2.
「あっ、見てください! おいしそうなお饅頭!」
「さっき昼飯食べたばかりだろう……」
「別腹ってご存じないですか?」
昼餉を屋敷で済ませたのち、鈴は初めて娘姿で城下町に繰り出した。
さすがに打掛を着て町を歩くのは難しいので、打掛には留守番をしてもらっている。
それでも初めて着た女性用の小袖は鈴の心をめいっぱい弾ませた。下ろした髪は肩をすぎるくらいしかないけれど、なんだかただの女の子になったみたいで楽しい。
見慣れた町並みがまったく違うように見えて、自然と歩調がはやくなった。
楽しんでいることは織之助にもよく伝わったのだろう。
瞳を輝かせて饅頭を指差す鈴に、織之助が頬を緩めた。
「……食べたいなら買って行くか」
「えっ、だい、大丈夫です!」
本当に食べたかったわけではない。
ただ織之助と町を歩くことが楽しくて、少しはしゃいでしまっただけだ。
急に引き下がった鈴を織之助は眉を顰めて見た。
「別腹はどうした」
「いえいえいえ、本当に! あっほら、あそこに織之助さまの好きな――」
誤魔化すように別のほうを指差して足を向けると、不意に手を引かれた。
驚いて言葉が止まり、思わず織之助を窺う。
ひとまわり大きな手が鈴の手をぎゅっと強く握り締め、その手の熱さに心臓がどくんと跳ねる。
織之助は見たことないくらい優しい顔をしていた。
「ふらふらするな。迷子になるぞ」
「なりませんよ! 信吉殿じゃないんですから……」
高鳴る心音を誤魔化すために慌てて口を開いて、――間違えた。
織之助の表情が強張り、手にいっそう力が入る。
弾んでいた気持ちが一瞬で萎んだ。
なんで信吉の名前を出してしまったのか。悔やんでも遅いが、できることならやり直したい。
漂い始めた重たい空気をどうしようかと思っていると、道の向こうから初老の男性が大きく声を張った。
「橘様!」
「ああ……呉服商の」
霧散した嫌な雰囲気に安堵しつつ、近寄ってきた男性に目を向ける。
男性は織之助のそばまでくると頭を下げた。
「先日は誠にありがとうございます」
「いや」
先日とはいったい。
織之助を窺うと、「大したことじゃない」とはぐらかされた。
思わずむっと口を尖らせた鈴に、男性が気づいて微笑んだ。
「おや、随分とかわいらしい方をお連れで」
「えっ」
お世辞だろうが、ここまで直球で褒められる経験はなかったので顔に熱が集まる。
男装しているときに士郎が「かわいい」だの「べっぴんさん」だのとからかってくることはあったけれど、娘姿を褒められるとなんだか胸の奥がくすぐったくなった。
「……そうだろう」
「ええっ!」
照れ照れしていると、織之助がおもしろそうに笑いながら首を縦に振った。
まさか肯定されると思っていなかった鈴はますます顔を赤くして視線を下げる。
繋いでいる手が目に入って、余計に熱くなった。
「随分と仲がよろしいんですなあ。ああ、先日のご注文はこの方に……?」
「まあ、そういうことだ」
「なるほど」
微笑ましいといった様子で織之助と鈴を見比べた男性の言葉にまた少し照れてしまう。
「さっそく小袖のほうは着ていただいているようで……よくお似合いです」
「あ、ありがとうございます」
やっぱりひとりの女性として褒められるのは慣れない。
もうさっきから照れっぱなしで、変な汗をかきそうだ。むしろもうかいているかも――と鈴が手で顔を扇ぐ。
男性がにこりと笑って、鈴のほうに顔を寄せた。
「……奥様にひとつ」
「おくっ」
(奥様⁉︎)
織之助には聞こえていなかったようで、声をひっくり返した鈴を不思議そうに見ている。
鈴はへらっと誤魔化し、男性のほうに耳を傾けた。
「男性が着物を贈るのには意味がございます」
ぽつりぽつり、とこぼされる声を聞き逃さないように聴覚に意識を向ける。
「色打掛は婚家での生まれ変わる、というのもございますが――」
その先に続いた言葉を聞いて絶句。
(いやいやいやいやいや……!)
顔を真っ赤にして首を横に振った鈴を織之助が訝しげに窺った。
「なにを話してたんだ?」
「いっ、いえ! なにも!」
慌てる鈴に織之助はいっそう眉間のしわを深くした。
そんな顔をされても、こればかりはとてもじゃないが口にできない。
(ぬ、ぬ、脱がせたいとか織之助さまが思っているわけないし……!)
想像しかけて再度思い切り首を振る。
暑すぎてどうにかなりそうだ。男装しているときも織之助とそういう関係を揶揄されたことはあったが、そのときよりもずっといたたまれない。
頭を沸騰させた鈴に、男性がぺこりと頭を下げた。
「それでは、私はこれで」
言うだけ言って男性はそそくさといなくなってしまう。
その背中が小さくなった頃、織之助が繋いだままの手を引っ張った。
「せっかくだから、おまえが行きたいところ行こうか」
優しい笑顔に胸がぎゅっとなる。
「はい!」
織之助といるならどこでも楽しい。
嘘偽りない姿で織之助と歩くことができるなんて思っていなかったから、余計に。
繋いだ手を離さないまま、あっちへ行ったりこっちへ行ったり。
いつもと変わらない城下町を隅々まで楽しむように、織之助と二人で歩き回る。
(できることなら、このまま)
このまま時間が止まってしまえばいいのに。
現実的じゃない考えが頭をよぎった――そのとき。
「あ……」
ぽつり、と鼻先に水滴が落ちた。
それがひとつふたつと次々に地面を湿らせていく。
「雨か」
呟きながら織之助が空を見上げた。
分厚い雲に覆われた灰色の空から、絶え間なく雨が降り注いでくる。
「結構降り出しましたね」
あっというまに雨足が強くなり、せっかくの小袖が濡れて肌に張り付く。
どこか屋根のある場所は、と視線を彷徨わせた鈴の手を織之助が引いた。
「雨宿りするか」
その優しさが心に沁みる。
――もう、十分じゃないか。
こんなに優しくしてもらって、一緒に過ごしてもらって、これ以上望むものなんて。
「……帰りましょう」
足を止めて静かに告げた鈴を織之助が見た。
「……ほかにも見たいものがあるんじゃないのか」
その言葉にゆっくり首を横に振る。
水を含んだ重たい髪がそれに合わせて静かに揺れた。
「もう十分見ました。織之助さまと、いろんな景色を」
今日だけじゃない。この十五年近く、織之助の隣でたくさんのものを見てきた。
楽しいことも辛いことも苦しいことも面白いことも幸せなことも、全部織之助の隣で。
後悔なんてなにもない。
自然と上がった口角をそのままに織之助を見上げる。
「これで水戸へ行っても――」
言葉が口の中で消えた。
冷たくて、柔らかい感触に消された。
「……え」
ざあざあと雨音ばかりが耳に響く。
(いまの、は)
「鈴」
鼻先が触れる距離に、織之助が見えた。
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