第2話




「古賀さん」


 呼ぶと、艶やかな黒髪を揺らしてその女性は振り向いた。


「土屋さん。今日は社長と外出では?」

「急きょ予定が変わりました」

「……そうですか」


 あれから三日。徳川と約束した期限はちょうど今日である。

 本当であれば鈴も正成とともに徳川ホールディングス本社に赴く予定だったが、古賀ではない先輩に代わってもらった。

 正成にも織之助にも伝えていない。

 伝えたら止められるのはわかりきっている。けれど、どうしても正面から確かめたかった。

 だからあとで怒られるのは百も承知で、無理を言って代わってもらったのだ。

 すべて、ここで終わらせるために。


「……古賀さん」


 緊張を握り込んでその切れ長の瞳をまっすぐに見る。

 相変わらずはっとするほどの美しい顔が鈴の視線を受け止めた。


「私、あなたのことを思い出しました」


 はっきり告げられてなお、古賀の表情は変わらない。

 鈴はなるべく感情を見せないよう静かに言葉を続けた。


「あなたは信吉さまの……御正室であられた」

「……それがなにか」


 古賀は否定しなかった。

 けれどあまり触れられたい話題ではないのだろう。ほんのわずかに眉が寄せられた。


「あなたに会ったことがない織之助さまや正成さまが気づくわけがない」


 古賀の視線が一瞬だけ鈴から外れる。

 その一瞬を鈴は見逃さなかった。

 ――やっぱり気づかれていないのは古賀さんもわかっていた。


「けれど私は覚えています。会ったのはたった一日、一瞬でしたが――最期に見た顔があなたでした」


 そこまで伝えると、古賀は諦めたように目を伏せた。


「……思い出したんですね」

「はい。すべて」


 間髪入れずに頷けば、古賀は視線を上げて怖いくらい綺麗な笑顔を貼り付けて鈴を見た。


「仰るとおり私は信吉様の正室で、そして――あなたを殺した」


 はっきり言われて鈴が言葉に詰まる。

 

(古賀さんは、全部覚えている)

 

 早鐘を打つ心臓を耳に聞きながら、乾いた喉で無理やり唾を飲み込んだ。

 古賀が何か懐かしむように目を細めて口を開いた。


「……信吉様はお優しい方でした」


 思い出話をする穏やかな声色が静かな秘書室に響く。


「幼くして政略結婚をしましたが穏やかで楽しい生活を送っていました。子宝にこそ恵まれませんでしたが――とっても幸せだった」


 ふふ、と小さく笑った古賀の表情が一瞬で無に変わった。


「あなたが、信吉様を誘惑するまでは」


 憎悪と侮蔑が鈴を刺した。

 誘惑なんてしていない、と口を開くことさえ許されない。強い悪意だ。


「あなたに会ってから信吉様は、私のことなど忘れてしまったかのように毎日あなたを夢想していました。……あなたが水戸に来ると知った信吉様の喜びようは言わなくてもわかると思います」


 古賀は一息ついて、まっすぐ鈴を睨みつけた。


「そんなあなたが憎くて、憎くて――」


 背筋にぞくりとした冷たいものが走る。

 こんなに大きな負の感情を向けられたのは初めてで、思わず一歩足を引いた。


「あなたが秘書室に来た瞬間、すぐにわかりましたよ」


 開いた距離を積めるように古賀が一歩踏み出す。


「ああ、この女。相変わらず憎たらしい顔をしている――と」


 踵が壁に触れ、これ以上退がれないことを悟った。

 いつのまにか追い込まれた形になっている。


「社長の古い知り合いだと言い、社長秘書に成り上がって副社長や専務にも気にかけられている」


 冷酷さを滲ませて迫る古賀に、鈴は唾を飲んだ。

 握り込んだ爪が手のひらに食い込み、その痛みで冷静になる。


「愛されて当然という顔で、全部奪っていく」


 視線を逸らしたら負けだ。

 真っ黒な悪意を正面から受け止めるのは辛い。けれど、ここで逃げたらなんの意味もなさない。

 歯を食いしばった鈴に、古賀は試すように口を開いた。


「あまりに腹立たしかったので、最初はあなたが明らかに好意を寄せている副社長を奪ってやろうと思いました」

「え」


 予想外の方向に話が行き、思わず声が漏れた。


(いや、ここ引っかかるところじゃないんだろうけど!)


 まさか古賀にまで見抜かれてるとは。

 じわじわと頬に集まる熱をなんとか無視して、目の前の古賀をまっすぐ見据える。

 古賀は相変わらず淡々として話を進めた。


「けれど、副社長は簡単に靡いてはくれなかった。――だから、あなたに信吉様と会ってもらいました」


 その言い方に漠然とした疑問を抱く。

 まるで、古賀が引き合わせたような口ぶりだ。

 そう考えたのが伝わったのか、古賀は唇の端を持ち上げて薄く笑った。


「あの資料……別に必要なかったんですよ」





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