第4話


 ――一番会わせたくない相手だった。

 織之助が手のひらに爪を食い込ませる。

 鈴はピンと来ていないようだが、信吉はなにか思うところがあったんだろう。見事なまでに鈴を見て固まった。

 無理矢理にでも鈴を部屋から追い出したかったが、なにせ徳川や信吉に前世の記憶があるかどうかはわからない。

 そんな中で下手に動くことはできず、事の成り行きを見守るしかないのがひどく歯痒かった。


 ようやく鈴の姿が応接室から無くなり、一息ついた頃。

 鈴が出て行ってなお、名残惜しそうに視線を扉に向ける信吉を現実に引き戻したのは徳川である。


「土屋さんに見惚れる気持ちはわかるがしっかりしないか」

「あっ、しっ、失礼しました……!」


 慌てて頭を下げた信吉に正成が「いえ」と短く声をかける。その声が硬いのは織之助しか気づいていない。

 正成だって胸中穏やかではないだろう。

 こうならないために鈴を応接室から遠ざけたはずだった。

 古賀に用があったようだが、応接室に来なくてはいけないほど急ぎの仕事は与えていない。

 鈴がこの部屋に来た意味がわからず、ますます心がささくれ立つ。


(信吉だけには会わせたくなかった)


 徳川とはいずれ嫌でも顔を合わせることになると思いパーティーで先手を打ったが、まさかその息子がこんなに早く来るとは。

 ゆっくり、けれど確実に前世をなぞっている。

 それがひたすらに焦燥を生んで身をさいなんだ。

 唯一救いなのは――

 

(今世ではまだ徳川に付け入る隙を与えていないことだ)


 結局はここが一番重要だ。

 いくら要因をひとつひとつ丁寧に取り除いたところで、隙をひとつでも見せればそこからぐっさりやられる。

 ――二度と鈴を徳川の元に行かせてなるものか。


「すみません、あまりにかわいらしい方だったので……」


 照れたように頭を掻く信吉に心の底が冷え込む。

 握っていた拳にいっそう力が入った。

 ただそこに嘘偽りはなさそうで、少なくとも信吉は前世の記憶がないことが窺えた。


「ハハ……。この話はここらへんにして、そろそろ本題に入りましょうか」


 正成が場を取り成し、話題が元のビジネス関係に戻る。

 結局最後まで鈴がこの部屋に来た意味はわからなかった。





     ◇ ◇ ◇ ◇





「織之助」


 徳川を見送ったあと、織之助のことを呼び止めたのは正成である。

 振り返って見たその顔が普段より曇っていた。


「社長……」

「最悪だな」


 吐き捨てつつソファーに腰を下ろし、眉間に手を当てた正成は相応に疲弊しているようだった。

 それもそうだろう。

 相手の出方を窺いながら、こちらの隙を見せないよう一言一句に至るまで神経を尖らせて受け答えをするのは楽な仕事じゃない。


「古賀が作成していた古い資料を今日使うものだと思って持ってきたらしい」

「……なるほど」


 ひとりの秘書室でそれを見つけて慌てる鈴の姿は簡単に想像ができる。

 そこですぐ行動に移せるのは鈴の美点でもあるが――今回ばかりはそれが裏目に出たとか言いようがなかった。


「しっかり見惚れてやがった」


 乱暴に言い捨てたのは部屋に織之助しかいないからだ。

 誰のことかはあえて言わずともわかる。

 信吉が、鈴に、だ。


「……はい。前世の記憶はないようでしたが」

「前世の記憶があろうがなかろうが信吉だけならいくらでも丸め込める」


 ため息混じりの声に織之助は頷いた。


「あとは、徳川がどう出るかですね」

「ああ。……今世は徳川が付け込めるような隙を作ってない」


 確かめるようにゆっくり吐き出した正成に、小さく胸が痛む。


「前世でも、正成様に非はありません」


 決して慰めではない。

 本当にそうなのだ。正成に非など一つもなかった。


「……いや」


 正成が静かに頭を振る。


「あの権力の前に従うしかなかった。そこは間違いなく俺のせいだ」

「正成様……」


 そんなの当たり前だ。あの時代、関ヶ原で勝利を納めたばかりの徳川に逆らえる家なんてどこにもない。

 正成が自分を責める必要は何一つないのだ。

 なのに正成はまるで全部自分のせいだと言うように眉を寄せている。


「……おまえにも辛い思いをさせた」


 その言葉は前世でも散々聞いた。

 ――辛い思いをさせて悪い。鈴を守りきれなくてすまない。

 あのときは言葉を返す余裕がなかったが、今なら応えられる。

 

「いえ。私もあの場で腹を掻っ捌くことができなかったんですから」


 冗談とも本気ともとれる口調で言えば、正成が顔を顰めて織之助を見た。


「……だからって今世でやらなくていいからな?」

「ハハ。さすがに徳川も首をよこせとは言わないでしょう」

「それはそうだが……、おまえは本当にやりそうで怖い」


 それは褒め言葉として受け取っておこう。

 曖昧に笑った織之助に、正成は再び大きく息を吐いた。


「……最悪ついでにもう一つ」

「なんでしょう?」


 首を傾げて尋ねると、苦い顔が織之助を向く。


「士郎が口を滑らせた」

「は?」


 思わず治安の悪い声が出た。

 気にせず正成が言葉を続ける。


「鈴に、徳川とのこと覚えてないのか、というようなことを言ったらしい」

「……あのバカ」

「織之助、今夜質問攻めされるぞ」

 

 幸いというべきか、今日の夜は会食も入っていなければ急いで片付ける仕事もない。

 久しぶりにゆっくり家で過ごすかと考えていた織之助である。

 小さく痛んだ頭は間違いなく士郎のせいだ。


「話してる感じ、徳川のことは覚えていない、自分が死んだ理由もわかっていない……だろう」


 ソファーの背もたれに寄りかかりながら正成が織之助に訊いた。

 その答えとして神妙に頷く。

 ――薄々徳川が自分の死因に繋がっていることを気づいてはいそうだが。

 

「……どこまで話しますか」


 今度は織之助が正成に訊いた。

 前髪をくしゃりとかき上げつつ、瞼を閉じた正成は何か思い出しているようだった。


「鈴は正直だから全部顔に出るんだよな」

「そうですね……」

「わかりやすく警戒してもらうのもアリか……」


 織之助も倣って瞼を閉じ、その姿を想像してみる。

 秘書である以上徳川との接触は避けられない。徳川に会うたび顔をこわばらせ硬くなった鈴。それに対して温和なようで狡猾な徳川が何か言わないわけが――ない。


「いや……」

「ナシだな」


 ほとんど同時に結論が口から出た。


「徳川と背後には気をつけろとだけ言っておけ」

「はい」


 もう何度目かわからないため息と共に正成が織之助に伝え、織之助もそれに重々しく頷いた。


 今後が不安なのと――余計なことをしてくれた士郎に苛立ちを覚えたのは、正成も織之助も同じだった。

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