chapter 3: BRAVE NEW WORLD(2)






「待たせた」


「お休みの日にサーセン!」


 そんな風に、二人は挨拶を交わした。

 普段は施療院の中庭で稽古をしているが、今日はホアキムの都合でここで行う。

 行列が離れたのを見計らって、青年と少年はデュサックを持って向かい合った。


 二人とも、右半身で左手を腰の後ろに回した同じ姿勢。

 剣先を下に向けたまま、青年がデュサックをゆっくり持ち上げた。

 手が顔の高さを越えた辺りで、切っ先を持ち上げて少年の顔に向ける。

 そのまま小刀を握った拳を、顔の右横ぐらいまで引いた。

 “吊り構え”から“舵”と呼ばれる構えに移った青年を見て、少年は腰の前で構えたデュサックの先端を右側に開いて倒す“横構え”にする。

 吊り構えや舵構えは突き易い構えなので、横構えにして突きを反らす準備をする。

 それを見て、ホアキムはデュサックを高く掲げる“見張り塔”構えに変えた。

 これに対して、少年は“舵”構えをとる。

 “見張り塔”からは垂直に落ちてくるような斬撃がくる可能性が高い。

 その為、あらかじめ頭上に近い位置にデュサックを置いて迎撃に備える。


 それからも、ホアキムは構えを変え続け、なかなか攻めてこない。

 構えに対する定石を覚えているか試されている、と少年は判っていた。

 しかし、練習してきた技を出したい。

 せっかくの機会だから、ホアキムと心行くまで打ち合いたい。

 そういう思いが、少年の足を踏み出させた。

 一気に間合いに入った。

 その瞬間に何かしらホアキムが迎え撃ってくると、決め打ちした。

 更に目一杯足を踏み出し、身体を前に投げ出すように加速する。

 不意に低くなったヨハンネスの頭上を、ホアキムのデュサックが空振りした。

 同時に少年のデュサックが、青年のすねを打つ。

 少年は快さいを叫ぼうとしたが、その頭に青年が拳を落とした。

 その痛みに、ヨハンネスはうずくまった。

 ホアキムは、ヨハンネスの素早さに内心舌を巻いた。

 しかし、今の立ち合いには見過ごす訳に行かない点が含まれていた。


「それは、駄目だ。そんな捨て身で一瞬早く斬ったとして、反撃されて死ぬ。人は


 ホアキムの声音に、ヨハンネスは顔を上げた。


「それと、無防備に、間合いに飛び込むな。小さな金創(※)が腐って死んだ人を、大勢見た。人は。まずは相手の武器を制する事を考えろ。それに成功して、こちらが一方的に攻撃できる時にだけ、間合いに踏み込め」


「でもそんなん、たりぃッス。いつまでもケリつかねぇじゃないスか」


 不満そうに、少年が漏らした。


「良いんだ、それで」


 青年が答えると、ヨハンネスは驚いた。


「君が法と神様の教えに従う限り、大抵の場合、時間が掛かって困るのは襲撃者の方だ。手間取っていると逃走の機会を失う。騒ぎを聞きつけて近隣の住人が来たり、警吏が駆け付けるかもしれない。街によっては、強盗に入られそうになった家主が助けを求める叫びを聞いたら、近隣の住人は武器を持って駆け付ける事、という決まりがある」


 ホアキムは、しゃがみ込んで、ヨハンネス少年と目の高さを合わせた。


「君が傭兵だったら、そして僕が、君を百人使って軍功を上げなければいけない中隊長だったら、また違う事を教える。でも、そうじゃない。今、教えてるのは護身術なんだ。僕が教えた事で、君が命を失うのを見たくない」


 真剣な声音と瞳だった。


「……ウッス」


 少年は、そう答えた。





 通り向かいの“ルールマンのパン屋”から、施療院は毎日パンを買っていた。

 パンは二等の小麦と黒麦の混合品だ。

 リューベック市ではこれが一個で銀貨一枚と定められている。

 大きさは、大人が一食とするのに十分なだけあった。

 これに使われる麦粉の量も、市が麦の価格に応じて適時に定めている。

 ルールマンは、パン屋には珍しく誠実な男だと評判だった。

 市のパン試作監督官の検査で不正が見つかった事が一度もないらしい。


 施療院に運ぶのは、ルールマンの娘のアポロニアの役目だった。

 朗らかで気立ての良い娘で、施療院の奉公人たちにも好かれていた。

 彼女が“バイオリン弾き”小路こうじで難儀しているのを見かけたヨハンネス少年が声をかけたのも、当然の仕儀だった。


 そこは市の外縁部で、わらで屋根を拭いた粘土小屋が立ち並んでいた。

 それらは教会の所有物で、旅の楽師達の仮住まいとして提供されている。

 春になり四旬節が始まった為、大道芸人の類が増えにぎわっている。

 施療院の使い走りの途中、ヨハンネス少年はこの小路を横切った。

 その時、粘土造りの壁に背を押し付けられて、数人の男に囲まれているアポロニアに気付いてしまった。

 男たちは、彼女のお下げや、鮮やかな婦人服をいじってからかっている。

 男たちの手付きや顔には不穏な興奮が見て取れた。

 アポロニアはひどおびえていた。


「おうコラ!」


 声を上げてから、振り向いた男達の顔に見覚えがある事に少年は気付いた。

 少年は何度も、この小路にねぐらを得ようと潜り込み、その度に彼らに叩き出されていた。

 彼は、みぞおちの辺りに鈍いうずきを感じた。

 何を言うべきか迷い、唇の皮を舌で湿らせる。

 少女の青い目が、ヨハンネスに気付いて嬉しそうに細められた。

 それを見て、少年は口を開いた。


「火事だ! 泥棒! 人殺し!」


 自分でも驚くほどの大声が出た。

 男たちもぎょっとして顔を引きつらせた。

 元より市民に蔑まれている彼らだ。

 芸人たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。


 ヨハンネスもアポロニアの手を引いて、バイオリン弾き小路こうじから抜け出した。

 次の日、少年はルールマン親子から丁寧なお礼を言われた。

 そしてルールマンは“聖ヘアーツ施療院の兄弟団”に入会した。

 既にパン職人たちで作る兄弟団にも入っていたが、いくつかの兄弟団に掛け持ちで入る例も珍しくはない。

 ホアキムも小刀職人組合と掛け持ちをしている。


「お手柄だったじゃないか」


 老フオイヤが、ヨハンネス少年を褒めた。


「まあ、あの辺、傭兵崩れとか、本当にヤベェ奴はいねーからよぉ」


 そんな風に謙遜した少年だったが、どこか呆けた風情だった。

 どうかしたのか、と老女が尋ねた。


「あそこの連中、すげぇ臭んだよ……。前は全然そんなん思わなかったし、なんなら屋根付きのヤサに住んでて、うらやましいと思ってたのに」


「あんたも、すごい臭いしてたからね」


「わかってんだよ、んな事ぁ。俺はツイてた。でも馬鹿ヅキしたまま逃げられる奴なんざいねーんだ。絶対、胴元にハメられる」


 淡々と、少年は言った。


 それを聞いて、老女は少年の手を取った。

 手の甲を軽く叩く。


「大丈夫だよ。神様は、ちゃんとあんたのしてる事を、見ているよ」


 老女は、そう少年に言った。










(※)……刀や矢じり等の刃物による傷。

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