第5話
そうこうしているうちに就業時間はあっという間に過ぎ、少しの残業をして家路についた。
一足先に仕事を終えた鈴はもう家に着いてしばらく経った頃だろう。
思えばこの二ヶ月、忙しくてあまり家で顔を合わせることがなかった。
休日も、泥のように寝る自分を鈴は気遣ってそのままにしてくれていた――前世では叩き起こされていたが、今世ではどことなく遠慮がちである。
思わず吐き出したため息は白く濁って空に消えた。
家のドアを開けると、パタパタとスリッパを鳴らした鈴が出迎えてくれた。
その姿だけで疲れていた気持ちを回復させるんだから、鈴はすごい。
「おかえりなさい」
「ただいま。……いい匂いがするな」
「今日は帰りが早いって聞いてたので気合入れました!」
そう言って胸を張る鈴が文句なしにかわいくてつい目尻が下がった。
(かわいすぎる……)
だらしなく緩んだ口元を隠すように手で覆いながら、キッチンへ向かう鈴の背中を追いかける。
早く帰ってきたことをこうも喜ばれると、今後仕事を放って帰りたくなりそうだ。
――……本音を言えば、あまり家に帰っていないのは仕事だけが理由じゃないのだが。
情けない心境を思って織之助がこっそり苦く笑った。
もちろん仕事は忙しい。会食も多く、夕飯を鈴と共にできないのは事実である。
ただ、鈴が寝たであろう時間に帰ってくるのは計画的なことがたまにあった。
それもこれも――気が抜けた鈴の殺傷力の高さが所以する。
冬だからといってふわふわのパジャマを着て丸くなって眠る姿でさえ、どうしようもなく愛おしいのだ。動いてしゃべっていたら、たぶん襲う。
連勤明けにお風呂上がりの鈴と遭遇したときは一瞬理性が飛びかけたこともある。
あっけらかんとして「あ、おかえりなさい」なんて言える程度には、鈴にその無防備さの自覚はない。
(本当になにもわかってないんだろうな)
変なところで鋭い癖に。
今だって、高い位置でまとめた髪を揺らして白いうなじを惜しみなく晒している。
以前織之助に噛まれたことなんて忘れたかのように、なんの躊躇いもなく。
それが腹立たしいやらかわいいやら。
もういっそ鈴の言葉を待たず想いを伝えて、無理矢理にでも入籍してしまおうか。
そうすれば懸念のひとつは簡単に消える。自分だけのものにできる。
(……徳川と同じやり方だな)
逆らえない状況を作って頷かせる――そんなことはしたくない。
したくないけれど、鈴を前にするとどうしても今すぐ自分のものにしてしまいたい欲が顔を出す。
「織之助さん?」
そう呼ぶのも随分慣れたらしい鈴が首を傾げながら織之助を窺った。
「ん、いや。着替えてくる」
浮かんだ自分勝手な考えを打ち消すように首を振って、コートとジャケットを脱ぐ。
ネクタイに手をかけたところで鈴が「ちゃんと洗濯物は洗濯カゴに入れてくださいね」と念を押した。
「……小学生か俺は」
「前科ありますから」
思い当たる節があるので閉口する。
鈴が小さく笑ったのを聞きながら、言われないうちに脱いだコートとジャケットをハンガーにかけた。
◇ ◇ ◇ ◇
張り切ったらしい夕飯はたしかに豪華で、織之助の好きなものがたくさん並べられていた。
帰ってきてからこれだけ作ったのか、と感心する。
鈴はなんだかいつもよりテンションが高く、食事中もずっと楽しそうに話していた。
そんな鈴の様子を見つつ食事を進め、あっという間にぺろりと平らげる。
相変わらず鈴は料理が上手い。
思ったことをそのまま伝えると照れたように笑うのがかわいかった。
食器を洗うくらいならできるので後片付けを買って出て、難なく(食洗機任せの部分も大きいが)終えたあと。
ソファでぼうっとしていた鈴の隣に腰を下ろすと、大きな瞳がわずかに揺れて織之助を見た。
「織之助さん」
「うん」
続く言葉は予測できる。
「訊きたいことがあるんだろう」
先手を打てば鈴が小さく驚いたような顔をして、それからきりっと表情を引き締めた。
「はい」
迷いのない返事。伸びた背筋。まっすぐと織之助を見る瞳。
――それに応えない選択肢はなかった。
「前世のことで、徳川様と私の接点を教えいただきたいです」
「……ああ」
まあそうだよな、と大きく息を吐き出す。
一度目を閉じ、改めて鈴を見据えた。
「どこまで覚えてる?」
訊かれて、鈴は少し考える間を取った。
「なにも……。よく考えたら、多分二十歳前後より先の記憶がない……ですね」
返ってきたのは予想通りの答えで、織之助は静かに頷いた。
「十八くらいのことは」
「ええと……なにかありましたっけ」
「城内で三人に乱暴されかけただろう」
「あ……あー、そんなこともあったような……?」
織之助にとっては腸が煮えくり返るくらいの出来事だったが、鈴にはそうでもないらしい。
曖昧に首を縦に振る様子にため息が出かけた。
「……その三人。正秀様から暇を出されたところを徳川に拾われている」
「へ……。物好きですね……?」
たまたま徳川が見つけたのか、三人が徳川に擦り寄ったのかは定かじゃない。
ただ――のちのち桐野家をどうにかしようと思ったときに使える、と思ったのは確かだろう。でなければ、領地を追われた下男を拾うはずがない。
「それから二年。正秀様が亡くなって正成様が城主になったすぐ後――おまえがちょうど二十になった頃だな」
鈴がごくりと唾を飲んだ。
「徳川由縁の家臣をないがしろにしたと、徳川公が正成様を呼び立てた」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます