第1章 視えるモノ、視えないモノ 2

 東京に来て独り暮らしを始めてからも、特有の精神疾患により、現実に存在しないはずの彼らを目にするのは、日常茶飯事としてあった。都会には人が多いせいか、それにつられるように、彼らは僕が故郷にいたときよりも頻繁に現れていた。多くは人に憑くタイプのモノだった。というのも、彼らの近くにいる人たちが決まって重苦しい表情をしていたから、都会の人は疲れていると僕が無意識的に、そういう人たちの苦悩を連想したせいかもしれない。イメージがしやすいものは、勝手に脳内に湧いてでる。それらには大抵、不快で独特の臭気が伴っていた。

 僕は反射的に振り返り、過ぎ去ったばかりの視えないモノの姿を捉える。人間に依存する憑き物の類いではなく、自らの意思を持って徘徊する妖怪だった。一見、それは人間の女のかたちをしていたが、彼女の着物の袖からにゅっと伸びでた白く細長い腕に、夥しい数の目がついている、おぞましい光景を目に留めるや否や、僕は思わず悲鳴を上げそうになった。まるで周囲を警戒するかのように、血走った眼球たちは忙しなく、それぞれが独自の観察を続けている。一瞬、それらのうちのいくつかと目が合ってしまったが、不気味な目玉は硬直する僕をじっと見つめただけで、すぐに他の場所へと視線を移した。

 怪異は僕の脳裏にのみ存在するのだから、当然、他の人間の目には映らない。事実、通行人たちは目玉だらけの女の存在を無視して、暑苦しいはずの街を涼しい顔で往来している。

 ワイシャツ姿の会社員が、目玉女の脇を通り過ぎたそのときだった。女の目玉だらけの腕が、タイミングを見計らったかのように会社員の提げた鞄へと伸びたのである。女の正体は幻覚であると僕が定義した通り、彼女の腕は見事に鞄を貫通した。ところが、引き抜かれたその腕に捕まれていたのは、会社員の所持品と思しき長財布だった。

 僕は目を丸くして、その光景に立ち尽くす。これは何かのトリックか? あの財布も幻覚の一部なのか?

 そうこうしているうちに、にやりと怪しげに笑った女は、財布を着物の袖に隠してその場を立ち去ろうとしている。こいつは本当に盗ったのか? 僕の幻覚は、ついに他人に危害を加えたのか? こんなことは初めてだった。頭の中が疑問符で埋まり始める。

 微かに頭痛を覚えていると、何かを察知した女が突然、血相を変えて通りを駆けだしていく。その背後から、「待ちなさーい!」という声と駆け足の音が続く。

「……え?」

 僕の目の前を通り過ぎたのは、その声の主に違いない人間の少女だった。肩まで伸びる栗色の髪とミニのフレアスカートをなびかせた高校生風の彼女は、やや疲労を滲ませながら、それでも懸命に渋谷の街を駆け抜ける。それはそれで構わなかったが、僕には彼女に注目せざるをえない理由が三つあった。一つ目は、これは大した理由にはならないが、垣間見えた横顔がなかなかに可愛らしかったから。本題となる二つ目は、彼女もまた、僕と同じように目玉女の存在を認知しているように思えたから。そして、三つめは、今風の少女が所持するには不自然極まりないもの――。

「こらー! 逃げるなあ!」

 そう叫びながら、彼女の両手が夏空に掲げたのは、一本の竹箒だった。

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