5.




 訃報を持ってきたのは雪広である。

 珍しく硬い口ぶりは、その報せの重たさゆえか。

 

「信吉殿が……」

「はい。九月十一日にお亡くなりになったそうです」


 それは鈴が水戸に着いた日と同じだった。

 正成が息を詰まらせ、織之助もぎゅっと拳を握りしめた。

 不謹慎ながら、それならきっと鈴はまだ信吉に肌を許していなかっただろうと考えて安堵してしまう。

 どれだけ割り切ったなどと言っても、やはり好きな女がほかの男に身を預けるのは耐え難い。

 しかし、輿入れして間も無く相手が亡くなったとなると――


「……もうひとつ」


 鈴の身の上を案じていると、雪広が頭を下げたまま感情を見せない声で付け足した。


「信吉様のご側室である鈴様も……同日にお亡くなりになりました」


 物音がすべて消えた。

 指の一本も動かせない。

 上下左右、今自分がどこにどういう状態でいるのかもわからなくなった。

 いま雪広がなんて言ったのか、織之助も正成も理解できずにいる。


 いったいどれくらい時間が経っただろう。

 誰もなにも言わず、凍りついたように固まっていた時を動かしたのは正成だった。


「なにを言って……」


 絞り出した声が震えている。

 雪広は頭を上げない。

 

「そ、れは間違いないんだな……? 確かに鈴が……」


 死んだのか、と正成は最後まで口にできなかった。

 織之助の握っていた拳から力が抜ける。

 鈴の明るい笑顔を見送ったのはついこのあいだのことだ。それからまだ一週間も経ってない。

 この腕に抱いた細い小さな体の感触は、たしかに覚えているのに。

 ――死んだ、など。悪い冗談にもほどがある。

 脳が理解するのを拒否して働こうとしない。

 ようやく顔を上げた雪広が重たい口を開いた。


「はい。……鈴様は、信吉様を庇ってお亡くなりになったそうです」


 感情を乗せない話し方が逆に刺さる。

 事実だけを告げている、というのがよくわかるから痛い。


「どういうことだ」


 正成が先ほどよりいくらかはっきりと訊いた。だが、その声はまだ少し掠れていて内心の整理はついていないことが窺える。


「信吉様の御正室の悋気でございます」


 雪広は相変わらず淡々として質問に答えた。


「信吉様と鈴様が床入りされた際に、無理矢理押し入った御正室の方が持っていた短刀を信吉様に向け――それを鈴様がお庇いになったのです。背中を執拗に刺され……そのまま……」


 さすがに堪えたのか語尾を濁した雪広は、仕切り直すように少し間を取ってから再び声を繋いだ。


「その後、信吉様も刺されてお亡くなりになったそうです」


 鈴の小さな少し骨の浮いた背中を思い出す。

 腕や脚は傷だらけなのに対して、背中だけは白く綺麗なままだった。

 それを見てどこかほっとしたのは、ついこの間のことなのに。


「警備や……見張りのものは……なにをしていた……」


 正成の問いに、一瞬雪広が気遣うような視線を織之助へ向けた。

 今の織之助はそれにさえ気づけない。


「……初めての夜は誰にも邪魔されたくないという信吉様のご意向で、周りには誰もいなかった……と」


 ぐっと眉間に皺を寄せた正成が苦しげに「それで」と吐き出した。


「その正室やらはどうしている」

「自害したそうです」


 ――そうか、自害したのか。

 敵を討ってやることもできないのか。

 

「……わかった。下がっていい」

「はっ。失礼します」


 最後に頭を下げて、雪広が音もなくこの場を後にする。

 部屋には正成と織之助の二人だけになった。


「織之助」


 正成が静かな声で呼びかけるも、織之助は未だひと言も発することができない。

 声の出し方を忘れてしまった錯覚にさえ陥る。

 

「織之助!」

「……は」


 叱責するように呼ばれて、ようやく織之助が掠れた声で返事をした。

 

「あとを追おうなんて考えてないだろうな」


 正成の厳しい視線が織之助を刺す。

 ――あとを追う、なんて考えていなかった。いや、そこまで思考が追いついていないと言ったほうが正しい。


「申し訳ありません……、いまは、なにも……」


 脳みそが空っぽになったかのように動かない。

 拳を握っているのかいないのか。自分は今座っているのか立っているのか。なにを見ているのか見ていないのか。全部が曖昧で――

 

「……いや」


 正成が大きく息を吐いて天を仰いだ。

 それきり織之助も正成もなにも言わず、ただただ無言の時間だけがいたずらに過ぎていった。


 




 その二日後。

 鈴の遺品として織之助の元に届けられたのは深い青色をした打掛だった。

 側室扱いなので結婚式こそ行わないものの、豪勢な祝宴は開かれたらしい。その宴で鈴が着ていたのがこの打掛だったという。

 側室として迎えられたとは思えないほど丁重に扱われたことが窺えて安堵する――はずなのに、その後に起こった惨劇がすべてをかき消す。


(……本当に、もういないのか)


 結局贈ったこの打掛を着ているところを見ることはできなかった。

 きっとよく似合っていただろう。ずっとそばで鈴のことを見ていた自分が選んだんだから間違いない。

 

(――……鈴)


 なぜあのときもっと引き止めなかった。

 鈴を差し出す道以外にもなにか方法があったかもしれないのに、なぜ食い下がらなかった。

 問答無用で自分の腹を掻っ捌いていれば――鈴が死ぬことはなかったんじゃないか。

 今更すぎる後悔を胸の奥に押し込んで目を閉じる。


 小袖を着て無邪気に町を歩いていた鈴の姿だけが、瞼の裏から離れてくれなかった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る