幕間四
1.
正成が伏見に呼び出されてから三ヶ月。日ごと夜が長くなってきた九月の初旬。
いよいよ明日、桐城を発ち水戸へと向かうことになっていた。
「鈴」
もうこうしてこの執務室で働くこともないんだなあ、と感慨深く思いながら散らばった書簡などを片付けていた鈴に織之助が声をかけた。
鈴が水戸に行くことが決まってから、事情を知る人は男名で呼ばなくなった。
とはいえ鈴吉から吉を引いただけなので愛称のようなものだと周りは思っているようである。
「はい。どうかされましたか?」
振り返った鈴が織之助を見る。
執務室の入り口で腕を組む織之助はなにやら難しい顔をしていた。
「……帰るか」
「は――えっ、まだ昼前ですが」
頷きかけて止まる。
たしかに急ぎの仕事はないが、昼前に帰れるほど余裕があるわけでもない。
そもそも――仕事が終わるや否や、どこからか新しい仕事を引っ張り出してくる織之助が手隙になるところなんて見たことがない。
驚いて織之助を窺うと、ぐっと眉間に皺が寄せられた。
「……正成様が今日はもう帰れと」
「そうですか……」
なんか前にもこんなことあったな、とつい笑みがこぼれる。
(あれはたしか迷子になっていた信吉さまを助けたとき……)
思い出して緩んでいた口角が引き締まった。
あのとき信吉を助けなければ、信吉に気に入られることもなかったんじゃないか――なんて、いまさら考えても遅い。
それに、きっと何度やり直してもあの怪しい信吉を放っておくことはできないだろう。
「せっかくだし、どこかで何か食べて行くか?」
静かに目を伏せた鈴に、織之助が普段と変わらない口調で訊いた。
提案されてようやくこんなにはやく帰れと言われた訳を察する。
(……正成さまにも気を遣わせてしまったかな)
最後の日くらいゆっくりしろ、ということだろう。
出立は明日の夕刻だが、朝からいろいろと支度があるらしい。のんびりできるのは今日しかない。
そう思うと、店物で食事をすませてしまうのは少しばかりもったいない気がした。
「昨日いただいた野菜が残ってるので使っちゃいたいですし、いつもどおりお屋敷で食べましょう」
「……そうか」
織之助が少し悩むように鈴を見た。
たっぷりの間を取って、それからようやく唇が動く。
「――……鈴」
「は、はい」
改まって呼ばれると緊張する。
ピシッと背筋を伸ばした鈴に、織之助はやはり少し言いにくそうに口を開いた。
「おまえに……」
言いかけた声が止まる。
不自然に切られた言葉の先は織之助の口の中で消えた。
「いや、屋敷に戻るか」
「え……と、はい……?」
結局何が言いたかったのか。
よくわからないまま鈴は小首を傾げて頷いた。
◇ ◇ ◇ ◇
屋敷に戻った鈴は、朝はなかったそれを見て思い切り目を剥いた。
「な、な、な……」
鮮やかな青色の打掛と、空色の小袖。
思わず見惚れてしまうほど綺麗なその着物に思考が止まった。
小袖こそ凝った意匠は施されていないが、逆にそれが素材の良さを際立たせている。
深い海のような青い打掛は見事なまでに花を咲かせ、どこぞの姫君のお召し物を窺わせた。
小姓という身分でこんな上質なもの着れるわけがない――とわずかに動き出した頭が言う。
「なんですかこれ⁉︎」
あまりの衝撃に、背後に立っている織之助を勢いよく振り返った。
「なにって……見たままだろう」
飄々とした表情の織之助がさらりと言ってのけ、ますます混乱する。
(織之助さまに好い人ができた……わけじゃない、と思う)
好い人への贈り物なら、わざわざこんな狭い鈴の部屋に運ぶはずがない。
となると、自分宛か……?
そう自惚れそうになるのを抑えて首を横に振る。
もしかしたら自分がいなくなったあと誰か来る予定で、その人のためのものかもしれない。
「……気に入らなかったか」
「え」
考え込んだ鈴に織之助が珍しく気まずそうな顔で訊いた。
――それって。
「え、あ、あの、これ……私に、ですか」
「ほかになにがある」
震える手で打掛を指差すと、織之助は眉を寄せて首を傾げた。
「だ……だって、こんな綺麗な……」
今まで動きやすい袴と簡素な小袖しか着てこなかったのに、いきなりこんな。
惚れ惚れするような意匠が施された打掛と、色合いの綺麗な小袖に改めて視線を向ける。
何度見ても綺麗なものは綺麗なままだった。
「……今まで大した贅沢もさせてやれなかったからな」
声にならず口を開け閉めする鈴に織之助がぽつりとつぶやく。
それをしっかり耳に入れた鈴は慌てて声を張った。
「そんな! 衣食住をいただいているだけで十分です!」
勢いのよさに織之助が困ったように笑う。
「まあ贅沢させてやりたいなんてのは建前なんだが……」
その先に続いた言葉はうまく聞き取れなかった。
疑問符を浮かべる鈴に、織之助は一度咳払いをしてから改めて鈴を見た。
「鈴。町に行かないか」
唐突の提案にぱちりと鈴がまばたきをひとつ。
「それを着たおまえと歩きたい」
穏やかに笑う織之助に心の奥底がきゅうっと痛んだ。
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