三章
第1話
「それで社長秘書就任二ヶ月、進捗はどうですかー?」
「ぼちぼちですねえ……」
実際はまだまだ新米なので先輩である古賀たちのサポートがあってぎりぎりやれている、といったところである。
苦い顔で箸を口に運んだ鈴を同期の雪が笑った。
昼休みの食堂は利用者でごった返しており、席はほとんど空いていないような状態だ。
なんとか二人分の席を確保して食べ始めたのが数分前。午後イチで応接室の準備をしなくてはいけない鈴は日替わりランチのハンバーグを必死に詰めこんでいた。
「最近ぜんっぜん食堂で鈴見ないから心配しちゃったよ」
「ほんとびっっくりするくらい忙しくて……」
鈴よりいくらかゆっくりと箸を進める雪が告げたのに対して、ため息がこぼれた。
いまなら織之助が通勤に一時間半もかけていられないと言った意味がわかる。
徒歩圏内の家に居候というのはありがたすぎて泣けてくるほどだった。
「大丈夫? 過労死しないでねー」
「ハハ……でも、私より社長とか副社長のほうが忙しそうだから」
やれ会食だの、やれ会議だのと休む暇なんてほとんどなく動き回っているのはスケジュールを見ただけでも窺える。
実際、一緒に住んでいるはずの織之助の姿はほとんど家にない。
食事は作って置いておいたものを食べているようだけど――、と鈴がコップの水を口に含んだ。
「あ。そういえば鈴、副社長と一緒に住んでるんでしょ?」
「ゴホッ」
思わぬ話題を振られて漫画かと思うくらい見事にむせた。
噴き出さなかったのは良かったと思うべきか。
「えっ……え、いや、え……⁉︎」
目を剥いて雪を見るとなにやら得意げな顔で胸を張っている。
「情報通な雪ちゃんをなめないでくださーい」
「いやもはや情報通で片付けられるレベルじゃないんだけど⁉︎」
――ここまでくると怖い。
だって鈴は織之助と一緒に住み始めたことを職場の誰にも言っていないのだ。
(さすがに親には伝えたけど……)
挨拶をしておきたい、と言った織之助が電話で鈴の母に伝えた経緯がある。
織之助からの電話の後、「結婚⁉︎」と楽しそうに騒いでた父と母の様子を想起して苦笑いしそうになったところで、今の状況を思いだした。
楽しそうな雪がこちらを見ている。
「どうなのどうなの? 橘副社長と同棲」
本当にどこから情報仕入れてるんだ……と怖くなりつつ、誤魔化せないことを悟ってゆっくり口を開いた。
「……同棲というか、居候かな」
余っている一部屋に荷物を置かせてもらってはいる――が。
さっきも言ったとおり織之助は忙しい。休日たまに家にいるけれど、ほとんど寝ているような状態だ。
そんな織之助を小姓のときは叩き起こしてたが、今はとてもそんな気にはならなかった。
だから休日はとんど別々に過ごしている。
(ベッドだけは頑なに一緒のままなんだよね)
それも二ヶ月もすれば慣れるものである。
そもそもベッドに入るのは鈴のほうが早い。朝はいつもやかましい織之助の目覚ましの音に起こされ、ときめきを覚える余裕もなく織之助を起こすのに四苦八苦している。
一緒に寝ている感覚はまったくないと言っても過言じゃないのだ。
律儀に緊張していたのは最初の一週間くらいである。
「そんなこと言って~」
「ほんとだって。なかなか帰ってこないし」
同じ家で暮らすのは前世のときもそうだったが、一緒にいる時間は間違いなく今のほうが少ない。
(一緒に住んでる感がまるでないんだよね……)
正直な話ちょっと寂しいと思ってしまうのは、わがままだろうか。
あんなに引っ越すのを渋っていたくせに勝手だろうか。
「副社長ともなると忙しさも段違いなのかあ」
「そうそう」
納得したように呟いた雪に、半ばやけくそで頷いて残っていたコンソメスープを一気に飲み込んだ――瞬間。
「おっ、鈴」
「ぎゃっ⁉︎」
背後から肩を叩かれて心臓が跳ね上がった。
ぎりぎりスープは喉を通過した後だったので幸い被害はない。
「そんなに驚くなよー、俺が悪いことしたみたいじゃん」
「しろ、専務!」
一向に落ち着く気配のない心臓を押さえながら振り返る。
楽しそうに笑った士郎が鈴と同じ日替わりランチをトレーに乗せて立っていた。
「専務おつかれさまでーす」
「おつかれー」
にこやかに挨拶をした雪に軽い調子で士郎が応え、鈴の隣の椅子を引っ張った。
いつのまにか空いていたらしい。
「俺も一緒していい?」
「もちろんです~」
専務だろうがなんだろうが怯むことのない雪の度胸は尊敬に値する。
普通だったら萎縮してしまっても致し方ないが、そうさせないのは士郎の人格もあるんだろう。
裏表のない笑顔を浮かべる士郎に周りからの視線が集まった。その大半は女性からである。
(……さすが御三家)
以前、雪がそう評していたのを思い出してこっそり感嘆の息を吐く。
普段あまり社員が集まっている場所で三人を見る機会がなかったから知らなかったが、こうして見るとやっぱり相応に人気らしいことが窺えた。
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