それ故愛されたかった

宵町いつか

それ故愛されたかった

 背後に取り付けられている窓から日光が差し込んでいる。

 階段に取り付けられている滑り止めの金属の部分が、日光を反射して白くなっていた。

 俺は一人、薄く埃の被った学校の階段で座り込む。

 放課後の少し静かな空気が、空っぽな体を通り過ぎていく。それがいつもよりはっきりと、感じられた気がした。より、虚しさが増していた気がした。

 中学に入学してもう2年も経ってしまった。

 中学に入ったら何か変わるかもしれない、そんなことを思っていたけれど結局、なにも変わらないまま高校に進学しようとしている。

 このままなんとなく空ろに生きていく、そんなどこか確信めいたものをずっと持っていた。

「たーばた」

 階段の下の方から声が聞こえた。

 声の主はこちらを見上げるようにして立っている。

「祐利」

 俺は階段の下にいる少年の名前を呼ぶ。

「よっ。今日も部活サボってんのか?」

 祐利は階段に反射している光に負けず劣らずの笑顔で言った。

 俺は目を細めて言う。

「お互い様だろうに」

 すると祐利は笑い声をこぼす。

「ははっ。違いねえ」

 ひとしきり笑った後、祐利は心配そうに言った。

「やっぱまだ引きずってんのか?」

 俺はその言葉には答えずに立ち上がる。

 そして、祐利の隣に並んでから言った。

「お前には分からんだろうさ」

「分かれないけど、分かろうとすることはできる」

「さいで」

 俺はそう言って祐利から離れていった。

 いつも思い出す。

 あの笑顔を、あの蝋を。

 あの頃の仕合せな日々を思い描いて苦しくなる。

 この少年が想っているほどの綺麗な思いを俺は持っているわけではないのだ。

 持っているものは酷く醜く、愚かで矮小なものだから。






 僕がちょうど中学2年に上がった頃、父親が死んだ。

 癌だった。

 癌だとわかった頃にはもう手遅れで、あとは死んでいくだけだったらしい。

 父親が死ぬと聞いて、一番取り乱したのは母親だった。

 どうして死ななければならないの、とか今更どうしようもないことを嘆いていた。

 まるで宝物を奪われた子供のようだと、その時は思ったのを覚えている。

 祖母父はどこか諦めたような反応だった。

 ただ悔いのないようにしなさいと、病室で言っていた。その声は家族として向けられた言葉ではなく、一人の人間として言っていたように感じられた。

 当の本人は自分が死ぬことを認識していないようにいつも笑顔だった。

 一度、聞いた覚えがある。

 死ぬのは怖くないのかと。

 父親はそれに対しても笑顔で答えていた。

「死ぬのは少し怖いさ。

 でも僕のために泣いてくれる人がいる。

 僕のために想ってくれる人がいる。

 それが嬉しいんだ。

 幸せなんだよ。

 人生で今、一番愛されているんじゃないかって思うんだ」

 と、とてもうれしそうに。

 父親の中ではやっと実が成ったのだろう。徒花あだばなだと思っていたものがやっと、と安心していた部分もあったのだろう。

 今となっては知る術はないけれど。

 死ぬときも笑顔のような表情で静かに死んだ。

 あまりにもあっけなかった。

 もう別人にしか見えないほど痩せこけた顔が固まっていた。

 まるで蝋が冷え固まったようだと。

 その蝋のとなりで母親が泣いていた。

 大粒の涙を流していた。

 大声で泣いていた。

 子供のようにぎゃあぎゃあと。

 祖母父は顔を背けていてよく見えなかったが肩が震えていたのはよくわかった。

 それを一人、じっと見ていた。

 僕のことをみて周りからは突然過ぎて理解できてない、などと言われていたがそこまで馬鹿ではなかったのだ。

 そんなことよりも父親の言っていたことについてが、常に胸の何処かに棘が刺さっていた。

 抜けないように返しの付いた大きな棘が。

 内側から裂けるような痛みが慢性的に心を、思想を蝕んでいた。

 今まで感じていたことが嘘だったんだと錯覚してしまうほどに。

 今まで愛だと感じていたものは偽物だったのかもしれない、そう思えるほどにあの父親の幸せそうな笑顔が瞼の裏に、脳裏にへばりついていて離れない。

 潤っていたはずの大地は一瞬にして荒れ果てた大地に様変わりした。

 太陽の光が容赦なく降り注ぎ体の内側からしつこく痛みが与えられてくる。

 これが僕の生きていた人生だった。

 そしてこれから俺が生きていく人生だった。







 家には相変わらす寂しさが詰まっていた。

 母親はいつものように仏壇の前に正座して、父親と見つめ合っていた。

 俺はその光景を見ないようにして自室に入る。

 スクールバッグを床に投げ、布団の上に仰向けに寝転ぶ。

 この家だけはいつまでもこの状態で止まっているのだろう、そう思うと苦しくなった。

 母親は父親が死んでから愛を僕に、俺に向けなくなった。

「……なんでなんだろうな」

 死んだほうが愛されるんだろうか。

 母親はよく父親の話をするようになった。

 生きていた頃よりもずっと多く。

 あの頃は一緒に……、二人で……。

 笑いあった日々を悲しみあった日々を、愛し合った日々をずっと話していた。

 とても仕合せそうに。

 本当のことを言うと俺は愛という形ならば殴られたほうが、棘のある言葉を吐かれたほうが幾分がマシだった。

 そのほうが今のような状況よりも……今のような虚しい状況よりもマシだ。

 こんな醜い猿にならなかったのに。

 拳を握って、唇を噛んで、醜く、愛を求めて笑う猿にならなくて済んだのに。

 早く醜い感情これをどうにかしたくておもむろに立ち上がって家から出た。

 いってきます、そのあとに続く言葉はなかった。

 靴底がアスファルトにくっついているかのように歩き難かった。

 空の青さが眩しかった。

 すれ違う人々が眩しかった。

 自分だけ周りと違う気がして苦しくなってきた。

 いつかこの青に融けて一緒になれるのだろうか。

 そんな仕合せなことが自分の人生の最期に在るだろうか。

 住宅街を抜け、目の前に堤防が見えてきた。

 耳にはかすかに波の音色が、小鳥のさえずりのように可愛らしく聞こえた。

 腕の力を使って堤防の上に登る。

 堤防の道をゆっくりたどる。

 深い青色の海はどこまでも融けていけそうだった。

 でもそれにすら俺は拒絶されそうだった。

 俺は座り込む。

 小さな痛みが体に染み込んでいった。

 海に反射する太陽の光が僕を焦がす。

 どんどん塵になっていくようだった。

「ナー」

 隣からゆっくりと猫が近づいてきた。

 ゆらゆらと陽炎のように尻尾が揺れている。

 毛並みはボサッとしていて一瞬で捨てられたのだと分かった。

「ナッ、ナッ」

 猫がもう一度鳴いた。

「……餌なんてないぞ」

 俺がそう言うと猫はまた

「ナッ」

 と短く鳴いた。

 そしてころころと喉を鳴らして近づいて、頭を服にこすりつけてきた。

 何本かの毛が服に絡んだ。

「ナー」

「……そうか」

 意味は分からなかった。

 でもさっきの鳴き声ははじめとなにか違う気がした。

「なー」

 猫がまた、泣いた。

 俺は猫を抱き上げ、膝の上に置いた。

 猫は少し驚きながらも、膝の上で丸まってこっちを見上げてきた。

 俺は頭を撫でた。

 猫は目を閉じて嬉しそうに、ないた。

 ないて、ないて、ないた。

「せめて、死ぬときは仕合せに逝きたいよな」

 俺がおもむろに呟くと猫はまた

「ナッ」

 と短くないた。

「多分、人間ってさ愛されたら死ぬんだよ。

 誰かの一番になって死ぬんだよ。

 多分愛されながら死ぬんだよ」

「ナーナーナー」

 猫が相槌を打つ。

「だから俺は愛された瞬間に死ぬんだ。

 それが愛情かもしれないし、友愛かもしれないし、偏愛かもしれない」

「ナー」

「でもそれでいいんだ。

 はやく青に融けたいんだ。

 はやく死にたいんだ」



 それ故、愛されたいんだ。

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それ故愛されたかった 宵町いつか @itsuka6012

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