第3話
「あの資料……別に必要なかったんですよ」
「え……?」
言われて思い出す。
鈴が信吉と会ったのは、会議に必要だと思われる資料が秘書室に置いたままになってたから――
「責任感の強い土屋さんなら持ってきてくれると思っていました。……実際、あなたは応接室に来て信吉様と会った」
うっとりするほど綺麗な笑顔を浮かべた古賀に喉奥が引き攣る。
「信吉様はあなたに一目惚れをして――すべて思惑のとおり」
気持ちが昂ってきたのか、古賀の愉快そうな声は段々と音量を増した。
「あとは、義父上に頼むだけ。信吉様があの女に惚れてしまったから婚約を解消したい。代わりにこのデータを渡すから無理矢理でも信吉様とあの女を結婚させてほしい――」
そのときのことを思い出したらしい。
堪えきれず笑い声をもらした古賀にぞくりと背筋が凍る。
「大好きな信吉様のため、と言ったときの義父上の顔といったら。ひどく感動して頷いてくれました」
「……つまり、全部古賀さんが仕組んだんですね」
不当請求も、信吉との婚約話も。
確信を持って口にすれば、不穏な笑みが返ってきた。
「社長も副社長も徳川公との取引は慎重でした」
――それは、そうだろう。
徳川が関与するものに対しての緊張感は鈴にも覚えがある。
「でも秘書のことは信頼していたみたいですね。だから取引のデータを一部変えて義父に渡すのなんて簡単でした。こっちに残っているデータも全て改竄してしまえば、誰もわからない」
「そんなことをして……、なにが目的なんですか」
信吉のことが好きなら鈴との婚約を推すはずがない。パウロニアを潰したいならもっと他に方法がある。こんな回りくどいことをする理由はいったい。
訊いた鈴に古賀は迷いなく答えた。
「あなたの不幸」
これ以上ないほど憎しみのこもった声に言葉を失う。
鋭い視線を受け止めた体は油断すれば震えそうだった。
「社長があなたにここまで肩入れするのは想定外でしたけどね。会社の将来と天秤にかけたらすぐにでも頷くと思っていたのに……」
踵を横に引いて壁から背を離す。
思っていたより古賀は前世のことを覚えているし、自分に対して良い感情を抱いていない。
少しでも逃げ場は残しておきたかった。
「……正成さまは、昔からとてもお優しいお方です」
窺うように口を挟むと、古賀が眉をぴくりと動かした。
「――あなたのそういうところが大嫌い」
吐き出すような声は普段の冷静な古賀からは想像できないほど感情豊かだ。
ぐっと距離を詰めた古賀の怒りに燃えた瞳が鈴を映す。
「社長や副社長、専務に守られて、そしてそれを当然として受け入れている。愛される努力をしないで幸せそうにその立ち位置にいるあなたが大嫌い」
ひどい言い草に唇を噛んだ。
――そんなの。
「お言葉ですが!」
腹に据えかねて、つい語気が強くなる。
一瞬怯んだように古賀が唇を引き攣らせた。
「私は努力をしたし、幸せなことばかりじゃなかった……!」
家事や剣術、馬術。男の人らしい所作。全部織之助に拾われてから、努力をして身につけたものだ。
体には生傷が絶えなかったし、逃げ出したくなるときもあった。
「前世での私をなにも知らないまま断言しないでください」
愛されていないとは言わない。
(士郎さんも正成さまも、織之助さまも。私のことを大切にしてくれていた)
でも、それは無償の愛ではない。
命を削って織之助さまに仕えたからこその愛情だ。
その前世があって今がある。
「私は織之助さまのことが好きでした。だから、誰よりも長く生きて幸せになってほしかったから、私は水戸に行くのを頷いたんです」
握りしめた拳が震える。
織之助の命と自分の身柄を比べたらどう足掻いても後者を差し出すしかない。
別にそれは構わなかった。なんなら自分の首を差し出すことさえ厭わなかっただろう。
けれど――それを幸せとひとまとめにされたくはない。
「織之助さまのためになれたことを思えば、たしかに幸せだったと言えるかもしれないけれど――」
鈴がそっと目を伏せた。
「両親と死に別れて、拾われた先で男装をして、自分と周りを騙して。認められたと思ったらそばにいたくてしょうがなかった人と離ればなれになって」
それでもあのときは言えなかった。
好きだとも、離れたくないとも――、とても口には出せなかった。
「挙げ句の果て見知らぬ土地に着くや否や殺されて……。幸せだと思いますか」
なかったことにしたいとは思わない。
だけど同じ運命は繰り返したくない。
「だから、今世ではもうワガママになることにしたんです」
今はもう、気持ちを伝えてもそれを受け入れてくれる人がいることを知っている。
強くまっすぐ前を見据えて鈴が堂々と口を開いた。
「なにがあっても絶対あなたの思い通りにはさせない。織之助さまも、会社も、全部諦めません!」
言い切った鈴に古賀がぐっと声を詰まらせる。
「それに! 信吉さまが好きだと言うなら、なぜ私より先に信吉さまを狙ったんですか」
勢いのまま捲し立てた鈴は、古賀が右手に何かを忍ばせたことに気づいていない。
「自分のことしか考えてないのはあなたのほ――」
「こ、この――――っ!」
激昂した右腕が大きく振り上げられる。
鈍く光ったのは、と認識するより先に強い力で腕を引かれた。
「……気は済んだか」
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