4.
「……今、なんと……?」
伏見城から戻った正成に呼び出された織之助と鈴は、正成の口から飛び出した言葉にそれぞれ目を丸くした。
織之助が噛み砕くようにゆっくり聞きなおし、それに対して正成が静かに繰り返す。
「鈴吉を徳川に差し出す」
正成は表情を変えずまっすぐに織之助を見て、はっきりと言い切った。
その視線を受け止めつつ、けれど言われた内容は受け止めることができない。
「……いったい、なぜ……」
動揺を隠しきれず声が掠れた。
「二年前、鈴吉が襲われたことがあっただろう。その処分について問いただされた」
わざとらしいほど淡々とした口調で語られる事の経緯は耳に入ってくるが、脳が理解することを拒んでいる。
「――……その償いとしてお前の首か、鈴吉の身柄を差し出せと言ってきた」
唇を引き締めた織之助に、正成は一息ついて続けた。
「お前にいなくなられるのは困る」
落ち着いてきたとはいえ、いつなにがあるかわからない世だ。
いまだ徳川と豊臣は睨み合っているし、いつ桐城も戦禍巻き込まれるか。
そもそも正成の右腕として名を走らせている織之助の命と、いち小姓にすぎない鈴吉の身柄。どちらを取るかは火を見るよりも明らかである。
――それはわかる、わかるが。
「だから……鈴吉を犠牲にするのですか」
「他になにがある」
厳しい声で正成が織之助に問う。
正成だって苦渋の決断だったに違いない。
幼い頃から一緒に育ってきた兄弟ともいえる存在だと、本人が言うほどには鈴吉のことを気にかけている。
そんな正成の心境は察せるが――それでもやはり簡単には頷けない。
「ですが鈴吉は……」
「女性だというのは伝えてある」
先回りして答えた正成にぐっと言葉を呑む。
女性だとわかって、なお徳川は鈴を要求したのか。
「鈴吉ではなく、鈴として徳川に行くと……?」
「そうだ」
肯定されて織之助の顔がいっそう強張った。
ぐるぐるとえも言われぬ不快感が腹の底を渦巻く。
「……待遇などは決まっているのですか」
どうにかして鈴を渡さない理由を探したい。
正成がもう散々考えた後だというのは分かっていても、だ。
「五男の信吉殿の側室に、桐野の隠していた姫として行く」
側室、という言葉に一瞬視界が真っ暗になった。
すぐ隣で鈴が息を呑む音が聞こえる。
「以前城に来た際、鈴吉の姿を見て惚れたらしい」
「は?」
思わず相手が正成だということも忘れて素の反応をした。
正成は気にしていない様子だが、表情が硬い。
「信吉殿には世継ぎもいない。……鈴吉が女なら幸いと言っている」
「そんなことを……っ!」
子を成せというのか。鈴に。
かっと頭が熱くなり、つい腰を上げた。
掴みかかる勢いの織之助を止めたのは、誰でもない鈴である。
「織之助さま」
細い指が織之助の袖を引いた。
諌めるような強い瞳に唇を噛む。
鈴は織之助に一度小さく頷いて、それからまっすぐ正成を見た。
「その話、お受けいたします」
静かに、けれど凛とした声が部屋に響く。
決意の強さが窺えるその言葉つきに、正成はゆっくり首を縦に振った。
「……ああ。頼む」
そこで正成の表情が崩れた。
ぐっと眉を寄せて奥歯を噛み、ひどく苦しい顔をしている。
「……っすまない」
頭を下げて吐き出された謝罪に織之助は目を伏せた。
――どうすることもできないのだ。
関ヶ原合戦で勝利した徳川に逆らえるほどの力は正成にはない。
そんなことはこの場にいる誰もがわかっている。わかっているから辛い。
「お願いです、謝らないでください」
慌てて鈴が正成に声をかけた。
「常陸国水戸を治めるお殿様の側室なんて玉の輿じゃないですか」
無理して明るく振る舞っているのが痛いほど伝わり、どうしても頷くことができない。
それは織之助も正成も同じだった。
苦い顔の二人に鈴が困ったように笑う。
「……もー。織之助さまも正成さまも心配しすぎです」
その表情が穏やかで胸が詰まった。
自分なんかよりもずっと覚悟を決めている鈴に、何も言えなくなる。
「信吉さまって前に迷子になってた方でしょう。お優しい人でしたよ」
口をつぐんだままの織之助と正成に向かって、鈴はやはりすべてを受け止めたような微笑みを浮かべた。
「だからそんな暗い顔しないで笑って送り出してください」
「……ああ」
正成はぎこちなく笑顔を返したが織之助は笑えなかった。
三人それぞれに思うところがあり、沈黙が部屋を満たす。
その沈黙を破ったのは正成だった。
「……織之助と話がある。鈴吉……いや、鈴は先に戻るといい」
「……わかりました」
ぺこりと頭を下げて鈴が腰を持ち上げた。
その姿が部屋から無くなり、襖が閉じられたのを見届けてから、正成がそっと息を吐いた。
「織之助」
「……はい」
名前を呼ばれて静かに応える。
「……すまない。俺の力が及ばず、拒否しきれなかった」
「正成様はなにも悪くありません」
どう考えてもこちら落ち度があるようには思えない。
徳川の卑劣なやり口に膝の上で握っていた拳により力が入る。
正成は、そんな織之助を見て「……おまえが」と小さくつぶやいた。
「おまえが……鈴と駆け落ちでもするのなら、それはそれでいいと思っている」
「え……?」
まさかの提案に織之助が目を丸くした。
「徳川だってなにも本気で鈴が欲しいわけではあるまい。……ただ、桐野を従えさせたという事実が欲しいだけだ」
ちょうどよく信吉が鈴を気に入り、それで白羽の矢がたっただけのこと。
鈴と織之助が消えたと言っても激怒はしないだろう。
「ですが……」
言葉を濁した織之助に正成がふんと微かに鼻を鳴らした。
「さっきはおまえがいなくなったら困ると言ったが、士郎だっている。人生なんだかんだでなんとかなるものだ……というのは父の受け売りだが」
「正成様……」
気遣われていることがひしひしと伝わってきて胸が痛くなる。
けれど――
「いえ。私は正成様に生涯お仕えすると決めております」
はっきりと言い切った織之助に正成は苦笑いを浮かべた。
「まあ、おまえは頷かないだろうと思ったが」
「はい。今ここで腹を掻っ捌いて、この首を徳川に差し出していただくことはできますが」
「やめろ」
「……でしたらやはり鈴に行ってもらうしかありません」
それは自分に言い聞かせているような口ぶりだった。
大きく息を吐いたのは正成で、その瞳がまっすぐ織之助を映す。
「いいんだな」
「……はい」
織之助は静かに、けれどしっかりと頷く。
「――わかった」
正成の重々しい声がやけに大きく聞こえた。
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