3.
近い距離で見えた織之助の顔が苦しそうで、息が詰まる。
何も言わない。何も言えない。
雨の冷たさが握られたままの手の熱さを浮き彫りにして、けれどその手もやがてどんどん冷えていく。
長いまつ毛に縁取られた垂れ目がまっすぐに鈴を映して離さない。
無言のまま見つめ合ってしばらく。
雨音と心音だけの世界で、やはり言葉を発さない織之助が手を引いた。今度はそれに逆らわず足を踏み出す。
お互い何も言わずに屋敷まで雨のなかを歩いた。
ずっしりと重くなった着物のせいで歩幅が狭くなる。いつもだったら歩調を合わせてくれる織之助が、今日はどんどん先に行ってしまう。
手を握られているせいで半分引きずられるような形になった。
――なにか怒ってる?
髪の先から雨が跳ねるのを感じながら、鈴はただひたすら織之助の背中を追いかけた。
屋敷に着くや否や、織之助は鈴を強引に自室へ押し込んだ。
ぽたぽたと着物の裾や髪から滴る水が畳に吸い込まれていく。
手拭いかなにかで拭かないと畳がだめになってしまう。
慌てる鈴をよそに、織之助が繋いでいた手をぎゅっと確かめるように強く握りしめた。
「鈴」
呼ばれて上を向き、ぽたり、と織之助のまつ毛から雫が落ちたのを確認する――よりはやく、唇に温かさが重なった。
驚いて顔を引こうとした鈴の後頭部を大きな手が掴み、より深く唇が合わさる。
腰を引き寄せられて濡れて張り付いた着物越しに織之助の体温を強く感じてしまう。
苦しい。うまく呼吸ができなくて、苦しくて、胸が痛い。
「っ、は……」
息を吸い込むために薄く開いた口に、織之助がすかさず舌を滑り込ませた。
分厚い舌が咥内を遠慮なく這い、くぐもった声が堪えきれず漏れる。
雨の音ではない水音が耳いっぱいに響き、鈴はぎゅうっと織之助の着物を掴んだ。
――もう、気の迷いでもなんでもいい。
必死に背伸びをして応えようとする鈴を、織之助が目を眇めて見た。
「鈴」
それは、今まで聞いた中で一番強くて切ない響きだった。
鼻先が触れたまま確かめるように呼ばれ、鈴はゆっくりと頷いてその大きな背中に腕をまわした。
冷たい布の感触の中に熱さを感じとって胸が軋む。
「織之助さま……」
自分の口から出たとは思えないほど甘えた声に、織之助がぐっと腰に置いていた手に力を込めた。
近距離で絡まった視線が熱を生む。
冷えた体を温めるように身を寄せ合い、再び唇を重ねた。
もう、少しの隙間も作りたくない。
後頭部を掴んでいた冷たい指が鈴の頬を撫でて、首筋をなぞる。そのまま衿を開くよう動いた手に抵抗せず身を預けた。
滑り込んだ手の冷たさに体が震える。
「あ……」
するすると慣れた手つきで細帯をほどかれ、素肌が外気に晒された。
その間も口づけは止まず、擦り合わせた舌の熱に頭がぼうっとする。
全部、初めての経験だった。
痛いくらいに高鳴る胸も、深く深くを求めるような口づけも、その先を期待するように体が疼くのも――。
「鈴……!」
強く名前を呼ばれて思わず泣きそうになる。
離したくない。離れたくない。ずっと、ずっとそばでお仕えしていたい。
いつか織之助さまがほかの誰かと結ばれても、そばにいられればそれだけでいい。
――水戸になんて行きたくない。
「織之助さま……っ」
応えるように名前を呼んで、そこからはあっという間だった。
◇ ◇ ◇ ◇
最初の口づけはほとんど衝動的だった。
鈴から水戸の話を聞きたくなくて気づいた時には唇を重ねていた。
初めて触れた鈴の唇は温かくてやわらかくて、――今まで抑え込んでいたものが溢れ出すのを感じた。
その後の記憶はあまりない。
ただひたすら鈴が欲しかった。
縋り付く小さな体を力いっぱい抱いて、隙間をなくすように肌を重ねる。
(好きだ)
ありったけの想いを込めて唇を奪った。
――好きだった。きっと、ずっと前から。
蓋をして押し込めていた気持ちが喉から出かかる。
(……今さら伝えたところで鈴は)
考えて手に力が入った。
誤魔化すように腰を動かせばそれに合わせて鈴が甘く啼く。
誰にも聞かせたくない。触らせたくない。自分だけのものにしたい。
「鈴……、鈴」
「は、ぁっ……おりのすけ、さま……」
雨と涎と涙とで顔をぐちゃぐちゃにした鈴の腰を掴んで、奥深くを抉る。
いっそ孕んでしまえば。
乱暴な欲が脳をちらつき、それを抑える術もない。
「鈴、くそ、孕め……孕んでしまえ……っ」
「まっ、あぁっ、ん、……ま、って……!」
最低なことを口走り、けれど隘路はそれを受け入れるようにわななく。
もう取り繕う余裕もなかった。
鈴の唇を吸いながら一番奥めがけて腰を振る。
いや、とも、うん、とも言わない鈴の腕が背中にまわり、それだけですべてを赦された気持ちになる。
(滑稽だ)
決して手に入れることのできない女に溺れて、一度だけの温もりにすがりつく己が――ひどく滑稽で痛々しい。
重ねた唇からこぼれる甘い声を食らう。
救いようのない畜生だと熱くなった頭で思いつつ、腰を深く押し付けて一番奥に欲を吐き出した。
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