台北でひとり旅 嫁に来ないかと誘われた(台湾)

 5月の台北の空は梅雨時期特有の灰色の雲が広がっていた。梅雨時期を敢えて選んだわけではなく、GWなのにお手頃価格で行ける海外だったから決めただけだ。初めての海外ひとり旅、申し込みから旅の準備、空港からホテルまで多少のトラブルはあったがなんとか到着した。


 ホテルに荷物を置き中正記念館を見学に行った。台湾の初代総統である蒋介石の死後、哀悼の意を表すために建立された記念堂。広い敷地の奥に白く滑らかな壁と八角形の紺色の屋根が見えた。厳かだが上品で穏やかな佇まいをしている。

 龍山寺や行天宮はどちらかといえば装飾過多で派手な印象を受けたから、このシンプルな建物が際立って美しく見えた。


 市場で魯肉飯と甘いマンゴーかき氷を堪能し、このあとどうするか考えているときに大雨が降り始めた。すぐに止みそうではあったが雨宿りついでに土産物を探そうと地下街へ逃げ込んだ。

 湿気のこもる雑多な地下街を歩くうちにお茶屋さんへたどり着いた。ほうじ茶の香ばしい香りに釣られ勧められるまま長テーブルに座る。テーブルの端では常連らしいお爺さんが湯呑み茶碗を片手に写経をしていた。少し眼鏡を下にずらして視線を紙から遠ざけて見たり近づいてみたりしながら、小筆の先を器用に動かしていた。ちらりと盗み見た紙の上に縦に並んだ漢字の列は墨の色が濃く凛として美しかった。

 一人旅の日本人が珍しかったのか、お爺さんはカタコトの日本語で話しかけてきた。私は二杯目のお湯を急須に足して貰っているところだった。お爺さんは写経とお茶のセットごと私の前のイスに移動して嬉しそうにお喋りを始めた。

 戦時中、混乱の生活の中で日本軍がインフラを整備してくれた。そのおかげで今こうして整えられたインフラの上で普通の暮らしができていると、ニコニコしながら語ってくれた。もちろん戦争はよくないことだけど、と遠い日に学んだ日本語を少しずつ思い出しながら長い時間をかけて日本人の私が知らないエピソードを話してくれた。

 その昔、多感な時期に接した日本という国に抱いた印象を忘れることはない、そして台湾を訪れてくれる日本人にも台湾を好きになって欲しいのだと笑顔を絶やさず語った。


何となくほっこりしているとお爺さんが突然「あなたは結婚していますか?」と尋ねた。実は私は一年ほど前に離婚をしたばかりで、結婚というワードに妙に卑屈になっていた。私が戸惑っているとお爺さんは笑顔を引っ込め「私には息子が4人いる。3番目までは結婚して独立した。4番目の40歳の息子は英語も話せるし学校の先生をやっている自慢の息子だがまだ嫁がいない。よかったら息子と結婚しないか?」といって、おもむろに携帯電話を取り出しかけ始めた。そしてあれよあれよという間に他の店にいたらしい自慢の息子が現れたのだった。

 流暢な英語で自己紹介をしてくださる4番目さんに圧倒され、あれこのまま再婚もいいのでは…。なんてことはなく、今回は残念ですが、と丁重にお断りを申し上げてしまった。その理由は…想像していただきたい。


 地下街を出るとまだ雨が降っていた。まさか異国の地で嫁に来ないかと誘われるとは!思わず笑いが込み上げる。予想だにしない展開にひとり旅の面白さを噛みしめた出来事だった。

 あのあと何度か文通をしたがいつの間にか途絶えてしまった。当時あのお爺さんは80歳、今では90歳を超えていらっしゃるはずだ。お元気で暮らしておられることを心から願って止まない。

(2009年渡航)

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