第6話
もともとごく限られた人にしか知られていなかった今回の件は、主要取引先である徳川が関わっていることもあり、古賀の自主退職という形で落ち着いた。
三人しかいなかった秘書が一人抜けるとそれなりに痛い。新しい人を異動させようとするも、古賀のことがあったために慎重にならざるを得ず、一ヶ月経っても目処はつけられずにいた。
必然と残業・残業・早出の日々を送る羽目になっているが――
「おかえりなさい!」
「……ただいま」
鈴以上に忙しくしているのが織之助である。
打倒徳川に火がついた正成の勢いは凄まじい、らしい。口には出さないが目元に疲れが滲んでいた。
「夕飯作ってくれたんだな」
「それは……はい」
「ありがとう」
言いながら廊下を進み、織之助がコートに手をかける。
「あ、ちゃんとコートはハンガーにかけてくださいね」
「……わかってる」
先回りして声をかけると、決まり悪げに視線が逸らされた。
◇ ◇ ◇ ◇
夕飯を食べ入浴を終えて、今日は織之助に早く休んでもらうぞ、と意気込んだ鈴がソファに座る織之助の手を掴んだ。
「織之助さん」
「ん?」
「寝ましょう」
唐突な声かけに織之助は目を白黒させ、それからゆっくりと目を細めた。
その艶のある笑みにどこか落ち着かない気持ちに陥る。
「それは……誘ってるのか?」
低くて甘い声が悪戯っぽく訊いた。
試すような長い指に手の甲を撫でられて、心臓が飛び跳ねる。
「違います!」
赤い顔で叫ぶと、織之助は「冗談だ」と声を出して笑った。
からかわれたことに気づいて、思わず唇を尖らせる。
「ハハ。……おいで」
喉で笑い声を殺し、織之助が鈴の腕を優しく引いた。
膝の上に座らされてその距離の近さにまた心臓が大きく鳴りだす。
(……この体勢、好きなのかな)
思えばリビングに二人でいるとき、気づくとこの体勢になっていること多々ある。
向かい合うと唇がすぐ触れ合うのもいつものことだ。
何度か触れるだけのキスをして、織之助が顔を離した。
「鈴」
「……はい」
改まって名前を呼ばれ、鈴は首を傾げた。
やわらかな瞳は少し緊張しているようにも見える。
ちょっとだけ濡れた唇がゆっくりと声を発した。
「……結婚しようか」
ちっ、ちっ、ちっ、と時計の音がやけに大きく聞こえ――
「えっ⁉︎」
鈴が大きく体をのけぞらせた。
滑り落ちそうになったのを、織之助が手で押さえて事なきを得る。
わかりやすく動揺した鈴に対して、織之助は表情を変えずに話を続けた。
「いつ同じようなことが起きるかわからないだろう」
「いやいや……二度も三度もあることじゃないですよ……」
呆れ気味にそう返した鈴を見て、織之助が珍しくムッとした。
「……ほかの男がおまえを好きになる可能性はある」
「それもなかなか無い可能性ですね……」
ほかの女の人が織之助さんを好きになる可能性は高いけど、と心の中で呟く。
けれど目の前の瞳はまだ納得していないようだった。
こんな整った顔をして、それなり以上の収入があって、人当たりもよくて(食えない部分はあるけど)、いったいなにが不安なんだろう。
じっとこちらを見てくる垂れた目尻をそっと指で撫でた。
「……それに、私は織之助さんのことが好きなので……ほかの人は関係ないというか……」
さすがに恥ずかしくなって呟く程度の小声になる。
でも、自分の気持ちは素直に吐き出すと決めた。溜め込んでも良いことがないのは前世だけで十分思い知った。
ぎゅっと自分を奮い立たせるように織之助の肩に手を置いて、まっすぐに織之助を見つめる。
「織之助さん以外の男性をいまさら好きになるほうが無理です……!」
考えてみてほしい。
前世からずっと、四百年経っても変わらずに織之助のことが好きなのだ。
あのときと価値観も世界もまるきり違うのに、まるでほかの選択肢なんてないかのように織之助のことが好きで――。
「あの! この際言いますけど、私結構拗らせてますからね! 恋人になった織之助さんにどう接していいかわからなくなるくらいには拗らせてますからね!」
「――うん」
勢いよく言い切った鈴に、織之助が目尻を緩ませた。
そのまま後頭部を掴まれて唇がくっつく。ぴったりと隙間をなくすようなキスに鈴が小さく抗議の声を上げた。
「ちょ……織之助さん!」
「かわいい顔でかわいいことを言うおまえが悪い」
「なっ……、ん!」
その声を食うように唇が重なって、奥に引っ込んでいた舌が吸われる。
べろ、と分厚い舌でなぞられると全身から力が抜けてしまう。
好き勝手に動くそれを受け入れるしかできない鈴に、織之助が小さく笑った。
「いちいち照れるとこもかわいい」
唇を低い声がくすぐった。
けれどそれは一瞬で、またすぐに頭を溶かすほどの熱が咥内を荒らす。
うっかりこのまま流されそうになり――いや、付き合ってるから流されてもいいんだろうけど――なんとか自我を保って腕に力を入れた。
「待ってください! ほんとうに……! キャパオーバーです!」
持てる限りの力で肩を押して距離をとると、いつかと同じ文句を聞かされた織之助が眉を寄せる。
「そろそろ容量を増やしてくれ」
「殺生な……!」
半ば悲鳴のように叫んだ唇を織之助がまた塞ぐ。
ああもうキリがない、と鈴の表情に諦めが滲んだ――途端、織之助があっさり顔を離した。
「鈴」
目を白黒させる鈴に、織之助はやわらかく笑った。
「結婚しよう」
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