五章
第1話
――振り上げられた刃先が鈍い光を放つ。
その光が隣に向けられたのを確認したのと、体が動いたのはほとんど同時だった。
咄嗟に抱きかかえるように隣の人物を庇った。
瞬間、感じたことのない痛みが背中に広がる。
一度、二度と、体を裂くような鋭い痛みが背中を刺して指先を震わせる。けれどいまここから退くわけにはいかない。
最後の力を振りしぼって背後に視線を向けた。
ぼやける視界に映ったのは、悪意に満ちた、女の顔と艶やかな黒髪――
ハッとして起き上がると窓の外はまだ暗かった。
真冬なのに全身から汗が噴き出ている。
(全部――、全部思い出した)
桐城でのこと。徳川とのこと。水戸でのこと。――自分が死んだ理由。
心臓の音が耳のすぐ近くで聞こえてくる。
なんで今まで忘れていたんだろう。
指先が震えて、冷えていく。
「ん……すず……?」
鈴があまりに勢いよく起き上がったからか、織之助が目を擦りながら寝ぼけた声で呼んだ。
「織之助さん……」
「うん……?」
動悸は未だ止まない。
冷たくなった指を握り込めば、そのただならぬ様子に気づいた織之助が上体を起こした。
「今の会社で前世からの繋がりがある人って、正成さまと士郎さんと雪――ですか」
織之助のほうを見ず、宙に目を向けたまま鈴が訊く。
「把握してるのはそうだが……」
寝起きで状況も理解できていないだろうに、織之助は文句一つ言わずその質問に答えた。
「徳川公と、信吉さま……」
「鈴? どうした」
ぶつぶつと言葉をこぼす鈴の肩を織之助が引いた。
覗き込まれて、ようやく視線が絡んだ。
「私……前世でのこと、全部……思い出して」
ハッとした織之助の瞳が揺れる。
鈴はまだなにか考え込んでいるようだった。
「織之助さんと正成さまでも気づかない……」
――そうだ。だって。
「会ったことないから……」
だからわかるはずがない。
雪広の変わりようには気づけても、顔のわからない相手を見抜くなんて無理だ。
(会ったことあるのは私だけなんだから)
「――今回の件、関わっている人がわかったかもしれません」
「え?」
◇ ◇ ◇ ◇
「なんだと?」
「思い出したんです!」
挨拶もそこそこに社長室に突入した鈴は、その勢いのまま正成に詰め寄った。
一歩遅れて入ってきた織之助がドアを閉めつつ「落ち着け」とひと言鈴に添えた。
もっとも、鈴にその声は聞こえていなかったが。
「……本当に思い出したのか?」
「えっ、そこ疑うんですか⁉︎」
眉間に深い皺を刻んだ正成から怪訝そうな視線が注がれる。
まさかこんな序盤も序盤でつまづくとは思っていなかった。
思いがけない展開に緊張していた表情筋が緩んで情けない顔になってしまう。
「ええ……こんな真面目なときに冗談言えるメンタル私にはないですよ……」
勢いを削がれた鈴に、正成は誤魔化すように咳払いをした。
「それで――、その怪しいヤツっていうのは」
一瞬で真面目な空気が戻り、鈴も表情を引き締めて頷く。
「信吉さまの御正室です」
静かな社長室に鈴の声が響いた。
その答えは正成も一度は考えたことがあったのか、首が縦に振られるより先に「いや」と否定の声が飛んできた。
「信吉殿は婚約解消したらしいぞ」
「……婚約してらしたんですか」
「ああ。だが、鈴と信吉殿が会った直後から婚約解消の話が出ていたらしく――」
「なら、余計に怪しいです」
言い切った鈴に正成は少し思案して、それから意を決したように言葉を紡いだ。
「……おまえが知っているかは知らないが、前世でその正室は鈴を刺したあと信吉殿を刺し、最後に自害をしたそうだ」
それは知らなかった。
ひゅっと喉を詰まらせた鈴を窺いながら正成が続ける。
「それに彼女はまず信吉殿を狙ったと聞いている。心中するつもりだったんだろう――こちらに危害を加えるとは思えないが」
今世でも信吉殿に刃を向ける可能性はあるかもしれないけどな、と正成が付け足した。
たしかに、当事者じゃなければ自分もそう思っただろう。
――けれど。
「いえ……多分、信吉殿を刺したあとで私のことは殺すつもりだったと思います」
でなかったら、あの悪意のこもった表情に説明がつかない。
「それに、私その人から『背後に気をつけろ』と言われたんです」
鈴の告白に正成と織之助が息を呑んだ。
――あのとき悪寒を感じて胃が痛んだ理由は、彼女から黒い感情が滲んでいたからだと今ならわかる。
「会ったのか」
硬い声で訊いた正成に迷いなく頷く。
やっぱり正成も気づいていない。
「はい。だから、雪にその人を調べてもらいたいんです」
約束まではあと今日含めて三日。
雪なら三日もあればきっちり調べ上げてくれるだろう。
「多分――不当請求が虚偽だという証拠も持っていると思うので」
まっすぐ告げた鈴に、正成は強く一度だけ首を縦に振った。
「わかった。……で、その口ぶりだと身近に犯人がいるようだが」
「はい。……正成さまと織之助さんのほうがよく知ってると思います」
今世だけでいえば自分よりも付き合いが長い。
顔を知らないからこそ、そばにいても気づかれなかった。
「前世で信吉さまの御正室であられたのは――」
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