第2話 1日目‐1



『時間になりましたので世界が改変されます。それに伴い新しい貴方を作りキャラクターメイキングします。今後の貴方の人生に関わる重要な事なのでメイキングの際には十分考えて選択して下さい』


 夢うつつに意識が浮かぶ。目が開くと視界には見慣れた寝室の天井と空中に浮かぶ透明なボードがあって、メッセージが表示されいた。

 ボードの大きさはタブレット端末ぐらいで、明かりを消した暗い寝室でも表示内容が見えるよう発光している。それこそ暗い部屋でスマホやタブレットを使っているみたいに。不自然なのは手で支えている訳でもないのにあお向けになった俺の視界に映っている点だ。

 でもこの時の俺は寝ぼけており、目の前に奇妙な物体が現れても不思議に思わず、夢を見ているのだと思っていた。

 これを夢だと思いつつボードを横になったまま呆然と見ていると、表示される文字が変わった。


『新しい貴方の性別を選んで下さい    男性/女性 』


 あ、これ何かのゲームか? とこれを見た瞬間に思った。先に表示された文字にもキャラクターメイキングとかあったので、俺は何かのゲームをプレイする夢を見ているのだと勝手に思い込んだ。

 どちらの性別にするか、と考えるまでもなく俺は『女性』の方を選ぶ。俺は性別を選べるゲームをする時には女性を選ぶ事が多いのだ。こういうゲームの多くは、操作キャラを見ながらプレイするゲームが多いので、野郎を見ながらゲームをするより可愛い女子を見ながらプレイしたいと思っているからだ。きっと俺と同じ意見をもって女性キャラでプレイする紳士は多くいるだろう。

 迷わず女性の項目を選ぼうと思ったが、この場合ボードにタッチすればいいのだろうか、と思っていると表示は切り替わった。


『性別は『女性』が選択されました』


 どうやら手を動かすことなく、思うだけで選択がされるみたいだ。夢の中なので何でもありだな、なんて俺は暢気に疑問も覚えずそんな感想を持っていた。

 表示は次の項目に移るが、ふとボードの右下に表示される数字が気になった。


『キャラクターメイキング時間 残り3570 ※時間内に終了しない場合は残りの項目はスキップされます。予めご了承下さい』


 時間制限があるみたいだ。残りの数字はこうしている間にもみるみる減っている。1カウント辺り1秒のようで、約1時間が与えられた時間みたいだ。

 どのぐらいの時間がかかるか不明だけど、時間内には全部終わらせたいものだ。そんな風に思い、次の項目に目を移す。


『新しい貴女の種族を選択して下さい。貴女が選択可能な種族は以下のものです。 ヒューマン/セリアン(猫)/セリアン(狼)/セリアン(狐)/ハーフリング/ドワーフ/エルフ/ドラゴニュート』


 ほう、このゲームはファンタジー路線なんだな、と出てくる選択からそんな感想を持つ。選択する種族でステータス面での有利不利があって、習得できるスキルなどにも制限がかかり、凝ったものだとNPCの反応にも影響があると思われる。

 さっきとは違って少し考えたいし、考える材料が欲しい。具体的にはこれら8種類の種族にはどんな特徴があるのかヘルプとか解説とか表示されないのだろうか?

 とか思っていると、俺の意図を察したのか俺が目を向ける種族の項目にヘルプメッセージがポップした。至れり尽くせりだ。どれ、内容はどんなものだ。


『ヒューマン:標準的な人間種族。際立った特性は無いが、改変による変化が一番少ない。平均寿命:改変前と変化なし』


 もっともベーシックな種族だな。特徴がないのが特徴みたいな奴だ。それに平均寿命って、このゲームは寿命システムとかがあるのか。すると転生とか後継者とかのシステムもあるのだろうか? とにかく次だ。


『セリアン(猫):獣の特性を持った人間種族。(猫)の場合、優れた聴覚と視覚、跳躍力を中心とした敏捷性が高い。ヒューマンに比べて多少打たれ弱く、耐久性が若干低い。平均寿命:概ねヒューマンの2倍』

『セリアン(狼):獣の特性を持った人間種族。(狼)の場合、優れた嗅覚と聴覚、持久力と中心とした敏捷性が高い。ヒューマンに比べて魔力が若干低い。平均寿命:概ねヒューマンの2倍』

『セリアン(狐):獣の特性を持った人間種族。(狐)の場合、優れた嗅覚と聴覚、跳躍力を中心とした敏捷性、及び魔力が高い。ヒューマンに比べて耐久性が若干低い。平均寿命:概ねヒューマンの5倍』


 これはいわゆる獣人種族といったところか。ケモノ度合いはどの程度だろうな。マズルまで備えたがっつりケモナーなのか、耳と尻尾だけなのか。俺個人の嗜好をいうならケモミミと尻尾ぐらいで留めるのが好みだ。異論は認める。

 にしても、平均寿命はヒューマンの倍、狐タイプにいたっては5倍か。イメージとしては妖狐とか仙狐とかだろう。


『ハーフリング:ヒューマンに比べて小さな体格をもった人間種族。優れた聴覚と視覚、手先の器用さに加えて敏捷性が高め。ヒューマンに比べて耐久性が低く、筋力もやや低い。平均寿命:ヒューマンの1.5倍』


 著作権の問題でホビットの代わりに使われだした種族名だな。ゲーム的な小人族とかそんなもののようだ。ゲームとしての役割なら斥候系だろうか?


『ドワーフ:ヒューマンに比べて背は低いものの頑強な肉体をもった人間種族。極めて高い筋力と耐久性を持ち、手先の器用さも持っている。ヒューマンに比べて敏捷性が低い。平均寿命:ヒューマンの4倍』


 これもファンタジー作品の定番種族だ。鍛冶職とかやっているのがお決まりで、酒に強くて、ヒゲを生やしているのがテンプレ。でも、女子のドワーフってどうなんだろうか? 作品によってまちまちだから何とも言えず、これだけのメッセージでは判断つかないな。


『エルフ:ヒューマンに比べて極めて高い魔力を保有する人間種族。感覚器官が軒並み鋭く、星の触覚として自然と対話可能。平均寿命:10億年前後』


 なんかとんでもないものが出たな。普通ゲームで登場するエルフは魔力や敏捷性が高い代わりに耐久性や筋力が弱いとかデメリットがあったりするのだが、これにはそれがない。これはあれだ現代のエルフの元祖、トールキン御大の作品に出てくるエルフのイメージだ。あの作品に出てくるエルフも大概トンデモない種族だ。ゲームバランス的に大丈夫か?


『ドラゴニュート:竜の特性を持った人間種族。極めて希少。トップクラスに優れた生命体のひとつ。人間形態、竜形態の2つの形態を持ち、充分に成長した竜形態なら宇宙空間も飛翔可能。平均寿命:100億年前後』


 ここまでくると笑うしかない。なにこれ、ゲーム的にはバランスブレイカーじゃないか。極めて希少というところからすると、表示されるのがレアなシークレット種族とかか? しかも平均寿命が100億とかって、エルフの10億も含めてフレーバーだよな。あれだ、転生とかできない代わりに一つのキャラで成長させられるとかだろう。

 さて、一通り見たが、どれを選ぼうか。まずはセリアン(狐)が面白そうだ。妖狐スタイルは楽しそう。ただ、先も言ったがケモ度がどのくらいか分からないのがネックだ。

 となれば次点でエルフだな。トールキン御大のエルフはもちろん、ロードス島のエルフも俺としては大好物だ。あとダークエルフとかもいいな。ドラゴニュートもそそられるけど、こちらもドラゴン度合いが不明なため選ばずだ。


『種族は『エルフ』が選択されました』


 よし、時間も限られているからサクサクいこう。次を急かす俺の思考を読んでいるのか、ボードの表示は迅速になった。そのことにも寝ぼけている俺は疑問に感じず、いいね、としか思わない。頭に血が回っていない証拠だ。


『貴女が魂に宿すクラスを選択して下さい。貴女が選択可能なクラスは以下の通りですが、魂が成長すれば第二、第三のクラスを選択可能で拡大していきます。※一度選択されたクラスは二度と外せません。よく考えて選びましょう――』


 これは職業選択やジョブ選びって奴だな。しかも文面からすると最初は一つしかセットできなくても、レベルを上げればセットできる個数が増えるようだ。ただ、一回選んだクラスは外せない辺りが不親切だな。色々とクラスを試して選びたい人にとっては好ましくない設計だ。

 とはいえ、興味は尽きないので表示されるクラスに目をやってヘルプ表示も併せて見ていく。


『自由人:なにものにも囚われない人。あらゆる制限から自由になれる特性をもつ』


 ヘルプ表示も不親切だな。このあらゆる制限ってどんなものを指しているのか不明だ。あとそこはかとなく小馬鹿にされた気がする。


『ハンター:野山を駆けて獲物を追い詰める人。射撃や罠、フィールドワークに関する技能を習得できる』

『ライダー:生物、非生物を問わず乗り物を駆る人。乗り物の運転技法、騎乗しての戦闘に関する技能を習得できる』

『司書:大量の書物を管理し扱う人。書籍の読解、管理に関する技能を習得できる』

『シューター:弓や投擲、銃器など投射するものを扱う人。射撃やそれに関わる機器に関する技能を習得できる』


 うーん、大分内容が偏ってないか? ゲームなら普通に冒険者や戦士、魔法使いが定番で入っていそうなのに、こんなのが最初に来るとは。しかも俺の趣味が反映されているのは気のせいか? などと、この時点で巡りの悪い頭でようやく疑問を覚え始めたが、それでもゲームという認識は消えない。おそらく最初に性別や種族を選んだ段階で絞り込まれたのだろうと勝手に解釈して次に視線を移した。


『精霊術師:精霊の力を借り受けて魔法を行使する人。精霊との対話、魔法の行使に関する技能を習得できる』

『元素術師:基礎たる9属性の魔法を行使する人。魔法行使に関する技能を習得できる』

『呪術師:生物の精神による呪詛魔法を行使する人。精神、心、呪いに関する技能を習得できる』


 この辺はファンタジー全開でいかにもそれっぽい。精霊術師なんていかにもエルフらしくて良い。他も興味深く、面白そうだ。


『ニート:金銭や時間の束縛から自由な人。束縛から逃れる特性をもつ』

『ごく潰し:生産性もなく日々を過ごす人。効率の良い暇の潰し方を習得できる』

『引き篭もり:住居に立て篭もり、外に出るのを拒む人。自分の拠点ならば優位になる特性をもつ』


 おい待て、これクラスじゃなくて蔑称だろう。引き篭もりなんてルディが来る前に1年ばかりやっていたけど……って、これはゲームだよ……だよな? とにかくこれはネタ枠と考えていいだろう。ネット小説などでお決まりの実は最強のスキルがあって、という可能性はあるだろうが、そこに賭けて貴重なクラスの枠を潰したくない。

 クラスはこの11種類か。他にも選択に出なかったクラスや上位クラスとかがあるのかもしれないが現状はこの11個から選ぶしかない。

 この中で一つ選ぶとしたら……ハンターだな。俺自身の趣味にも通じているし、現実でもゲームでも狩りをするのは乙なものだ。それにエルフ娘が弓矢で狩りというのも絵になって良いじゃないか。こんな風に割と安直に最初のクラスは決まった。


『クラスは『ハンター』が選択されました』

『以上の選択を踏まえて貴女のステータスが決まりました。

 性別:女性

 種族:エルフ

 第一クラス:ハンター

 レベル:1


 筋力:3

 耐久:2

 敏捷:4

 魔力:4

 技能:3

 運命:3


 ※数値は成人した一般人の平均値を1として基準化したもの』


 何かステータスが出来ている。ステータスの数字は高いのか低いのかピンとこないが、基準が成人と言うなら結構凄い数字ではないか? これでレベル1か。


『最後に名前を入力して下さい。貴女の魂につけられる名称で、変更はできません。慎重に名付けましょう』


 おっと、もう最後か。次にキャラの造形が来るものだと思ったけど、もしかしてランダム生成だったりするのか? それに1時間は制限時間をとっている癖に随分短い。さらに作り直しとかも出来ないようだ。一発勝負のキャラクターメイキングとはやはり不親切なゲーム設計だ。まあいいさ、どうせ夢なんだし、などと深く考えずに俺はキャラの名前を考える。

 RPGなど名前を入力できるゲームで自分の名前を入れるのは小学校で卒業した。それにこれは女性でファンタジーだ。俺の名前は相応しくない。かといって中学生の時みたいな【漆黒の堕天使】とか痛いネーミングもしないし、『げれげれ』やら『ああああ』という手抜き感満点な名前もなしだ。

 覚えやすく、そこそこ上質なラインを狙って――そうだな、エルフの平均寿命は10億年という設定だし『ヤチヨ』とかどうだろうか? 八千年どころかその12万5千倍だけど、永い年月という意味合いだし間違ってはいない。和風でお婆ちゃん風な名前だけど、痛い名前に比べたらずっとマシではないだろうか。

 うーん、自分のネーミングセンスは自分で思っているよりも良くないかもしれない。だけどこれ以上の名前はこの場では出てこないな。ならこのキャラの名前は『ヤチヨ』で決まりだ。


『名前が『ヤチヨ』に決まりました。改変された世界にようこそ』


 この表示を最後にボードは消えて、寝室に暗闇が戻った。なんだもう終わりか、じゃあまだ眠いし寝るか。明日山を歩くのだし。と最後まで寝ぼけた頭の俺は、これをゲームをする夢としか思わず寝直してしまう。この瞬間から世界が不可逆に改変されても知る由はない。

 布団を被り直してまぶたを閉じ、あっという間に俺の意識は眠りの世界へ落ちていった。




 ★




 耳に入る暴力的な電子音で意識が強制的に引き上げられる。同時に目蓋も強引に引き上げられて暗い室内が視界に映った。

 冬の夜明けは遅く、今が何時なのか分からない。スマートフォンか目覚まし時計で時間を確認したいと思い、次にさっきの電子音の出所がそのスマートフォンだと気が付いた。メールの着信ではないし、アラームは目覚まし時計に任せているので違う。布団から手を伸ばして確認しようとする。布団がめくれて冬の冷たい空気が入り込む。

 手を伸ばした時、体に何か違和感を覚えたがスマートフォンの方が優先だ。手に取り電源ボタンを押せば液晶の明かりが灯って、見慣れた待ち受け画面……ではなく見慣れない表示が液晶に出ていた。


『国民保護に関する緊急情報:危険情報 緊急情報が発令されました。屋外に出ず、身の安全を確保して下さい。テレビ、インターネット、ラジオで情報を収集して下さい』

『該当範囲:日本全域』


 黒地に白い文字、赤いラインが入った画面が危機感を煽る。だが内容がよく分からない。危険情報と言っても何が危険なのか、地震ではないようだが某国のミサイルでも発射されたか? この手の政府発表は時としてあてにならない。自分で情報収集をして何を信じるか拾捨選択しないと。このままブラウザを立ち上げてスマートフォンで情報収集をしようかと考えたが、一度起床して頭をスッキリさせた方がいいと思い直した。

 スマートフォンで見た時刻は朝の4時。日の出はまだ先で、室内が暗いのも納得だ。昨日に続いて今日も目覚ましのアラームより早く起こされてしまった。

 ベッド横のスイッチを手探りで押せば寝室の明かりが灯る。この時ようやく感じ続けていた違和感の正体が分かった。


 俺の身体がおかしい。サイズぴったりのはずのスウェットの上下がどちらも丈を余らせてダブついている。まるで俺の体が縮んだみたいだ。

 何気なく視界に入った俺の手も妙な事になっている。手が小さくなっており、やけに瑞々しくなっている。いくら健康的に生活していても、加齢で節くれだつし、趣味で狩猟やブッシュクラフトといった野外活動をしていると手が荒れるのは避けられない。俺元来の手は結構ゴツゴツしたものだったはずだ。

 次に頭が少し重く感じて手をやってみると、髪にやたらとボリュームがある。ベッドから体を起こしているのに枕まで届くほど髪が伸びている上に、髪の色が金色になっている。俺は髪をこんなに伸ばした事はないし、染髪どころか整髪料をつけた事もない。加えて血筋は両親ともに日本人だし親戚に海外の人がいた記憶は無い。

 …………えーっと……こういうシチュエーション、創作物だったらかなり見てきた定番だけど、いざ自分の身に降りかかってみると受け入れがたいな、本当に。


 果たして自分の想像どおりなのか、ベッドから出て身だしなみチェック用の姿見で自分自身の姿を確認しようと、


「――ぐえっ」


 したら直後に足を滑らせてコケてしまい床に強かに体をぶつけてしまう。ダブついた裾を踏んづけてしまったようだ。冬の空気で冷たくなった床を全身で感じる。寒い。

 どうにか起き上がって、すぐそこの壁にかけられた縦長の鏡に己の姿を映した。果たしてそこに映ったのは昨日までの俺ではなかった。

 一言で言い表すなら『ステレオタイプの金髪エルフ美少女』だ。見た目の年齢は10代前半から半ば、容貌は幼さが目立つが可愛らしさと綺麗さが同居しており、緑色の瞳がエメラルドみたいに輝いている。顔を縁取る金髪は背中まで伸びて、寝起きでボサボサでも不思議と美しさは損なわていない。

 顔立ちは洋の東西を問わず通用しそうな整ったもので程よく彫りがあり、鼻筋が通っている。元の顔の原型は欠片も残っておらず、これが自分の顔だとは認識できない。

 特徴的なのは耳だ。笹穂状に細長い耳が頭の横からピンと伸びて自己主張しており、これが俺の中でエルフだと強く印象付けた。

 身長は比較するものがないので断言できないが、着ている服の余り具合から考えると150センチ前後だろう。昨日までは170センチ後半だったので、20センチ以上も縮んでいる。体型はスレンダーそのもので、女性の肉体というより少女、少年みたく中性的だ。


「……これが……俺……だと?」


 思わず性転換ものの定番台詞が口を突いて出てしまったけど、こうなってしまうと物語に出てくる彼らの気持ちも分かってしまう。自身のあまりの変わりように言葉を失い、芸の無い言葉しか出てこない。

 これは元に戻るのか、戻らないのなら今まで取得した各種免許や資格の更新はどうすれば、役所か病院に届け出をした方が良いのか、そんな考えが次に浮かんでは消えていく。勤め先や家族のことを考えなくていいのは自由人で独り身の良いところだ。いや、少し訂正してペットの事は考えないといけない。

 こんなに変わってしまうとルディは俺の事が認識できるのか? あいつはこの家の番犬で、猟犬の訓練を積んでいる。武器なしの人間が立ち向かうのはまず無理な位強いだろう。そんなルディに襲われたら今の俺の身体ではひとたまりもない。

 とはいえ、この家でやっていくにはルディと向き合うのは避けられない。スマートフォンに来た緊急の内容も気になる。この部屋に閉じこもる選択は無い。


 鏡の前から移動して廊下に出る扉の前に。――いる。普段起床する一時間前だというのにルディが扉の前で出待ちしている気配を感じた。あいつこんな早くからこちらの出待ちをしているのか? それとも部屋の物音を聞きつけてやって来たか? いずれにせよ対面は不可避だ。

 仮に襲いかかられた場合は扉を盾にして部屋に戻って二階の窓から外に出るか。そんな行動のプランを考えながら、俺は鏡の下、ブラシやクシを置いている化粧台というには質素過ぎるテーブルから身支度用とは関係の無い物を手にした。一見して整髪料のスプレー缶に見えるそれ。ただし引き金を引いて出るのは整髪料ではなくクマや犯罪者を撃退する噴霧剤だ。俺は侵入者対策として寝室にこれを置いている。アメリカのように枕元に銃が置けない代わりだ。

 ルディが襲ってくるようならこれを使って鼻先にスプレーするつもりだ。愛犬とはいえ俺が襲われては意味がない。どこぞの風の谷の姫様のような真似は無理である。


 ドアノブに手をやって慎重に開く。数秒とせずに愛犬とご対面。ルディは俺を見上げて動きが固まってしまった。しかも咥えていたリードもぽとりと床に落としてしまう。リアクションが豊かだなお前。

 さて、どうなる。熊撃退スプレーを片手に呆然とした様子のルディを見守る事しばし、ようやく動きがあった。

 そっと鼻先を近付けてきてフンフンと鼻息が聞こえるくらいに臭いを嗅いできた。ルディの立ち位置的に下半身を中心にフンフンと嗅いでいく。俺としてはこのまま噛みつかれる可能性もあるので気が気でない。スプレー缶を握る手に力がこもる。

 やがて納得がいったのかルディは俺から離れて、床に落ちたリードを咥えて俺に差し出してきた。こいつの頭の中で一体どういう思考が働いたのかは不明だけど、俺を主人だと理解したらしい。そして改めて朝の散歩に連れていくよう促しているのだ。


「悪いけど、今日の散歩は無しだ」


 こいつがどこまでこちらの言葉を理解しているか分からないが、一応一言いって頭を撫でた。すると心なしか肩を落とすような仕草をして、残念そうな様子になる。

 ルディには悪いが、今はこの奇想天外な事態に対して少しでも情報が欲しい。一先ずスマホやパソコンという文明の利器を使って情報収集をしたい。飼い犬に噛まれる危機を脱した俺は部屋を出てリビングへ向かった。

 リビングに向かう途中、外で幾つもサイレンの音が響いているのに気が付いた。身体が変わってしまった事に気が動転していた時も聞こえていた気がするし、事態はかなり切迫しているのかもしれない。

 リビングからキッチンへ向かい、野菜ジュースとシリアルバーを取り出す。食事に手間を取りたくない時のために用意したもので、味気無さの割に栄養だけは摂れる。どういう形であっても朝食は必ず食べるのが俺のスタイルだ。非常時であっても、いや非常時だからこそ食べられる時に食べておきたい。

 包装を剥いたシリアルバーをかじりつつ野菜ジュースをパックに直接口を付けてて飲んでいく。行儀が悪い事甚だしいが、この場にはそれを咎める人間は居ない。いざとなったらとことん自堕落になれるのも独り身の良いところだ。もちろん自堕落を続けないよう強固な自制心が必要とされる。

 行儀悪く燃料補給をしながらテレビのリモコンを手にしてスイッチを押す。液晶画面にニュースの映像が映り、スピーカーから音声が出てきた。


『現在スタジオのある渋谷周辺にカメラが向いていますが、信じられない光景です。暗くて分かり難いですが、ご覧いただいていますように道には沢山のモンスター……失礼、危険生物が行き交っており、時折空にもドラゴン……飛行型危険生物が飛んでいるのが確認できます。これら危険生物は日本各地で出現が報告されています。テレビをご覧の皆様は不要不急の外出を控え、命を守る行動をして下さい。お伝えしていますように――』


 画面に映るのは生放送されている朝のニュース番組で、時折外の様子としてカメラを街中に向ける場面だった。土日以外はほぼ毎日のように見る見慣れた画面の向こう側の光景は、多数の異物によって見慣れないものへと変わっている。

 カメラが撮影しているのは渋谷の風景だ。夜明け前の薄暗い渋谷駅周辺の道路には様々な異形が自動車の代わりに闊歩して、そのいずれもがゲームやアニメなどの創作物でしかお目にかかれない、いわゆるモンスターの姿をしている。ゴブリンやオークらしき人型、火を噴いている大きな犬の影、マンホールから巨大な何かも顔を出しているのが画面に映った。

 カメラが切り替わり、代々木公園方面になるとゴリラを彷彿とさせる大型の猿らしき影が木々の合間から複数見えて、公園の樹木が動物のように動き出し、空にはワイバーンとしか言いようがない生き物が群れをなして飛んでいるのが見えた。

 大作映画の宣伝で放送局が悪ノリして、合成映像を流していると言わた方がまだ納得できる風景だ。けれど何時まで経っても宣伝だというテロップは出ないし、アナウンサーは極めて真面目にモンスターの出現を報じている。

 リモコンを操作して他のチャンネルに変えてもモンスター出現の報道は変わらない。日本各地、いや世界各地で創作物の中でしか見られないかったモンスターが出現して人々を襲っているのだと報じている。

 ニュースはモンスター一色に変わっており、政府発表や海外の状況を流して、外の様子を時折挟むように映している。各局各地の様子が映像に出てきて、その全てにモンスターに襲撃されている街の様子が映っていた。

 端的に言うと、たった一晩で世界が変わってしまったらしい。ついでに俺も変わってしまった。意味不明だ。


「……まずは落ち着いて方針を定めないとな」


 時刻はテレビの表示では朝の5時過ぎ。冬の時期ではまだ暗い時間帯だ。俺の食事が終わったのでルディにも餌を与えながら自分に言い聞かせる言葉をつぶやく。

 犬用の皿にはドックフード。ルディにとってはいつもの定番メニューだけど、昨日が豪勢だったせいか少し残念そうな様子を見せて食べている。外の状況がテレビの通りなら狩猟に出ている場合じゃない。こうしている間にも流れている報道では世界各地でモンスターが発生して人を襲っている。これに対抗して軍隊や警察、武装した市民が反撃をしているようだが成果は思わしくないようだ。街に野生動物が出没するのとは訳が違って、モンスターの数が多すぎて対処しきれず、市街地に直接出現するので広範囲を攻撃する兵器は使えず、さらに獣と違ってモンスターも飛び道具や特殊能力を持っており人類が押されているようだった。


 こう物思いに耽っている間にも外から聞こえる音はサイレン以外にも様々なものが耳に入ってくる。笹穂型の長い耳は伊達ではなく、以前より物音が良く聞こえる。

 誰かの悲鳴、モンスターの吠える声、車のクラクション、乾いた破裂音は銃器の発砲音だろう。警察官あたりが拳銃を撃ったのかもしれない。車同士がぶつかって金属が軋む音も聞こえる。事故が多発しているようだ。

 背筋を下から上へと冷たい恐怖心が上ってきた。自分に言い聞かせたように方針を定めるためにも画面の向こうの風景ではなく、実際に自分の目で現実として確かめたい。もちろん玄関から出ていく真似はしない。この家には屋上がある。高い場所から周囲の状況を見れば周辺の観察としては上等だ。

 次の行動を決めた俺はさっそくリビングから階段へ行こうと立ち上がって、


「ふぐっ!」


 また裾を踏んでコケた。肉体が変わっても実感が追い付いていないのでこんなことになる。暖房はまだつけてないので床が冷たい。食事を終えたルディが心配そうに俺を見ているのは気のせいだと思いたい。情けなさで気分が落ち込んでしまう。

 気を取り直して階段を昇って屋上へ。この家は地上二階、地下一階でガレージ付きといった構造で、正面から見ればアルファベットの『L』を横に寝かせたように見える。その家のある土地を高いコンクリートの塀で囲っていて、守りと言う点では良好だと思っている。なので慌てず騒がず余裕をもって行動することにした。

 二階に上る階段をさらに上って屋上へ。屋上に出る階段室にはロッカーが置かれていて、折り畳みのベンチチェアとバードウォッチング用や人間観察用の道具といった屋上で使う道具が詰め込まれている。そこから双眼鏡を取り出して扉をくぐって屋上へ出た。

 扉を開いて真っ先に感じたのは何かが焦げたような臭いと血の臭いだ。今日の天気は、風は強くなく寒いながらも穏やかな朝を迎えそうな気配だったけど地上の様子が全て台無しにしていた。


 怪物どもによる狂宴。見えた情景を詩的に言うならこんなところか。屋上から近くを通る国道の状況が見て取れる。この体は目も良いらしく、夜明け前の暗い中なのに周囲の様子がよく見える。そしてこの時はよく見えるようになった目が少し嫌になってしまった。

 警察車両や消防車両のパトライトが出す赤い光と燃えている車両から噴き出る赤い炎で国道が照らされている。そこに幾つもの蠢く何かの影が不気味に右へ左へと動いている。その影を詳しく知ろうと手に持っていた双眼鏡をケースから出して目に当てた。

 影の主は小柄な人型生物だ。人間と言って良いのか判断できないので回りくどい言い回しになってしまったが、体の構造自体は人間そのもので、12月の寒空だというのに上半身裸で腰布だけの服装、手には木製の円盾に手斧を持っている。そう、武装しており人を襲っているのだ。

 遺伝子がどう作用しているのか暗緑色の肌を持ち、鋭い目つきをした凶相をしている。ゴブリン――俺が持っているファンタジー知識に照らし合わせて、そうとしか言いようがない生物――が国道で暴れていた。その数、見える限りで20程。全員が武装している。

 新聞が大量に積まれたカブが転がって、すぐ近くには新聞配達員らしき人が地面に仰向けに横たわってピクリとも動いていない。胸には矢が刺さっていた。路上にばらまかれた新聞は運悪く炎上する車の火に当たって燃えだし、火災をさらに悪化させる。燃え盛る炎にゴブリン達は興奮したのか吠えるような大声を出した。いや、真実吠えているのかもしれない。


 俺の家近くを通っているあの国道は北関東を東西に繋いでいる太い道で、早朝であっても車の通りはある。夜から朝にかけては大型のトラックが通行して街から街へと貨物を運搬しているのが良く見られる。もちろんゴブリンの襲撃を受けている車両の幾つかも大型のトラックだ。家畜の飼料を運ぶトラック、コンテナを運搬するトレーラー、スーパーに商品を運ぶ冷蔵車が玉突き事故を起こしている。

 それら車両の合間には人が横たわっている姿が見えた。血を流していたり、矢が幾つも体に刺さっている人もいる。重体、もしくは死体になっているようだ。

 さらに狂宴はここだけではなく、幾つもの場所で巻き起こっている。視線を国道から外して周囲を見渡せばあちこちで火の手が上がって、怪物たちの鳴き声が未明の空に響いている。

 俺が見慣れて住み慣れた街の風景はそこには無かった。こうして呆然としている俺の肉体も昨日までのものではない。テレビを見ただけでは理解はしても納得はしなかった俺の頭が目の前の現実によって無理矢理納得させられてしまった。

 どうやら世界はたった一夜で変わってしまったようだ。ここで俺はその事実をようやく受け入れた。



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