第1話 前日
意識が拾った電子音のせいで急速浮上して、俺は目覚めた。
眼球を動かしてベッド横のサイドテーブルに視線を向ければ、メールの着信を知らせてLEDの明かりを放つスマホ。手を伸ばしてスマホを取るついでにその横に置かれた置時計のバックライトスイッチを押した。
暗い室内で明るく光る置時計。デジタル表示で朝の4時55分を示していた。目覚ましがセットされた5時よりも5分早い。11月も終わりになるこの時期この時間だと日はまだ昇っていない。ベッドの近くにある窓のカーテンを開けても真っ暗な外が見えるだけだ。
二度寝する趣味はないのでさっさとベッドから起床。昨夜寝た時間は夜の10時、約7時間の睡眠時間で実に健康的だ。この10年キチンと睡眠をとってきたお陰か健康に不安を覚えることなく、年に1回受診する人間ドックでも良好な結果を医師から貰えている。同じ世代の人間が肉体と精神を擦り減らし企業の利益のため社畜になっているのに比べれば雲泥の差といえよう。
ベッドから起きればひんやりとした冬の空気が身を包む。元は雪国生まれの俺にとって、住まいであるこの土地は非常に住みよい。冬の寒さは水道管の凍結を心配するほどではないし、雪が降っても積もるほどではないから雪かきや雪下ろしをする必要はない。この土地に住むようになって10年以上は経っても、冬の穏やかさはいつも有難く思い、この時期毎日のように有難さを噛みしめている。
パジャマ代わりのスウェットの上下から普段着にしているジャージに着替え、鏡の前で寝ぐせのついた髪をブラシで整えるなど身支度を済ませて寝室を出る。ドアを開けると目の前に出待ちをしていた奴がいた。
黒い毛皮に包まれた大きな犬。俺が飼っているこの家の番犬兼猟犬のルディだ。今年で2歳になるコイツは犬種でいうなら雑種なのだが、狩猟やドッグレースを目的に優れた犬種同士を交配させた実用犬、ラーチャーというタイプの犬になる。
グレイハウンドのブリーダーがラブラドール・レトリバーとドーベルマンの交配種と自分の犬とを交配させて産まれたのがこいつの出自で、その話を聞いて狩猟犬を求めていた俺がブリーダーに頼み込んで家に迎え入れたのがここにいる経緯だ。
なかなかに賢い犬で猟犬としての仕事をこなした上、ドーベルマンの血なのか番犬としての仕事もこなしている。飼い主としての贔屓目もあるだろうが実に可愛い奴だ。
で、その可愛い奴が寝室を出てすぐのところでお座りをして俺を見上げている。口には束ねた散歩用のリードを咥えている。分かっているとも、毎日の習慣だしな。
ルディからリードを受け取って解いて伸ばし、金具をルディの首輪と接続させる。もうこの段階で嬉しそうに尻尾を振っている。朝早くから元気な奴だ。
ルディを連れて家の外へ出た。玄関の扉を開けるとすぐに冬の冷たく乾いた空気が強い風に乗って吹き込んでくる。それでも出身地に比べれば暖かなもので、ジャージの上にデニムのジャケットとネックウォーマーと手袋程度でしのげる。何より雪が積もらないのが嬉しい。
朝の散歩は以前から時々やっていた習慣だったが、犬を飼い始めてからは毎日の習慣になっている。ルディのような猟犬に運動は欠かせない。人と犬、両方のパフォーマンスを維持するにも体調を見るにも散歩という手段は使えると俺は思っている。
ルディと並んで早朝の暗い道を歩く。子犬の時からキチンと躾けてきたので、無駄吠えや無闇にリードを引っ張る真似はしない。こちらを格上だと認めており俺の進行方向に抵抗なく付いてきてくれる。これを見るたびに小さい頃からの躾や教育は大事なんだなって思わされる。こうして散歩をしている様子からルディにおかしい様子、体調に不備などはみられない。これなら明日、山に連れて行っても問題なさそうだ。
日が昇る前の空は暗く星が瞬く夜空そのもので、道は車や通行人もなく静かでどこか幻想的ですらある。そんな静かな環境を満喫できるのがこの時期の良いところだ。
散歩をしながらジャケットからスマホを取り出してメールをチェックする。歩きスマホはマナー違反だけど、早朝の時間帯で自宅周辺は
『世界の改変まであと1日です。人類の皆さん、改変に備えましょう』メールの内容はこれだけ。またこれか、と思わずにはいられない。
このメールは11月に入った時から一か月間、毎日送信されている。内容も変わらず、ただカウントダウンのように日数だけが減っていく。
送信元不明、目的不明、ブロックもなぜかできない。ウイルスやワームといった類ではないようだけど、意味不明さからくる不気味な感触はげんなりする。
これは俺だけの問題ではない。どうも世界中の通信端末で起こっている出来事らしく、内容も各国の言語で世界の改変なるものに備えようと呼びかけているもの。ネットはもちろん、世界のニュース番組でも小さくとはいえ取り上げられている話題だ。
大抵の人は取り合わない。かつてのノストラダムスやマヤ暦と一緒だ。そんな事よりも重要な日常が彼らにはある。少数派の人々は何か特別な出来事があると考え、ネット界隈を中心にここ一ヶ月専用のスレッドやハッシュタグが幾つも立つくらいにお祭り状態だ。
俺はと言えば、普段とあまり変わりなく日常を過ごしている。ただ、この『備えましょう』という部分に思うところがあって、この一ヶ月暇を見ては業務用スーパーで調味料やインスタント食品、レトルト食品、缶詰といった保存の効く物を箱買いし、猟で仕留めたシカや鳥を燻製やベーコンなどの保存が利くよう加工したりしていた。元々食品はまとめ買いするスタイルだったので大した労力もないし、非常用の備蓄と考えれば損はない。このメールの件も備蓄を買ういいきっかけと思えた。他にも色々と非常時に対する備えは常からしており、たとえ大規模な災害があっても問題がないようになっている。備えあればなんとやらだ。
1時間で散歩を終わらせて帰宅。この時間になると暗かった空も明るくなって日の出も間近になる。いつも通りの朝だ。帰ったら朝食の用意をする。この家には俺とルディ以外に住人はいない。自分のことは全部自分でやる。日常の家事は煩わしい時もあるが、それ以上に誰にも気を遣う必要がなく気楽だ。
朝食のスタイルは備蓄の内容とその日の気分で決まる。昨日近所の養鶏場から卵を安く譲って貰えたので卵料理は確定。冷蔵庫から解凍した自家製シカベーコンを出してスライス、ベーコンエッグにする。ベーコンは加工したばかりの物ではなく、昨シーズンに獲って加工したものを真空パックして冷凍した方を使う。
シリアルに牛乳、野菜ジュースを加えれば立派な朝食だ。日本人ならご飯とみそ汁とか言い出しそうな人もいるが、俺の場合は美味ければそれで良く、その辺りのこだわりはない。
リビングに置かれたテレビの電源をつけて朝のニュースを眺めながら朝食を食べる。ルディがすぐ下で訴えかけてくる目で見てくるが、あえて無視。犬には上下関係をキチンと仕込まなくてならない。
朝に見る番組はニュース一択だ。民放の情報バラエティーは肌が合わないし、NHKは受信料を払う価値を感じない。芸能人や東京での人気スポット、意味不明の特集や占いなども全く興味が湧かない。とはいえ、好きなアニメをリアルタイムで見たい時などは地上波を使う時があるため好きな番組の視聴料金と割り切って受信料を払っているのが現状だ。地上波ニュースの視聴は余禄みたいなもので、後でネットニュースを見るときの参考のために見ている。情報は多角的に仕入れるべきだ。
ニュースでは東京五輪の終了から三ヶ月以上の時間が経ち、色々な不祥事が噴き出している事を報道している。手抜き工事、ボランティアの強制問題、予算の横領、使途不明金、大物政治家の不正、大企業の賄賂、ドーピング問題等々大きな国際イベントに付き物の不祥事を一通りフルコースで制覇しているようだ。俺の場合スポーツは観戦するより実際にプレイする方が好みなのでこれも全く興味なく、むしろテロの危険や規制される交通の不便さからイベント中は開催地を避けていたくらいだ。
国際大会に付いて回るスポーツ・ナショナリズムも鼻についており、正直開催前からこの国が無理をしてオリンピックをする意味なんてなかったと思っている。これらの不祥事の報道を見ているとその思いはさらに強くなった。
朝食を食べ終えたところでルディの食事を用意してやる。普段の食事はドッグフード、特にこいつはカリカリの類が好きだ。だが明日の予定を前に猟犬の気持ちも盛り上げておきたい。
ベーコンと同じく、解凍したシカ肉を取り出してルディの食べる分を計量してカット、鍋で茹でて火を通し犬用の皿に盛りつける。この段階で足元にルディが付きまとっており、早く早くと急かしている。普通の座敷犬より躾は行き届いているはずだが、食事時はテンションが爆上げだ。
いつもルディが食事を食べるリビングの一画に皿を置く。ルディはすでにスタンバっている。尻尾もブンブン振れている。だけどがっついて皿に突撃はしない。皿を前に俺に伺いを立てるような視線を送ってくる。自然と『待て』が出来ており、俺の許可を待っている。
「食ってよし」
俺が一言許可を出せば猛然と皿に顔を突っ込んでシカ肉に食いつくルディ。硬い肉をものともせずモリモリと食べる。その迫力は狩猟犬の頼もしさの表れだ。
猟の前後に獲物となるシカやイノシシの肉や骨を犬に与えるのはハンターが良くやる手法だ。犬に獲物となる相手の臭いを覚えさせたり、狩猟が楽しいものだと学習させたりするのだ。ルディも昨シーズンの事を覚えているのか、俺がジビエ用の冷凍庫から肉を取り出すたびに嬉しそうにしていた。
犬が食事をとっている間に俺は食後のコーヒータイムだ。3日前に焙煎して良い頃合になっているコーヒー豆をミルであらく挽いてコーヒープレスに入れる。熱湯を注いで3分待ってからプレス、カップに注ぐ。立ち昇る豊かな香りが俺の気分落ち着かせ、至福の一杯への期待が大きくなる。砂糖はスティックタイプを一本、ミルクは入れないのがいつものスタイル。
一口飲めばドリップしたものより濃いコーヒーの味わいが口の中に広がる。のんびりとした朝の空気だ。ニュースは五輪の不祥事メドレーから地方局のニュースになっている。今日は月曜日、世間では平日で普通の勤め人なら慌ただしく通勤に出ている時間だ。けれどそんなものは俺には関係ない。悠々自適の生活に軽い優越感を感じつつ、朝の時間を過ごすのだ。
「ん……食い終わったか。明日は頼むぞ」
まったりとコーヒーを楽しんでいると、ルディが空になった皿を咥えて来た。皿を受け取って、自分が使った食器と一緒に洗ってしまう。明日は一日予定が入っているが、今日は取り立てて予定はない。あえて言えば明日の準備だけど、それらはすでに終わっている。なら今日はゆっくりとしよう。
テレビ画面の端に映る時刻表示は朝の8時を過ぎた頃。ルディは皿を渡し終えたらキッチンにある勝手口の下に作った犬用の出入り口から庭へと出て行った。自宅の敷地は高いコンクリートの塀で囲っているのでルディが家の敷地から出ていく心配はなく、庭もルディが不自由しない程度に広い。明日に備えてあいつも英気を養ってもらおう。
朝食後の俺はコーヒーを楽しみつつ読書するのが基本スタイルだ。書庫から持ってきた文庫本を読み、コーヒーを味わいゆったりと時間が流れる感覚に身を任せる。
昔見たさるアニメで「紙の本を読みなよ」というセリフが出てきたが、俺はこの言葉に全面的に賛同する。ページを捲る感触、紙面の文字を追う感覚、あのアニメで語られているように精神の調律が出来そうな脳への刺激が心地よい。電子書籍ではこうはいかない。
SF小説の大御所が描く孤独な男と戦闘機械知性体の物語を楽しむ。この時テレビはつけっぱなしでBGMになっている。BGMはその日の気分で普通にオーディオ機器で音楽を流したり、逆にBGMは一切なく家の周辺の環境音だけを読書の友にする時だってある。
分厚い本だったが昨日から読み進めていた文庫本は程なく読み終わった。読後の何とも言えない脱力感と充実感は一本の大作映画を見終わった感覚に似ている。ふと目をテレビの時刻表示に移せば時刻は11時過ぎ、腹具合も食べた物が程よく消化され昼食を考える時間になっている。
こういうライフスタイルなので昼食は基本的に軽く簡単に済ませる。窓から見える外の様子は小春日和めいた穏やかな天候だ。テレビの気象予報も洗濯日和と言っている。洗濯は昨日で済ませており、掃除も普段からこまめにやっているので主だった家事は問題ない。
こんな日は気分によって昼からの予定を決める。バイクに乗って軽く流したり、このまま家で映画鑑賞やゲーム、次の本を書庫から出して読書タイムの続きというのもある。
公序良俗に反しない限り何をしても良いし何でもできる。そのための時間と金はある。それを実感する実に贅沢かつ充実した時間だ。
「そうだな、店に行くか」
今日はより美味しいコーヒーが飲みたい気分になったので、行きつけの喫茶店に行こうと決めた。喫茶店では軽食も出しているのでランチはそこで。
ジャージからデニムのパンツにシャツ、厚手のレザージャケットに着替える。持っていくのは財布にポケットティッシュとハンカチ、読書タイムの続きも予定しているから文庫本も新しく読むものをジャケットの大きいポケットに突っ込んで持っていく。
ここから喫茶店まではバイクで行く。自宅の周辺には何もなく、田畑か雑木林が広がって農家や養豚、養鶏の家がちらほらという田舎である。北関東の地方都市の郊外はこんなものだ。田舎と言われる故郷に居た頃と大差ない感覚である。
リビングから直接繋がっているガレージに向かい、二台あるバイクの内一台に近付いて軽く点検。俺は普段使い用とツーリング用で使い分けており、普段使い用のこれはホンダのCT125ハンターカブだ。名車カブの亜種で、荒れ地でも走破できる性能をもっており、運転技術があれば道なき道を走ることも出来るレジャーバイクだ。自宅周辺では舗装されていない道もあるのでこういうセレクトをしている。
今年になって発売開始した最新の車種だけど、前身の車種の時から硬派な印象が好ましかったので新車で購入した。カブの亜種だけに頑丈なバイクだけど、日々の点検と手入れは欠かしていない。
ざっと点検して異常は見当たらない。なのでさっさと出発してしまう。ガレージの壁にあるキーボックスからハンターカブのキーを取り出し、キーボックスの横に吊るしているヘルメットとグローブも手にする。
キーを差し込んでエンジン点火。気温が低いのでかかりが渋いが、整備を欠かしていないので問題なくエンジンは目覚めた。
「お、ルディか。ちょっと出かけてくる」
エンジン音を聞きつけたのか庭に居たルディがガレージの入り口に来ていた。俺が家を空けるのを理解しているようで、どことなく寂しそうな顔をしている。多分人間の勝手な想像ではないはずだ。
そんなルディの頭に手をやって「留守を頼む」と軽くなでる。留守中の家の番もこいつの務めで、こいつ自身もそこは弁えているらしく俺を引き止めるような真似はしない。本当に賢い犬だ。
ヘルメットを被って、バイク用のグローブをつける。この間もハンターカブのエンジンはアイドリング状態で、音から判断して程よくエンジンが温まってきた辺りでガレージのシャッターを開けてバイクを押して外に出す。ガレージの中も冷たかったが、外は風がある分さらに体感温度が下がる。
シャッターを手早く閉めて鍵をかけ、バイクに跨って出発。ハンターカブのエンジンは快調な排気音と共に回って車体を前へと蹴り出した。
空冷単気筒エンジンがアクセルの操作で勇ましく回転し、ハンターカブは快調に道を走る。吹きつける風は肌を切りつけるような冷たさだ。北関東の空っ風は強く、油断しているとハンドルを取られてしまう。雨の日ほどではないが慎重に運転していく。
先に自宅の周辺には何もないと言ったが、それはバイクで5分ほど移動すれば様相が変わる。田畑と雑木林中心だった風景は唐突に住宅街になり、次に大型のショッピングモールが現れ、チェーン展開する飲食店が軒を連ねるような光景になる。俗にいうファスト風土化の現場だ。北関東を東西に横断する国道や高速道路沿いのバイバスなどは郊外化の影響がもろに出ており、市の中心地よりも賑わっている。俺の目的地の喫茶店もこの近くにある。
さらに5分バイクを走らせてショッピングモールの裏手、国道から一本裏通りに入ったところに行きつけの店はある。外観は喫茶店としては一般的な店で、奇をてらわず清潔感ある雰囲気だ。こういう場所はショッピングモールから流れてくる客が目当ての個人経営の店が多いが、この店はモールができるよりも前からの創業でなかなかに歴史ある喫茶店らしい。
建物のすぐ横にある駐輪場にハンターカブを停めてメットを脇に抱えて店へ。ドアを開ければ取り付けられたベルが鳴って来客を知らせる。
「いらっしゃいませ」
「ランチを。コーヒーは食後に」
「かしこまりました」
勝手知ったる行きつけの店。店内に入って早々に自分の定位置と定めた一番奥のカウンター席に座り、見知った店員へ注文。注文を受けた店長も余計なことを言わずに注文を受けて調理にかかる。ファストフード店のあれこれおススメをしてくる店員とは大違いで俺にとっては心地よい対応だ。
店内は木材をふんだんに使った内装になっており、歴史を重ねて飴色になった木材の表面が落ち着いた雰囲気を演出している。今日の客の入りもほどほどで、満席になったところを見たことはないが、俺以外の客がゼロの日も見たことはない。地元民に愛されている店なんだろう。
落ち着いた店内の内装、空気、音。ファミレスやスーパーマーケットのように喧しい家族連れはいない。大きな声でバカ笑いをする連中や、遊び場と勘違いして走り回るガキ連中といった存在はこの店から締め出されている。店長は雰囲気づくりから気を遣っている素晴らしい人だ。
注文のランチが来るまでは文庫本を取り出して読む。今度の作品もSFで、デビューから僅か数年で病死した作者の著作だ。その短い活動期間にも関わらず作品の評価は高く、こうして読んでいても出だしから引き付けるものを感じる。未来における徹底的に個人の情報と健康が管理された世界が繊細に描かれて、俺の思考はそこへ耽溺していく。
「お待たせしました。ランチです」
「――あ、っと。ありがとうございます」
本の世界に浸りきったところだったので反応が遅れた。店長の家族と思われる店員が持ってきたトレイが俺の前に差し出される。トレイの上に載ったワンプレートにまとめられた料理が本日のランチだ。
ランチの内容は決まったものではなく季節と仕入れの状況次第で変わるそうで、今日は肉のソテーを中心にしたプレートにロールパンというものだ。しかも使われている肉はイノシシだそうで、店長が仲間と一緒に狩ってきたものだという。いわゆるジビエ料理だ。
こんなところに俺と同じハンターがいるとは思っていなかったが、それを明かす気はない。面倒な人付き合いが嫌いで今の生活をしているのだ。喫茶店の店主と常連の客以上の関係は求めていない。店長や店員もその辺りは心得たもので、誰も必要以上に話しかけてはこない。常連ではあってもお互いの名前さえ知らないくらいだ。
フォークを手に取り食事を始める。このような穏やかで互いに無関心な空気は俺にとって居心地が良い。食も自然と進むものだ。
食後のコーヒーを堪能し、さらにおかわりのコーヒーを3杯。その辺りで店の時計は午後3時を指して、文庫本は読み終わった。読後の満足感が身を包む。今回の本は久々に大当たりだ。もう少し余韻に浸っていたいが、そろそろ良い時間だ。
会計を済ませて店を出る。冬の太陽はすでに傾きだしてもう2時間くらいで夜になる。道行く人の中に下校途中の小学生が混じりだしていた。賑やかな子供の声が俺の鼓膜を叩く。せっかく穏やかな時間を過ごしたというのに気分が悪くなる。俺は子供が嫌いだ。
ハンターカブに跨って帰宅。ガレージからリビングに入るとルディが早速お出迎えしてくる。時計を見て4時までまだ余裕があるのを確認、ルディの相手をする事にした。
勝手口からルディと一緒に庭へ出る。この時手には犬用のおやつを持っている。それだけでルディはどういう事をするのか理解しており、尻尾を嬉しそうに振っている。
高いコンクリートの塀に囲まれたほどほどに広い庭。塀には日光を取り入れるためガンポートじみた隙間が開けられて、そこから西日が強く差し込んでくる。
「ルディ、あっちを向いて伏せ」
俺の指示に賢い犬は従ってくれる。伏せたルディからは見えない位置で犬用おやつを袋から取り出して適当な場所に隠す。これは犬の嗅覚を使った遊びで、見つかればご褒美のおやつがゲットできる。
猟犬などは日常においても一定水準は運動させるべきだ。犬のストレス発散やパフォーマンスの維持から見て重要で、それが出来ない家庭ならそもそも飼うべきではない。
俺は毎日時間を見てはこうしてルディの相手をする。主従の絆とか安易な言葉を使うつもりはないけど、関係の構築には毎日のコミュニケーションは大切だと理解している。飼い犬との関係は人間関係よりはずっと気楽なのが良いところだ。
「よし、探せ」
俺の一声でルディは素早く立ち上がってあちこちを探し始める。フンフンと荒い鼻息まで聞こえており、それだけ必死になっているのが分かる。
猟犬として訓練を積んでいるルディは、1分くらいでおやつの隠し場所を見つけ見事ゲット、おやつのジャーキーにありつくことが出来た。賢く鼻も良いからこの手の遊びをするには飼い主側も知恵を使う。庭にある家庭菜園に軽く埋めてみたけど良く発見するものだ。
さらに何回か同じように隠し場所を変えて探し物遊びをして、次にボール遊びをした辺りでちょうど良い時間になった。時計の針は午後4時にをさしている。ここからは俺自身の運動の時間だ。
名残惜しそうな顔をするルディを横目に遊び道具を片付けると地下のフロアに降りる。扉を開ければ8畳間ほどのトレーニングルーム。半地下で高い位置にある窓から採光もできる部屋なのだがこの季節は日没が早くすでに真っ暗だ。電灯を点けてさっそく日課の運動を始める。
体を動かすなら朝よりも夕方が望ましい。ジョギングやウォーキングなどは朝のイメージが強いけど、実際のところは頭と体がしっかりと目覚めている夕方が運動するのに向いている時間帯だ。
柔軟体操からトレーニングを始めて体を良くほぐす。軽く汗ばむ程度まで筋肉をほぐしたところで筋トレに移る。これは特別な器具を使わずに、一般的な腕立て伏せ、腹筋、懸垂、スクワット、それらを各数セット。それが終わればインナーマッスルを鍛えるトレーニングを数セット。どのトレーニングをどれだけやるかはその日の体調によって変えている。
筋トレが終われば次は有酸素運動だ。ジョギングなどが代表的だけど俺の場合はエアロバイクを使う。大枚はたいて買ったエアロバイクにまたがってペダルを漕ぐ。負荷の度合いもその日の体調で決める。単純にペダルを漕ぐだけなのも芸が無いのでこういう時は音楽をかけるのが定番だ。地下に部屋がある上、隣の家まで距離があるから大音量を気にせず流せるのがこの家の良いところだ。
流す音楽はやっぱりその日の体調と気分次第。基本的に音楽の趣味は雑食なので幅広いジャンルからチョイスする。今日はロックの気分なのでQueenをアーカイブから出してランダム再生にかけた。マーキュリー、メイ、テイラーのコーラスをはじめとしたサウンドで耳を満たしつつバイクのペダルを漕ぐ。
一曲、二曲、と再生が進めばペダルを漕ぐ俺の息も軽く上がってくる。このくらいのキツさが有酸素運動で一番良い頃合いだ。時間の許す限りこの状態を引っ張っていく。
Queenの曲がさらに何曲か再生して、ボヘミアンラプソディーでメンバーが有名なガリレオを連呼している辺りでタイムアップになった。午後6時の15分前。クールダウンとして軽くストレッチをして本日の日課は終了。出先でもない限りこの2時間が毎日の運動時間と決めている。
運動が終わったらシャワーで汗を流して体をしっかり洗う。終わったら体を拭きつつヘルスメーターで体重と体脂肪を計測。今の生活にはとても満足しているので、それを少しでも長くするには日頃からの健康管理は欠かせない。早寝早起き、運動は毎日しっかり、栄養も摂って、酒は控え目、タバコは吸わない、歯磨きはサボらない。これらを当たり前の習慣としてすでに10年以上になる。我ながらとても健康的で、メタボとは無縁の体型になっている。脱衣所兼洗面所の鏡に映っている自分の肉体は、程よく筋肉が発達している細身の男性の身体だ。もう少し頑張れば細マッチョになれそうだけど、俺としては狩猟に必要な山歩きするだけの体力があればいいし、余計な筋肉は動きを阻害すると聞くし今が一番良い状態だと考えている。
部屋着のスウェットを着て、キッチンで夕食を作る。この時ルディはというとリビングの床に伏せるように寝そべって、つけているテレビを見ていた。間取りとしてはリビングダイニングなのでキッチンからでもテレビは見れる。なので夕食時は大体テレビはつけている。そしてこの間ルディも大体テレビ前に陣取ってテレビ鑑賞をするのがお決まりのスタイルになっている。何を思ってテレビを見ているのかは分からないが、楽しんでいる様子なので無粋な真似はしない。
今日の夕食は和食にしてみた。きんぴらごぼうに肉じゃが、ひじきを絡めたおからのあえ物。みそ汁こそインスタントだがそれ以外はちゃんと自作だ。結婚はもちろん彼女さえ居たことが無い男一匹の生活だ。自炊は出来て当然のスキルといえよう。インスタントやレトルト、総菜だけでは飽きるし、料理するのも楽しい。とりわけ狩猟で狩ってきた獲物を使ったジビエ料理をする時などはテンションが爆上げだ。
明日の狩りが今から楽しみで、遠足前の子供の気分を味わいつつ夕食を食べ始める。うん、今日の肉じゃがの味付けは少し濃かったな。そういえば醤油を変えたから味付けも変わるか、などと自己評価をしながら箸を進める。ちなみにルディは朝同様まだ食事はおあずけだ。先も言ったがこういう上下関係は普段から躾けないとダメだ。
夕食の間もテレビはつけたままだ。番組はやっぱりニュースやドキュメントが中心。地上波のバラエティは俺には今一つだ。テレビに映っているのは例の全世界の端末に送られている電子メールについて報じている。
ニュースの特集に出されるくらいに広く浸透している例のメールだが、送信者は不明、警察のサイバー犯罪の対策班が動いているようだが、手掛かりは無いらしい。世界に目を向けると、金融業界、IT業界でも問題視されているようだ。なにしろセキュリティが高く外部とのアクセスが制限されている端末であってもメールが届いているのだ。保安上問題視されるのは当然だろう。
特集は不安を煽る内容に惑わされないようにという言葉で締めくくられて終わる。世間の評価としてはこのメールは世界規模の電子的イタズラという認識のようだ。
俺の夕食が終わったらルディの夕食にとりかかる。朝は鹿肉を与えて狩猟への気分を盛り上げたと思うので、夕食も引き続き肉を与えて明日に備えたい。
ジビエ用の冷凍庫から取り出したのは昨シーズンに獲ったイノシシのアバラ部分、いわゆるスペアリブだ。これを圧力鍋でよく煮て、骨から肉が剥がれやすくさせた上でルディ用の皿に盛った。人間のような味付けはこの場合余計だ。煮ている間はルディが足元で尻尾を振ってまとわりついてくる。普段は大人しく物静かな奴なのにこういう時はやたら元気だ。
皿を出し、食事の許可を出せば勢いよくがっつくルディ。強力なアゴで骨ごと食べてしまいかねないほどだ。この間に洗い物を済ませ、それが終われば就寝の準備だ。
時刻は夜の8時を回ったところ。世間的には宵の口、だけど夜の10時には寝てしまう俺にとっては就寝準備の時間になる。深夜アニメに時々面白いものが登場して心惹かれるが、そういうのはネット配信で後から見て、面白いと思えば円盤を買うことにしている。趣味で就寝時間を削ってしまうのは好ましくないからだ。
歯磨きは液体歯磨きと歯間ブラシと歯ブラシを使って念入りにやる。日々の健康はお口の中から、デンタル商品のキャッチコピーみたいだけど間違いではない。加えて三ヶ月に一度の定期健診までやればパーフェクトだ。
続けてルディの歯磨きも行う。犬は虫歯になりにくいというが、ならないという訳ではない。犬の健康管理も飼い主の責任である以上はキチンとやっておきたい。うちの場合は一日一回、夕食が終わったこのタイミングで歯磨きをしている。ルディもすでに心得たもので、何も言わなくても犬用の歯ブラシを手にした辺りで近寄ってくる。
俺が使っている物よりもお高い馬毛の犬用歯ブラシでくまなくルディの歯を磨く。去年の辺りでは結構歯ブラシを嫌がっていたけど、今では大人しくブラシを受け入れていれて終始トラブルなく歯磨きを終えた。
就寝準備が終われば、寝る時間になるまで読書で過ごす。今日はこんな風に読書三昧の日だったけど、ゲーム三昧の日、ネット三昧の日とその日ごとに耽溺する分野を気分次第で決めている。明日の狩猟の日みたいに遠出するイベントが無ければ俺の日常はこんなものだ。そしてこんな日常を俺は愛している。
時計を見れば夜の9時半過ぎ、そろそろベッドに入る時間だ。読んでいた本にしおりを挟み、寝る前にレンジで温めた牛乳を一杯。これでぐっすり眠れる。
寝室のある二階に上がって、そのままベッドへ直行する。この生活サイクルに体は馴染んでいるためこの時間でも眠気は十分だ。ちなみにルディは部屋に入れない。リビングと庭があいつの主な居場所で、寝るところはガレージに繋がっている扉の横だ。窮屈さを感じない程度に広いはずだし、大切なペット相手でも住み分けは必要だと俺は思う。
布団に包まってベッドに身を任せれば意識が一気に沈みゆく。今日は読書で充実した日だった。明日は狩りで充実した日にしよう。そんな徒然に浮かぶ思いさえも眠りの中にゆっくり沈む。
この日が何の憂いもなく眠れる最後の日だった。
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