chapter 8: THE NEEDLE LYES(2)






 ほぼ日が暮れ、夕闇が迫る時刻だった。

 人々が、足早に帰路を急ぐ。

 自信家の男は、街の中心部に向かって行った。


 けげんに思いながら、ヨハンネスは目を細めた。

 たそがれ時のけむる街並みの中で、距離をとってついていくのが難しくなったからだ。

 かと言って、余りに近付いては気取られる。

 それに浮浪児の恰好をしている以上、あまり富裕層の街並みをうろついていると、市民が交代で務めている夜警に見とがめられる恐れがあった。

 その辺りは自信家の男も同じはずだが、気にしている気配がない。


 男はついに、リューベック市の中央を南北に走るケーニヒ通りを歩き始めた。

 施療院も面している街の主要通路であり、ヨハンネスは当番夜警の姿を探してしまう。

 しかし当番夜警が出てくる前に、自信家の男はとある商家の扉をくぐった。

 貿易品を扱う荷車や馬車が出入りするだろう正面扉は開放されていたが、ヨハンネスはその中には入ろうとしなかった。

 場所だけを覚えて、少年はその場を立ち去った。




 翌日、ヨハンネスはルールマンのパン屋を訪れた。

 この街のほとんどの職人と同じように、自宅は仕事場を兼ねている。

 街路に面した戸口からのぞくと、ルールマンは、パン生地を練る大きな木箱の上にかがみ込んでいた。

 ルールマンは、パン生地を両手いっぱいに持ち上げ手前に落とした。

 それを何度も繰り返すと、次はそれを引っ張るように伸ばし、すぐに空気を入れるように折りたたむ。

 休む間もなく身体を曲げたり伸ばしたり、木箱の周りを行ったりきたり、大変な重労働だった。

 ルールマンは呼吸を荒くし、流れる汗を徒弟の少年が拭き取る。

 ヨハンネスは、黙って作業を見詰めていた。


 やがて生地づくりが一段落した。

 こね桶にふたをして作業台にし、その上で大きく切り分けたパン生地を発酵させる。

 ルールマンは、そこで一息入れて、ヨハンネスを見た。

 上背があり、厚みのある身体付き。

 決して威圧的ではないが、寡黙だ

 愛想笑いや機嫌取りをしているのを、ヨハンネスは見た事がない。

 しかし、古い付き合いの施療院の奉公人たちに、彼の事を悪く言う者は一人もいなかった。

 

「ヨハンネス。何か用か?」


「ちょっと話があるっス。いいスか?」


 ヨハンネスが問うと、ルールマンは階段に向かった。

 二階に上がると、ルールマンは水差しで湯呑みに水を注いだ。

 湯呑みを二つ用意し、一つをヨハンネスに差し出す。


「あざっス」


 ヨハンネスは、礼を言って水を飲む。

 それから、昨日見聞きした事をルールマン氏に説明した。


「俺ぁ、バカなんで。どういう事なのかよくわかんねぇっス。でもホアキムの兄貴もいねぇんで、もうこれ言っちゃうしかねぇかなって」


「ふむ」


 ルールマン氏は、湯呑みを持ったまま、考え込んだ。

 ヨハンネスも、何も言わない。

 やがて、階下から徒弟がルールマンを呼ぶ声が聞こえた。


「パンを作る所、見ていくか?」


 ルールマンに言われて、ヨハンネスはうなずいた。


 ルールマンと徒弟は作業を再開した。

 一塊の生地をとって伸ばし、一つ一つ手で形を作る。

 そして、で計量する。

 重すぎたり、軽すぎたりすれば、生地の量を調整した。


 そして出来上がった生地に、木を削って作った星型を押し付けて印とした。


「お前がたのは、パン役人だ。ヨハン・ヴィッテンボルグ。貿易商で、市参事会に選ばれる資格がある家柄だ」


 ルールマンは、ヨハンネスにそう告げた


「パン役人は、抜き打ちでパンの検査をする事ができる。重さや、変な混ぜ物をしていないか調べるんだ。話を聞く限り、ヴィッテンボルグは私をようとしている」


「おっちゃん、なんか恨まれるような事でもしたんスか?」


「……心当たりはある。先日の件だ」


「あ?」


 ルールマンに言われて、ヨハンネスは目を丸くした。


「あの事件で、粉屋兄弟団や、皮なめし職人と肉屋の兄弟団につながりができた」


 ヨハンネスは、一連の出来事を思い出した。

 イエルクリングに殺されそうになった時、助けてくれたのは皮なめし職人たちだった。

 水車小屋で溺れかけた時、引き上げてくれた連中の中に、パン職人だけでなく粉屋もいたかもしれない。

 あの時は気にする余裕もなかったが、粉屋たちはどうもヨハンネスを見知っていた様子があった。であれば、壊れた水車小屋に住みついていたのも黙認されていたのかもしれない。


「私は、パン職人兄弟団に四人いる世話役の一人だ。食料を扱う縁もあって、粉屋、肉屋と連帯しようとしている」


「連帯?」


「平たく言えば、あいつらと組んで、市参議会のクソみてぇなやり方に喧嘩売ろうって事さ」


「お、おう……」


 ヨハンネスは相づちをうったが、ルールマンの言った事が飲み込めていない様子だ。

 ルールマンはそれを見て、言葉を足す。


「元々、大店の商人と手職人は対等とは言わずとも、仲間ではあったんだ。力を合わせて、街を栄えさせてきた。

 ところが、最近の市参議会は勘違いしてる。俺たちから搾り取る決まり事ばっかり作りやがる。

 そういうのに抗議するのに、パン職人だけじゃ頭数が足りないから、粉屋肉屋と一緒にやりたいんだ」


 今度は、ヨハンネスもしっかりうなずいた。


「あー……。それで、偉いさんに目を付けられた?」


「そうなんじゃないかって話だ」


 ヨハンネスは腕組し、かみ切れない筋肉すじにくに困っているような顔になる。


「……で、どうするんスか?」


「まずは信用できる人に相談してみるしかあるまい。よく知らせてくれたな。ありがとうよ」


 ルールマンに礼を言われたが、ヨハンネスの表情は晴れなかった。





 次の日曜日の朝がた、ルールマンは、警吏のピータ―の住居を訪ねた。

 下町と言っていい狭い通りにある、老夫婦の家。

 そこの三階に下宿しているとの事だった。

 てっきりケーニヒ通り辺りに住んでいると思っていたルールマンは、驚く。

 

 中に通されてみて、更にルールマンは目を見開いた。

 調度類は、市参事会に連なる名家の若者らしからぬ質素な物だった。

 そして、いつもの従者たちが若い婦人の恰好で、かいがいしく立ち働いている。

 寝起きらしいピーターに茶を渡す様は、まるで若い職人夫婦のようだ。


「楽にしてくれ。共に修羅場をくぐった仲だ」


 くつろいだ様子で、ピーターは言った。

 戸惑いながらも、ルールマンも出された茶をすすった。


「それで、今日は何の用だ?」


 問われて、ルールマンはヨハンネスから聞いた話をした。

 その後、パン屋兄弟団の他の世話役に相談した事も伝える。


「それで、世話役たちは何と?」


「ヴィッテンボルグには、逆らうなと。罰金刑で済むように陳情はしてくれるそうです」


「……」


 ピーターは、つまらなそうに黙り込んだ


「このまま、手をこまねいている訳にはいきません。助けて欲しいのです」


 ルールマンがピーターを見据えて言った。


「警吏が取り締まるのは、下町の連中だ。役人を告発する事はできない」


 ピーターは、突き放すように言った。

 だが、ルールマンはひるまなかった。


「警吏としては無理なのは知っています。だが、市参事会に連なる家の者としての貴方なら、何か出来る事はないのでしょうか?」


 そう言われて、ピーターは言葉に詰まった。

 ルールマンは席を立ち、二人の間にあった机を回り込んだ。


「私は先日、貴方の下で剣を振るいました。貴方は十分に信頼できる人物だと思った」


 ルールマンは、ひざまづいて両手でピーターの右手を取ろうとした。


「やめろ」


 ピーターは、その臣従の仕草から逃れるように、手を振り払った。


「二度とするな。俺は、そういうのは嫌いなんだ」


 そう言い残して、ピーターは隣室に引っ込んでしまった。

 ピーターの従者が、気遣わしげにルールマンの手を取り、立ち上がらせる。


「どうか、今日はお引き取りを」


 憂いに沈んだ顔でそう言われてしまえば、ルールマンもその場を辞すしかなかった。


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