺さなければ自分が殺されていた。

 悪くない。

 自分は悪くない。

 悪いのは、何もしていない自分たちを略奪し、陵辱した野盗だ。

 生きるために戦ったのだ。

 生きるために戦って、その戦いに勝利したのだ。

 膝が震えだす。

 手に残る熱い液体のおぞましい感覚に耐えられず、マリルは泥をすくって腕に擦り付けた。そしてマリルはこの場から逃げようと、慌てて振り返り、走り出そうとした。

「その年で人間を殺せるとは中々見所がある」

 振り返った瞬間、正面に男が立っていた。膝が笑いその場で転んでしまったマリルを見下すように、いや、完全に見下して男は言い放つ。

「私はこの一団の長、グラズニィ・ツェーンロードだ。悪いようにはしない。我々と来い」

 男の纏う何とも言えない不可思議な雰囲気に押され、マリルは自分でも気付かないうちに後じさった。

「いや……。嫌!人殺し!リセルを返せ!」

 マリルは喉も張り裂けんばかりに声を張り上げた。泥を引っ掴み、グラズニィ・ツェーンロードと名乗った男に投げつける。

「貴様も今、殺したな。同じだ」

 グラズニィと名乗った男は、マリルのすぐ背後に倒れ、微動だにしなくなった男を指差して、そう言い放つ。マリルの身体がびくり、と硬直する。全身ずぶ濡れのはずなのに、雨が酷く冷たく感じた。違う。雨ではない。全身から冷たい汗が噴出してきたのだ。

「リセルの仇だ!殺さなくちゃ……。私だって!私は悪くない!」

「殺さない、と言っているだろう。それとも私も……。また一人殺して逃げ延びるか?」

 グラズニィは嘲笑した。

 その嘲笑が物語っている。

 無理だ。

 もう、この場から逃げることはできない。

かしら!粗方片付きましたぜ!」

 グラズニィの背後から手下なのであろう別の野盗が声をかけた。グラズニィは振り返る。その瞬間、マリルは先ほど倒れた男の腹部から、もう一度剣を引き抜いた。

 無理だ。

 もう一度この手で、この男を、人を殺さない限り。

 絶対に逃げることはできない。

(生きなさい)

 リセルの最期の声がマリルに力を与えた。

「そうか、では先に退け。衡士師団が出てこないとも限らん」

「わかりやした!」

「さぁ来い。悪いようにはせん。お前の仲間もまだ何人かは生き残っているだろう」

 グラズニィは野盗に指示を出すと、再びマリルの方へと向き直った。

「リセルを殺したくせに!」

 マリルは再び剣を抱きかかえ、切っ先をグラズニィに向ける。

「そのリセルとやらを殺した男を、貴様を殺そうとした男を、殺しただろう。その男も私の仲間だった。貴様は既に復讐を果たした」

 言葉とは裏腹に、グラズニィの表情は嘲笑しているように見える。その直後、大雨や雷の音の隙間を縫うようにどよめきが走った。

「ち!衡士師団だ!全員退け!」

 野盗の誰かが大きな声を出す。グラズニィの視線はマリル飛び越し、その背後を見据える。

「盗賊団アンセスタランカーの長、グラズニィ・ツェーンロードだな!抵抗するな!」

 凛とした女性の声が嵐と野盗の立てる喧騒の中、雷の轟音のような勢いで響き渡った。その女性は左腕に黒いリボンのようなようなものを巻き、右手に持つ細剣レイピアの切っ先をグラズニィ・ツェーンロードに向けていた。

「一足遅かったな、公国の犬が……」

 その声を聞き、グラズニィはそう冷酷に呟いた。

「衡士、師団……」

 マリルは瞬間的に抱きかかえていた剣をグラズニィに投げつけると、振り返り、走っていた。

 自分の背後に公国衡士師団がいる。もう助かる道はこれしかない。

 しかし。

「まぁ、惜しい訳ではないのでな……」

 グラズニィがそう呟いたようだった。その瞬間、マリルの背中に焼け付くような衝撃と、熱が走った。

「が!」

 斬られた。

 瞬間的にそう悟った。

 走り続けることもできずに、マリルは顔から地面へ崩れ落ちる。

「グラズニィ!貴様!」

「はっ、善良な市民一人守れずに何が公国衡士師団だ。笑わせる。貴様、確か漆黒の髪帯ブラックリボンとか言ったか」

 泥の中に倒れこんだマリルは絶望に打ちひしがれる。もう駄目だ。自分もリセルのそばに行くことになるだろう。

 リセルの言葉を守れなかった。

 本当の仇を討つこともできなかった。

 訳も判らぬまま、村の外へ連れ出され、襲われ、殺されるだけだった。

 マリルは自分の無力さを呪った。

 そして、無慈悲な神を呪った。

 毎日祈りを捧げたことは無駄だった。運命に翻弄され、ここで費える命だった。美の女神クレイティスは何も奇跡を起こしてはくれない。

(運命……)

 ただそれのみに従うだけで生きる価値はあっただろうか。

(うん、めい……)

 暗転しかけたマリルの意識を呼び覚ますかのような女性衡士の声が届いた。

「あたしの名を知ってて……。上等じゃない」

「これだけの数でまともに相手にすると思うか?年々衡士師団の質が落ちているというのは事実のようだな」

 そうグラズニィが言った瞬間に、再び轟音がした。

 マリルは薄れゆく意識の中で、グラズニィの嘲笑を聞いていた。



「どぉ?まだ目覚めない?」

 遠くで女性の声が聞こえる。

「えぇ、まだです。受けたショックも相当なものでしょうし」

 もう一人の女性の声。

「とりあえずその子はここで預かるわ。身寄りも何もないみたいだし」

 身寄り。

 リセルは殺された。

 目の前で野盗に殺され、ごみのように捨てられた。今まで自分を守ってくれた人はもういない。セイローの村に戻ったところで両親はきっとマリルを引き取りはしないだろう。うっすらとではあるが、自分がリセルと共に捨てられたのではないかと予感していた。きっと同じ境遇であったであろうセレンもエリンも、マリルが一度意識を失ってからは姿を見かけていない。恐らくリセルと同じように……。

 独りになってしまった。

 独りでも生きて行ける強さが欲しい。

 誰にも守られず、誰にも頼らない、そんな強さが欲しい。

 意識の片隅でマリルはそう強く思っていた。


 マリルが目を覚ました時、そばには一人の女性がいた。

「あの……」

 おずおずとマリルはその女性に声をかける。

「あら!目ぇ覚めたのね!」

 その女性はそう言ってマリルの額に手を当てた。

「具合は悪くない?どこか痛むとか?」

「大丈夫、です」

 瞬間、激痛が走った。背中が酷く痛む。そうだ、あの時に、グラズニィという野盗の長に斬られた。あの時の記憶が鮮明に蘇る。

「残念だけど、無事なのはあなただけ。あとの人たちは殺されたのと連れ去られたのとでごちゃごちゃだわ」

「そう、ですか」

 マリルはそう言って俯いた。ふつふつとあのグラズニィという男に対しての憎悪が湧き上がってくる。

「あなたの名前は?あたしはソニア・グリーンウッド」

「私はマ……。あ、いえ、リセル。……リセル・セルウィードです」

 マリルは咄嗟にリセルの名を騙っていた。

 何故だかは判らない。

 リセルはマリルにとってかけがえのない存在だった。孤児だったマリルにできた、たった一人の姉のような存在。いや、本当の姉そのものだった。この瞬間、幼なさを捨て切れなかった少女マリルはいなくなった。

 マリル・セルウィードはあの時、グラズニィ・ツェーンロードに殺されたのだ。

 これからはリセルとして、強く、優しく生きていこうとマリルは、いや、リセルはそう固く誓った。

「リセル……。いい名前ね。とりあえずあなたはここで保護することになっているの。暫くはゆっくりするといいわ」

 ソニアと名乗った女性はそう言うとリセルの頭に軽く手を乗せた。

「ここは?」

「トゥール公国衡士師団、フィデス本部よ」

「衡士師団……」 

 リセルはあの時に現れた女性衡士を思い浮かべ、その人がソニアであったことにすぐに思い至った。

「貴女が助けてくれたんですね、ソニアさん」

「ま、あたしが直接助けた訳じゃないし、全員は救えなかった……。あなたには本当に済まないことをしたと思ってるわ、リセル」

 ソニアは口惜しそうに言った。もっと早くに野盗を発見できていたのならば確かにこうはならなかったであろうが、リセルにそれを責める気持ちはなかった。

「いいえ、ありがとう、ございます」

「助かって本当に良かったかどうか、まだ複雑だろうけどね……。今はまだ、あまり考え込まない方がいいわ」

「はい……」

 リセルは再び俯くと、包帯が巻かれている自分の両手を見た。その途端に野盗を殺してしまった時の感覚が蘇る。おぞましいほどの熱量を持った熱い血液が自分の腕を伝う感覚が、鮮明に蘇ってくる。

 背中の傷がずきり、と痛んだ。

 これからどうして良いかなど判らない。ただグラズニィに対する憎しみだけははっきりとしている。そしてその憎むべき相手に取る行動は一つだ。

 あまりにも簡単に迷いから抜け出したリセルは、ソニアに顔を向けた。

「ソニアさん」

「何?」

「私を、衡士にして下さい」

「は?」

「仇を討ちたいんです!リセルの!」

 リセルは傷の痛みに眉根を寄せながらそう言った。

「リセルの?」

 リセルの言葉を受け、ソニアは訝しげに首をかしげる。

「自分自信の、ってことじゃないの?」

 とっさにリセルの名を出してしまった。どう言い訳をしようかと考え出した瞬間、そこへもう一人女性が現れた。

「フィーアさん」

 その女性の名を呼び、ソニアは部屋の入口を振り返った。リセルもそれに続く。

 フィーア・レイ・ベルクト。

 聞いたとこがある。女性でありながらトゥール公国衡士師団本部の中でも一、二を争うほどの強さを持つ、と噂されるほどの衡士だ。

 彼女の夫であるドヴァー・ベルクトは『屠竜とりゅう』の二つ名を持つ、現在はナイトクォリー市常駐部隊長でもあり、この二人は邪悪な老竜を討伐したことから『竜の討伐者ドラゴンスレイヤー』の称号も持っている。

 この二人が組んだ時はトゥール公国最強の傭兵と呼ばれる『神威しんい』ですら適わないのではないかと噂されるほどだ。

 その噂はマーカス市のセイローの村にも届いていた。英雄譚はいつの時代も人を勇気付けたり、楽しませたりするものの最たるものだ。

「悪いわね、ちょっと立ち聞きしちゃったけど。リセル、って言ったわね。本気なの?生半可な気持ちじゃ衡士にはなれないわよ」

 一見、とてもそんな屈強な衡士には見えない。どちらかと言えば、貴族の末裔の淑女というような上品なイメージすら伺える。しかし、何事も見た目では判断できないということなのだろう。

「なります。きっと衡士になって見せます」

 フィーアの言葉にリセルは頷く。きっといつの日かリセルの仇を討つ。そう固く誓ってリセルはもう一度頷いた。

「心意気は良し、ってやつね。……ソニア」

「はい?」

 フィーアに呼ばれソニアは不思議顔を作る。

「怪我が治ったらあんたに全部任せる」

「あたしがぁ?……本気ですか?」

「もちろんよ」

 何を言い出すのかと面食らっているソニアに、フィーアはあくまでも軽く、そう言い切った。


(きっと、いつの日かきっと私はグラズニィを討つ)

 リセルは少女だったマリルと別れを告げた。

 リセル・セルウィードとして新しい人生を生きるために。

 血塗られた復讐の人生を生きるために。

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