白い花の冠

ひなみ

もう一度

 雲は一つとしてない。

 空に浮かぶ月は水面に反射しゆらゆらと揺れ、舞う花びらも相まって幻想的と言える夜だ。

 往来を行き交う人々の喧騒を耳にしながら、今宵もぼんやりと歩いている。

 その最中さなかすれ違う誰とも目が合う事はない。


 人気のない通りに出ると、小さなあばらやが一軒だけ目に入った。

 屋根や外壁はところどころが欠けており、雑草は伸びに伸び、家の明かりはついていない。

 その退廃的な佇まいに惹かれるように自然と足は向いた。

 敷地内へと入り庭から空を見上げるがここからでは月は見えない。

 家の中の様子を窺うべく覗き込むと、暗闇の中で何かと目が合った。


 その正体を確かめるべく障子をすり抜け部屋に入ると、敷かれた布団の中で何者かが横になっていた。


「あなたはだれ?」

 か細い女の声が俺に向けて問い掛けた。


「お前、この俺がえるというのか」


 それが彼女との出会いだった。

 体を起こすでもなく寝床で天井を、僅かに開いたふすまの外の景色を彼女はただ物憂げに見つめていた。

 こけて骨ばった頬と、布団から力なく出ていたその両腕はありありと物語っている。


「病におかされているのか」

「ええ、私はもうすぐ死ぬの。でもこれでようやくこの苦しみから逃れられる」

 確かに彼女はそう笑った。


「あなたは死神さんなのかと思ったのだけれど、違うのね」

「まさか。そんな大層な存在ではない」

「そう。もしもあなたがそうなのだとしたら、今すぐにでも連れて行って欲しかったのに」

 彼女は再び笑みを浮かべそのままと寝息を立ててはいるものの、まるで突然息絶えたかのように思えてしまう。


 何をするでもなく、彼女を見つめたまま夜は明けていった。


「来たんだね、死神さん」

「残念だが俺だ。娘よ、何かできる事はないか」

「私にはすずと言う名があるの。そう呼んで」

「それだけでいいのか、鈴よ」


 天井をじっと見つめている彼女には何が見えているのだろうか。それを知るよしもないが、彼女が言葉を発するまで共に見上げる事にする。


「何か話をしてちょうだい。向こうに行った時のお土産話にしたいの」

「ああ、心得た」


 数多あまたの話をした。

 数百年に渡ってこれまでに出会った人間にまつわる、喜怒哀楽の感情が余すところなく含まれる話。どう聞いても作り物のような与太話を面白おかしく。そして人が最期を迎える瞬間などは包み隠すような事もしなかった。

 それらを三日三晩、彼女が眠ってしまうその時まで語り続けた。


「色んな本を沢山読んだみたいで楽しかったわ。でも、あなたは本当に死神さんじゃないの?」

「多くの死に目に会ってきたと言う意味では、そうなのかもしれないな」

「あなた、本当に変な人ね。私まるで夢の中にいるみたい」

 くすくすと鈴が笑う。


「人ではないのだがな」

「そうなのね」

 昨晩より幾らか安らいだ表情で彼女は眠りについた。


 これまで幾度となく、人の消え行く生を近くで見てきた。

 人間というものは脆弱ぜいじゃくだ。

 妖魔と呼ばれる我らと比べればその寿命はあまりにも短すぎる。


「最後のお願い、してもいいかな」

 その言葉は命の終わりが近い事を常に予感させる。

「ああ」

「この山奥にね、シロツメクサが咲いている場所があるの。それで花かんむりを作って欲しい」

「造作もない事だ」


 外はここ数日にしては珍しくいい陽気だ。

 視界に広がるこの光景を彼女はいつも病床から見ていたのかもしれない。

 花をいくつか摘んだ後引き返すと、すすり泣くような声が部屋中に響いていた。


「鈴、お前はなぜ泣いているのだ」

「あなたが居ない間に死ねたらとずっと思ってた。でもいざ姿が見えなくなると、どうしようもなく怖くなったの」

 震えている鈴の手を握ると僅かにだが温かい。


「そうか。では俺はどうしたらいい」

「私は一人のままでいきたくない。だから、側に居てちょうだい」

「ならば最後まで付き従おう。鈴はこれで安心できそうか」

「ありがとう、不思議な優しい人」


 それから半月余りが経ち、一時は回復の兆しを見せつつあった鈴にもついに終わりの時が訪れようとしていた。


「まだ何か俺にできる事はあるか」

「あなたの名前を聞かせて」

「そんなものはない。あったとしても、とうの昔に捨て去った」

「お願い。最後にあなたの名前をどうしても呼びたいの」

「……頼みとあらば仕方がない。特別に教えてやろう」


 誰にも聞かれないよう耳元で囁くと、


火檻ひおり。いつか、また会えたら私」

 彼女は口元を僅かに緩ませた。

「その続きは何だ。俺にできる事なのか。なあ。おい、答えてくれ」


 そっと鈴の肩を揺らす。

 彼女は深く眠っているようにも見えた。しかしながら、何度呼んでも目を覚ます事はなかった。

 何度触れても、冷え切ったこの手の冷たさに慣れる事ができない。


 鈴が十五でこの世を去って、それから毎年一つずつ花の種をいた。


 カーネーション、コチョウラン、バラ、ベゴニア、ポトス、ヘリクリサム、カキツバタ、スミレ、ルピナス、スズラン、ブルーデイジー。


 たった一人でく道としてはあまりにも頼りない。ならば花々に囲まれていた方が幾らかは救われるだろう。


 時をかけて蒔き続けた七十五の種のうち、芽吹いたその多くは既に朽ち果てた。

 しかしながら、未だに花を咲かせているものもあった。


 生きていれば彼女は今年で九十になる。

 それでもたったの、百すらもいかぬ人生だ。


 人間というものは脆弱だ。

 生きていくにはあまりにも時が短すぎる。仮に俺の百年でも分け与える事ができたのなら、彼女は恐らく幸せに死んでいけたのではないだろうか。そう思えてならない。

 いや、俺は彼女と共に歩んでみたかったのだ。苦しくつまらぬ生涯などあろうはずがない。どうだそら見た事かと、雄弁に語りたかったのだ。


 この命はいつ消えてしまえるのか。何度そう望んだだろう。それでも忘れてはならない背負うべきものがまた一つ増えた。


(せめて、その魂だけは永遠であれ)


 沢山の花に囲まれたこの地で、七十五年前の別れの時のように、白い花の冠を墓石かのじょに掛けた。



*****


 新しく訪れた町で偶然見かけた横顔に、見知った顔が重なった。

 思わず息を呑んだものの俺はすぐに冷静さを取り戻す。

 あの時鈴は目の前で生を終えた。

 命を落とした人間が生き返るはずがない。ましてや、あれから悠に数百年は経っているはずだ。


 後を追って先を歩く少女の近くに寄ると、俺が視えているのか彼女は驚いていた。

 その姿は若干幼いもののますます鈴に似ている。


「随分と重そうな荷を担いでいるな。どれ、少しばかり手を貸してやろう。手助けが不要ならば無視して先を行くといい」

「……」

 彼女は首を横に振った。


 風呂敷包みの荷物を背負う傍ら、いくつかの言葉を投げかけるも返事が帰って来る事はなかった。

 しかしながら、少女は口をぱくぱくとさせながら表情自体はよく動いている。


「まさかお前、言葉を喋れないのか……?」

「……」

 彼女はその言葉に反応して大きく二度頷いた。

 山道を二人く。必然と無言は続いていき、次第に勾配こうばいも急になってきた頃ようやく小さな家を目にする事ができた。


「どうやらここまでのようだな。せめてお前の名を聞いておきたかったのだが……達者で暮らせよ」


 別れの挨拶をすると隣に居る少女はその場で屈み、近くに落ちていた棒切れで地面をなぞり始めた。

 そうして元気よく立ち上がった彼女はうやうやしくお辞儀をし、手を振るその姿は徐々に遠くなっていった。

 俺は膝をつき書かれた文字にそっと手を重ねる。

 ただの偶然に違いない。だが、この心はなぜこれほどまでに熱くなるのだろう。


「すず!」

 彼女は小さく飛び跳ねた後振り向いた。初めこそは驚いた顔をしていたもののすぐに笑った。


「俺にできる事はないか。何でもいい、どれほど時間が掛かってもいい。お前の今一番したい事を教えてくれ」


 叶わなかった己の都合の為の「もう一度」に鈴は笑うだろうか、それとも――。


 あれから七日ほどが経った。

 旅支度を終えた俺は坂道を登りあの家を目指す途中にある。

 ちょうど反対側から、小さな影が手を振りながらこちらに向かってくるのが見えた。


「俺が知りうる限りのすべてを見に行くつもりだ」


 すずは大きく頷いて、

「ありがとう」

 目を輝かせぱくぱくと彼女の口が動く。

 すると聞こえるはずのないその言葉が、記憶の中の鈴の声で囁いたような気がした。


「造作もない」

 差し出されたその手を握ると体温を感じた。

 あの日すずの記した『きれいなもの』を求めて、俺達はシロツメクサの生い茂る薄い靄の道を往く。


 彼女が天に向けて指を差しこちらを見た。

 空を見れば、出始めたばかりの朝日が木々の隙間から顔を覗かせていた。

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白い花の冠 ひなみ @hinami_yut

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