chapter 2: WAISTING LOVE(1)







 ホアキムと名乗った青年は、まず銀貨を返すよう要求した。

 ヨハンネス少年に否も応もなく、床板を外して銀貨を取り出す。

 銀貨を受け取ったホアキムは、腰を下ろした。

 大男が残していったろうそく行灯あんどんを床の上に立てる。


「ところで、どうやって財布をすった? 全く、気付かなかった」


 青年が尋ねた。少年は答えない。

 言葉を話せないのか、と問えば、違うと答える。

 少年は、年の頃は十ニ、三歳くらいだろうか。

 痩せ細り、汚れた浮浪児。

 ふて腐れて黙っているのではなく本当に途方に暮れているようだと、ホアキムは思った。


「では、もう一回、やって見せてくれ」


 青年は立ち上がった。

 太股ふとももの付け根ぐらいまで覆っている短衣の裾をめくる。

 取り返した巾着の紐を結びつけて、腰帯からぶら下げる。

 しばしヨハンネスはためらい、結局は巾着切りを再現した。

 勘所かんどころは、前腕の内旋ないせん、つまり内側にひねる動きを使って切る事だった。


「ああ、“ベッカー”の動きか……。こっちの釘は、自分で削ったのか?」


 ホアキムの問いに、少年はうなずいた。

 青年は、これを誰かに習ったのかと尋ねた。

 少年は、自分で考えたと答える。

 ホアキムは、ヨハンネスを繁々しげしげと見つめた。

 そして不意に寒さに気付いたように、両腕を抱えた。


「こんな所、ねぐらにしなくてもいいだろう。修道院や施療院なら、行き場のない奴の面倒を見てくれる」


「アァ? そんな所入れねーよ」


「なんでだ?」


「……俺ぁよぉ。アア……なんだ? 勝手に村抜けしてっから……」


 孤児の答えに、街の職人は顔をしかめた。


「それは、誰に言われた?」


「アァ? 誰だ? イエルクリング……」


 それを信じたのか?と尋ねる青年に、ヨハンネスは疑わし気な目を向けた。


「俺だってよぉー。教会とか色々行ったんだぜ? でも、どこでも追い払われったつーの」


 少年の言葉に、青年は、やるせない表情を見せた。


「祈る人たちは、そんな事は気にしない。三年前は、流行り病で大勢死んだ。中で病が広がるのを恐れたんだろう」


 ホアキムの言葉に、少年は、表情のない顔で彼を見た。


「聖ヘアーツ施療院だ。訪ねてみろ。僕は、そこの兄弟団で世話役みたいな事をしてる。話をしておくから、きっと悪いようにはしないはずだ」


 そう言い残して、ホアキムは立ち去った。

 しばらく待って、彼が戻ってこないのをヨハンネスは確認する。

 そして、膝から崩れ落ちた。

 盗人として腕の一つも切り落とされるかと覚悟していた。

 だが、どうやら青年の気まぐれで命拾いしたらしい。

 不意に、ひどく寒くて凍えている事に気付いた。

 たき火もないので、床の上に横たわって背中を丸めた。

 絶え間なく身体が震え、歯が鳴るので眠る事はできない。

 朝まで、耐えるしかない。

 震えながら、今夜起こった事を考えて過ごした。




 暁闇あかつきやみのうちに、ヨハンネスはぶな林に向けて歩き出した。

 吐く息が、白い。

 一番、寒い時間だ。

 粉屋の職人たちが現れるまでにまだ時間がある。

 しかし、ある程度の明るさが出たら身体を動かしたい。

 (※)を刈っていると日が昇り、夜気が緩みだした。

 ようやく人心地がついた気分になった。

 そしてどんぐりを、いくつか見つけた。

 この季節に残っているのは、かなり幸運だった。

 石で叩いて、殻を外して、実を食べた。


 それから、市門をくぐって街中に入った。

 市が立つ日ではないので、門衛もいない。

 ワケニッツ河畔沿いの市壁の近く、ごろつき小路こうじに向かった。

 とある酒場に入る。

 昼間からたむろするのは、繁忙期も終わった雇われ豚飼い、失業中の下男や女中、今日の仕事にありつけなかった荷役人夫といった人々。

 彼らの足元を擦り抜けて歩き、片隅に置かれたたるの影に座った。

 運が良ければ、酒場のあるじか女中が使い走りの仕事をくれる。

 しかし今日ヨハンネスが期待しているのは、そういう類の幸運ではなかった。

 一時いっときほども待っていると、幸運が訪れた。

 昨日、イエルクリングに蹴られていた取り巻きがテーブル席に座り、エールを頼んだ。仲間を一人連れている。

 少年が聞き耳を立てる中、無頼漢二人は、やくたいもない事を話していた。

 たが不意に声を潜めて、イエルクリングについてうわさ話を始めた。

 いわく、何人もの集団に襲われたとか、片手を斬り落とされたとか、そんな内容だった。

 どうやら、イエルクリングはリューベックの街から逃れたらしい。

 それを受けて彼らは、自らの身の振り方を考えている様子だ。


「イエルクリングの野郎が大枚引っ張れるなんて与太を抜かすから付き合ったら、このざまよ」


「地元の奴に聞いたら、あの施療院、相当に厄いだったんだ」


 一人が、うんざりした様子でエールを一気にあおった。


「あいつら、入院した病人を、兄弟団に入れちまうんだ。治れば、そりゃ御の字だし、死んでも手前らの墓地に葬ってくれるから、残った家族が感謝する。だから寄進が半端じゃない。でもよ、金があるって事は、腕の立つ奴を雇えるって事だ」


「あの抜け作は、それに気づかなかったのよ。ホアキムの野郎、あいつ相当、つかうぞ。遍歴職人でございなんて面してるが、ありゃ用心棒だ」


「おおよ。イエルクリングをっ付けたのも、多分あいつだ」


 そんな話を続けていた無頼漢の二人だが、最終的には街を離れる事にしたらしい。

 ヨハンネスは胸をで下ろしながら、酒場を抜け出した。






 少年は、くだんの施療院がある区画を訪れた。

 街の中心と外縁の中間辺り、職人街の横に、その施設はあった。

 赤い焼き煉瓦造で、鋭い三角の切妻屋根の建物が五つ連なっていた。

 平屋の部分が二階建て、屋根の部分は三階を含んでいて合わせて五階建て。

 窓には、陽光がきらめく硝子がはめ込まれている。

 巨大なのこぎりの刻刻ぎざぎざの刃が、背景の青空を切り取るような光景。

 少年は、圧倒された。


 敷地の外を回ってみると、いくつかの建物や塀が連なって外周を作っている。

 中庭や畑、墓地もあるようだった。

 出入口は複数あって、常に色んな人々が出入りしている。

 どこから垣間見かいまみても、清潔で、活気がある。

 とても病人が集まる所とは思えない。


 少年が呆然と施療院を見上げていると、背後の通りのパン屋から威勢の良い声があがった。

 朝一のパンの販売が始まる知らせだ。

 見れば、大きく開いた窓から三尺ほども売り板が道にせり出している。

 その上に乗せた籠に、パンが山積みにされていた。

 そして中に中年女性が立ち、焼き立てを求めて並んだ市民達が差し出す銀貨と、底が平たい半球形のパンを交換していた。

 パン屋の戸口からは、パンを満載した大きな籠を抱えた少女が出てきた。

 小走りに施療院の入り口の一つに駆け込んでいく。

 そして、空になった籠を抱えてすぐに店に戻ってきた。

 またパンを補充して、施療院との間を往復する。

 年の頃は、ヨハンネスより少し上だろうか。

 大青たいたいで染めた、ゆったりとした外衣。

 袖に洒落たぼたんが連なっている。

 要所に飾り布で補強が入っているので、暖かそうな毛織なのにすっきりとした見た目だ。

 彼女が近くを通り過ぎる度に、結われたお下げが麦穂のように揺れた

 微かに、パンの匂いがした。

 青い瞳だった。

 外衣の色は、この瞳と合わせているのだろう。

 そういう風に、少年は思った。

 もう一度、施療院の切妻屋根を見上げた後、少年は立ち去った。







(※)……山野に生える小さい雑木や、それを折って薪としたもの







※施療院外観イメージ:

https://www.youtube.com/watch?v=jzGkAW0_Rew&t=1s



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