四章

第1話


「……織之助さん」

「うん?」


 夕飯を取りお風呂も入り終えて、ゆっくりしようという時間。

 ソファに座った織之助に呼ばれ、言われるがままその足の間に腰を下ろした――のはいいんだけど。


「あのですね、ちょっと移動したいんですが……」

「うん」


 そう答えつつもお腹に回っている腕は離れないし、ぐりぐりと額を肩口に押し付ける様子は甘えているようにも思える。


(な、なんだこれは……! 本当に織之助さまなのか……⁉︎ かわいいの暴力……!)


 残念な語彙で声には出さず叫びながら高鳴る心臓を必死に抑える。

 想いを伝え合って、鈴が(色んな意味で)へろへろになってから一週間。

 以前よりも家にいる時間の長くなった織之助を嬉しく思いつつも、こうしたスキンシップが増えたことに関してはまだ照れ臭さが勝っている。

 なにより――恋人モードの織之助の甘さに慣れない。慣れるわけがない。

 鈴の恋愛遍歴は高校生で止まっている。そんな未熟な状態で百戦錬磨の織之助に太刀打ちできるはずがないのだ。


(仕事してるときとの差がすごすぎて別人に見えてくる……)

 

「本物……?」

「は?」


 ついこぼれた呟きに織之助が怪訝そうな声を出す。

 へらりと笑ってそれを誤魔化しつつ、鈴はちょっと昔のことを思い出していた。

 ――前世ではもちろんこんな姿を見ることはなかった。

 女の人と歩いているところは目撃したことがあるけれど、べたべたしていたのは女性のほうで、なんなら織之助は無表情だった気がしなくもない。


(……家の中では違うとか)


 もう一度考え直してみる。

 あまり容量の大きくない頭を頑張って働かせ、――あれ? 織之助様が家に女の人を連れてきたことない……?

 

「鈴」

「は……、んぅ」


 一つの結論に至ったところで、織之助が鈴を呼んだ。 

 反射的に振り向くと大きな手に顎が掴まれて、そのままやわらかい感触が唇に触れる。

 少しだけ啄んですぐ離れたキスにじわじわと顔が熱くなった。


「真っ赤」

「だっ……誰のせいですか!」


 からかうように指摘されて目を尖らせると、織之助が喉で笑って再び唇を重ねた。

 さっきよりも長い、感触を確かめるようなキスだった。

 

「ん、ぁ……織之助さ……」


 体勢がキツくて思わずお腹にまわっていた手を掴む。

 鈴の言わんとすることがわかったのか、織之助は一度唇を離してあっという間に鈴を反転させた。

 ソファの上で向かい合う形になり、急に気恥ずかしさが増す。


「あ、あの……」


 眉を下げた鈴の薄く開いた唇に織之助が噛み付いた。

 隙間をこじ開けた舌先が奥に引っ込んでいた鈴の舌を探って動く。

 表面をくすぐるように擦られるとぞくぞくとした甘い痺れが背筋を走った。


「んっ……ふ、ぁ……」


 目の前にあるシャツを握りしめて、強い刺激を堪える。

 口の端から漏れる水音が部屋に響くのがいやらしくて、いたたまれない。


「……は」


 短く息を詰めた織之助がするりと鈴の腰を撫でた。

 直に肌をなぞられて、その手の熱さに声を呑む。


「鈴」


 耳元で低い声が甘く囁く。

 ――あ。


「ん、ぁ、まって……おりのすけさ……!」

「待たない」


 そう言い切った織之助がぺろりと鈴の唇を舐めた。

 たったそれだけのことでも鈴は律儀にびくりと体を震えさせる。

 それが、織之助を煽っているとも知らずに。

 

「――……前世から、どれだけ我慢したと思ってる」


 細められた瞳の奥にぎらぎらとした光が見える。

 顔の輪郭を確かめるように長い指が滑り、鈴の顎を捕まえた。


「頑張ってくれ、鈴」

「え」


 まばたきをする間も無く唇が塞がれて、鈴が耐えきれず瞼を閉じる。


(し、死んじゃう……)


 かわいいなんて撤回だ。

 絶え間なく降ってくるキスを受け止めながら、鈴は一人そんなことを思った。





     ◇ ◇ ◇ ◇






「すーずっ」


 秘書室や社長室のあるフロアの廊下で聞き慣れた声に名前を呼ばれ、鈴はゆっくりと振り返った。


「雪広さん……」

「ありゃ、ばれたんだ」


 ひらひらと手を振っていたのは、雪広――もとい雪である。

 前世のときの名前を出してきた鈴に、雪は残念そうな顔をして小さく肩をすくめた。


「ばれたんだ、じゃないですよ……。なんで隠してたんですか」

「おもしろいから? ていうか同期で敬語ってどうなのー?」


 ぐっと距離を詰めた雪はどこからどう見ても雪で、雪広の面影はうっすらとしかない。


(これで気付けた正成さまと織之助さんはすごいな……)


 華やかな顔立ちを至近距離で見つめながら、鈴はそっと息を吐いた。


「……雪は雪だもんね」

「そうそう。雪広とか雪とかそんな深く考えないで、ね」


 にこりと笑った雪に頷く。


「うん。それで、じゃあ……雪はなんでここに?」

「ちょっと社長に用事があって。ついでに副社長と専務にも挨拶してきたところ」

「ふうん……?」


 織之助が前に「社内を探らせている」と言っていたから、それ関連だろうか。

 それとなく首を縦に振ると、雪がにまーっと笑みを濃くした。


「と、こ、ろ、で」


 そのもったいぶった言い方に嫌な予感がする。

 今世ではまだ一年にも満たない付き合いだが、こういうときの雪は大抵とんでもない提案をしてくるか、とんでもない情報を教えてくるかのどっちかだ。

 自然に身構える体制になった鈴の耳元に、雪がそっと口を寄せた。


「ついに織之助さんと付き合い始めたって聞いたよー」

「え」


 固まった鈴の表情が見える位置まで距離を置いて、雪がちょっとむくれたポーズをとる。


「もーなんで一週間も黙ってたのさ。そういうのは早く教えてよね」

「なっ……なん……」


 ぱくぱくと口を開け閉めしつつも声は出ない。


「なんで知ってるのって? それはもちろん私の情報網……と言いたいところだけど」


 不自然に言葉を切った雪に首を傾げる。


「鈴これから社長室行くの?」

「えっ、ああうん。午後の予定の確認があるから……」


 急に変わった話題に戸惑いながらようやく声が音になった鈴が答える。

 その回答を聞いて、雪はうんうんとなにやら楽しそうに頷いた。


「じゃあ行けばわかると思うよー」


 どういうこと、と聞くより早く雪がくるりと踵を返す。


「私行くね。今度たーっぷり詳しく聞かせて!」

「えっ、ちょ……」


 どこまでも自由な雪の背中を見送りつつ、行き場を無くした感情をため息と共に吐き出した。

 言いたいことだけ言って行ったな……と心の中で思いながら、鈴は社長室へと足を向けるのだった。


 

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