chapter 2: WAISTING LOVE(2)






 それから、一週間が経った。

 あの日以来、ヨハンネス少年は施療院を訪れていない。

 今日も、ぶな林でしばを刈っていた。

 焚き付けとして売って、幾ばくかの食べ物を得られないかという算段だ。


 その最中に、一人の老女に出会った。

 背が低く、小太りで、左手につえを突いている。

 比較的背筋は伸びているものの、に寄りかかるように歩いていた。

 頭に亜麻布を巻き付け、その上から飾り布をかぶり裾を首に巻いている。

 灰色の婦人服を重ね着しており、華美ではないが暖かそうだった。

 彼女も、右腕にしばを抱えて歩いてた。


 先に見つけた少年が様子を伺っていると、老女が転んだ。

 釣り合いを崩して、ゆっくり座り込むように倒れたので、怪我は無いように思えた。

 しかし、抱えていたしばは散らばってしまったし、老女自身も起き上がれないようだ。杖にすがるように、もがいている。

 少年は、落ち葉の積もる斜面を横切り、老女に近付いた。

 彼女がこちらを見て、自分を見て警戒する表情になったのを、少年は気付いた。若干、気分を害したが、まあ、仕方ない、と少年は思う。

 ゆっくりと歩み寄り、老女に手を差し出した。あまり清潔な手ではないが、それはしば刈りをしていた老女も同様だろう。


「どうぞ、お構いなく」


 気取った声で、手を取る事を老女が断った。少し気難しい人のようだ。


「立てねーんだろ?」


 少年は、差し出した手を戻さずに、揺すった。

 ためらった後、老女は結局手をとった。

 引っ張って立たせると、思いのほか重く、足を踏ん張らなければいけなかった。

 それから少年は散らばったしばを集め、老女に渡した。


「じゃ、これで」


 少年は、そういうと背を向けて立ち去った。

 一つ尾根を越えた向こうの斜面で、しば刈りを続けようと思った。

 背後で老女で礼を言ってたが、振り返らなかった。


 午後も遅くなり、少年はしば刈りを切り上げて、帰る事にした。

 尾根を越えたら、老女が先刻と同じ所に座り込んでいるのが見えた。

 寄って行って声をかけた所、膝を痛めて休んでいるとのいらえだった。


「ちょっと休んでれば良くなるから、気にしないでくださいまし」


 相変わらず気取った物言いだったが、その表情には弱気が隠せていなかった。

 少年は、老女の集めたしばと、自分の分をまとめて片手に抱えた。

 残りの手で、老女の手を引く。


「日が暮れんダロォ!? ちったぁ気張れや……」 


 老女は、右手を少年に引かれ、左手で杖を突き、よたよたと歩き出した。


「すまないねぇ、坊や」


 申し訳なさそうに、老女が礼を言った。

 口調も、崩れた。

 少年は老女の家の場所を尋ねた。

 老女の案内する通りに手を引いて歩く。

 時折老女が釣り合いを失うと、手を強く引かれる。

 その度に、手を持ち上げるように支えた。

 老女の手は小さく、しわだらけだったが暖かった。

 橋を越え、市門を越え、下町を抜けた。

 最後に着いた所は、聖ヘアーツ施療院だった。

 ここに住んでいるのかと問えば、そうだとの返事だった。


「ここで下働きのような事をさせてもらって、もう五十年になる。有難い事だよ」


「ハッ! 五十年とか笑ける……」 


 少年は、今は夕焼け空を切り取っている切妻屋根を見上げる。


 別れを告げて帰ろうとする少年の手を、老女は離さなかった。


「差し出がましいようだけど、あんた、帰る所はあるのかい?」


 自分の風体を考えると、恰好を付ける意味はあまり無いだろうと少年は思った


「ネグラならあるけどな。家っつーにはボロだけどよぉ」


「なら、あたしと一緒に来な。しばらくいられるように、口を利いてあげる」


 老女の誘いに、少年は首を横に振った。


「何故だい?」


 老女は手を離さない。

 少年は、言葉を探した。


「……俺ァ、知ってるんだ。うまい話には裏があんだ」


 少年は口を開いた。

 老女はうなずいて、先を促す。


「あそこの中庭には、ガキの骨が沢山埋まってるの、知ってんだ俺ァ。ヘンタイ司祭どもが親ナシのガキにヤラしー事して、証拠埋めてんのよ。あと病気の奴の血とか小便を井戸に流してるって」


 ヨハンネスは、一息にそう言った。

 老女は。そんな少年を呆れて見つめた。


「どこでそんな事を吹き込まれてるんだい? バカバカしい。ちょっと考えれば判るだろうに」


「バカじゃねーよ! みんな言ってんだぞ。何の得にもならねーのに、病人だの怪我人だの面倒見るなんて怪しすぎらぁ!」


「そうさねぇ。普通じゃないかもね。でも、裏なんて無いんだよ。皆、神様の御心に沿おうとしているだけなの」


「神様?」


「そうさ、神様はね、貧しい人や病気の人、孤児みなしごや後家さん、困ってる弱い人みんなを、神様を愛するように愛せって教えてくれてるんだ。だから街の皆が、自分の食い扶持ぶちの中から寄付してくれるんだよ。ねぇ、だからあんたも、助けてもらっていいんだよ」


 老女の説得に、少年はうつむいた。


 少年が黙っていると、老女は手を離した。

 

「でも、無理強いはしないよ。もしあんたが来たくないなら、引き止めない。どうする?」


 少年は、離れた老女の手を見た。

 見ている内に、目まいがした。

 自らの痩せ細った手足をチラリと見た。 


「……チッ。仕方ねーなぁ」


 舌打ちして、少年はそう言った。


 老女に連れられて、ヨハンネス少年は施療院の戸口をくぐった。

 お仕着しきせの袖なし上着を着た奉公人たちが、彼を見て、顔をしかめた。

 その視線に、少年はひるんだ。

 しかし少年が逃げる間もなく、彼らは少年を捕まえた。

 服を剥ぎ、井戸水を浴びせた。

 冷たさに震え上がる少年を、海綿でこすった。

 清潔な布で拭くと、亜麻の敷布にくるんで暖炉の前に座らせる。


「???」


 ヨハンネスが呆然としていると、やはりお仕着せを着た中年女性がやってきた。


「私は孤児舎監のベティーナ。君は?」


 少年が名乗り返すか返さないかのうちに、シーツがぎ取られた。

 中年女性は、薄荷はっかの葉が練り込まれた獣脂を少年の全身に塗り込んだ。


「ッザケンな! 何すんだ!」


「うるさい! こんなに全身ボロボロにしやがって! 毎晩これ塗るからな!」


 𠮟り飛ばされて、少年が目を丸くしているうちに脂塗りは終わった。

 清潔な亜麻の肌着が手渡された。

 少年は、その手触りに驚いた。


「肌着は水曜と土曜の夜に交換するからな。使い終わった肌着は、ここの大籠に入れておけ!」


 更に、木製のさじ、深皿、杯が手渡される。


「これはお前専用の食器。無くすな!」


 もう、少年は驚く事しかできない。

 食堂に連れて行かれた。

 塘蒿せろり茴香ういきょう、小麦粉の煮込み汁を食べた。

 野菜の香りの甘さと滋味に目を丸くする。

 その後、別の建屋の広間に連れて行かれた。

 木製の寝台がたくさん連なって並んでいる。

 どの寝台も板で囲われて箱状になっていた。

 よく乾いたわらが敷き詰められている。

 厚地の亜麻布を一枚与えられ、同じような年頃の少年と共に寝台に放り込まれた。

 人肌の温もりが思いのほか暑いほどで、この冬、はじめて熟睡した。











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