4.
その日は清々しいほどの晴天だった。
昨日の雨の名残も感じさせない青空を、織之助は執務室の窓からそっと見上げた。
初めて同じ褥で寝た体温はまだ肌に残っているのに、執務室に鈴の姿はない。
朝から城内のいろいろな人に挨拶してまわっていた鈴は、いま女中の手で化粧を施されている。
今日は仕事も立て込んでいないため、なんとなく手持ち無沙汰でぺらぺらと本を捲っていると、部屋へ近づく足音が聞こえてきた。
「織之助」
「……士郎」
珍しく静かに襖を開けて部屋に入ってきたのは士郎だった。
普段からそうしろ、と苦言を呈す前に士郎が口を開いた。
「鈴の準備終わったらしい。確認してこいよ」
「俺が?」
「他に誰がいるんだ。いいから早く行けって」
ずかずか歩み寄った士郎に腕を掴まれて半ば無理やり立たされる。
「最後くらいちゃんと言いたいこと言ってこい」
ドン、と強い力で胸を押され、声に詰まった。
「織之助は鈴に関して本心を言わなすぎなんだよ」
付き合いが長い士郎からの指摘はかなり痛かった。
◇ ◇ ◇ ◇
執務室から追い出された織之助は鈴が準備をしている部屋の前に立っていた。
強引なやり口だったが、檄を飛ばしてくれる友人の存在には感謝したほうがいいかもしれない。
そんなことを思いつつ、微かに滲んだ緊張を指ごと握り込んだ。
「鈴」
「……織之助さま?」
襖越しに声をかけると、中からぱたぱたと足音が聞こえる。
こちらが返事をするより先に目の前の襖が開かれ――満面の笑みが織之助を出迎えた。
化粧の施された顔は普段よりずっと大人に見えて、心臓が跳ねた。
思わず見惚れてしまうほどには――
「……綺麗だな」
つい口から正直な感想がこぼれたのに対して、鈴は真に受けていないのかからりと笑った。
「あはは、織之助さまが褒めてくださるなんて。女中さんの手腕すごいですね」
昨日呉服商の男に褒められたときは照れていたくせに。
なんともない顔で部屋の中に促す鈴に小さく嫉妬心が湧く。
後ろ手で襖を閉めて、改めてその着飾った姿を見下ろした。きょとんとして薄く開いた鈴の唇には紅が引かれている。
「……鈴はいつも綺麗だ」
「へ」
見慣れない紅を掠め取ってやりたい衝動を堪えながら告げた言葉に今度こそ鈴が顔を赤くした。
ああ、そうだ。その顔が見たかった。
自然と手が伸び、熱を持ったやわらかい頬を包む。
「自信を持て。おまえは俺が――」
――惚れた女だ。人間としても、女としても。
心の中では言えるのに声にできない。してはいけないと何かが歯止めをかける。
唇を噛んだ織之助を鈴が不思議そうに見た。
「織之助さま……?」
その大きな瞳に自分の情けない顔が映って思わず苦笑いがこぼれた。
困らせるようなことは言いたくない。
結局、口をついて出たのは当たり障りのない言葉だった。
「いや。……向こうに行っても健やかにな」
うまく笑えているだろうか。
主人の顔で、上役の顔で。
「……はい。織之助さまも」
頷いた鈴が眉を下げて笑う。
長いまつ毛が一度伏せられて、それからなにか踏ん切りをつけたように織之助を見上げた。
「三食きちんとご飯食べて、しっかり睡眠をとるんですよ。あとお片付けもちゃんと……っ!」
言葉途中でたまらなくなって鈴を思い切り抱き寄せた。
腕の中で鈴が息を詰めたのを感じて胸が軋んだ。
「鈴」
(好きだ。愛してる。手放したくない。ほかの男のところになんて行くな)
細い腰を抱く手に力が入る。
慣れない白粉の匂いが鈴の匂いを消して、それがひどく苦しかった。
(そばにいろ。――いてくれ)
とめどなく溢れてくる想いを必死に胸の奥に抑えつける。
「……幸せになれ」
なんとか絞り出した声が掠れた。
「――……はい。織之助さまも……」
耳元で鈴が頷く。そのやわらかい声に心が壊れそうなくらい痛んだ。
言いたいことを言えと発破をかけられてなお、全部を曝け出せない自分が情けない。
背中にまわされた手だけが昨日と同じで優しかった。
◇ ◇ ◇ ◇
そうこうしているうちにあっという間に時間は過ぎ、赤く燃えるような陽が町を照らす頃。
「鈴……うう、元気でな……! 文を書いてくれよ!」
見送りに来た士郎がだばだばと涙を流しながら鈴の両手を握る。
つられて涙目になった鈴は、寂しさを断ち切るように繋いだ手を思い切り上下に振った。
「士郎さん……もちろんです! たくさん書けるだけ書きます!」
名残惜しさを感じつつ士郎の手を離した鈴にすかさず声をかけたのは正成だった。
「あんまり暴れて追い返されないようにな」
言われて鈴が目を吊り上げた。
「暴れませんっ。それはもう立派に一人前の女性として振る舞いますから」
「できるのか?」
「でき……やってやります!」
ここで「できる」と断言しないあたりが鈴らしい。
正成も同じように思ったのか、喉を鳴らして笑った。
そのあとも見送りに来たいろいろな人と挨拶を交わした鈴が、最後になってようやく織之助と向き合った。
騒がしかった辺りが一気に静かになり、視線が二人に集まる。
「織之助さま」
凛とした声が織之助を呼ぶ。
その声に視線で応えた織之助へ鈴が深々と頭を下げた。
「お世話に、なりました」
寂しさを煽るように冷たい風が二人の間を吹き抜ける。
夏の終わりを告げる温度に織之助が目を細めて、ゆっくり口を開いた。
「……ああ。息災でな」
顔を上げた鈴の唇が何か言いたげに歪み――やがて吹っ切ったように弧を描く。
「はい! 織之助さまも、どうかお体は大事になさってくださいね」
明るい笑顔はいつもの鈴で、安心したのと同じだけ切なくなる。
きっとこうして気軽に話す機会はもう二度とない。
諦め悪く視線を逸らせずにいたのを、断ち切ったのは鈴だった。
「それでは、行ってまいります」
もう一度頭を下げて、鈴が板輿に乗り込む。
城門前に焚かれた篝火の赤が夕陽の赤と混じって境がわからない。
涙は出ないが、喪失感ばかりが胸を満たす。
夕暮れの中に消えるその行列の、最後尾が見えなくなるまで動けなかった。
――訃報が届いたのは、それから間もない九月十三日のことである。
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