3.


 鯉口からようやく手を離した織之助が鈴のそばに片膝をつく。

 さっと見たところ着衣の乱れはない。

 とはいえ――腹立たしいことに変わりはなかった。


「大丈夫か」

「あ、ありがとうございます」

 

 手を差し出すと鈴は一瞬戸惑い、それから観念したようにそこに手を重ねた。

 その指先の冷たさに胸の奥がひりっとする。


「……行くぞ」


 こんなところに、鈴が乱暴されかけた場所に留まりたくない。

 あと一歩でも自分が来るのが遅かったら。手伝いに行くのを少しでも躊躇していたら。

 最悪の想像が頭をよぎり、また腹の底が熱くなる。

 手を掴んだまま歩き始めた織之助に、鈴は何も言わなかった。






     ◇ ◇ ◇ ◇






「……なにもされていないな」


 執務室に着くや否や、織之助が鈴の顔を見ないまま訊いた。


「はい。ちょうど織之助さまが入ってきてくださったので」


 普段と変わらない調子で応える鈴になぜかひどく苛つく。

 鈴に落ち度がないのはよくわかっているが、襲われかけたにも関わらずなぜそんなにあっけらかんとしているのか。

 泣いて縋ってくれたら、抱きしめてやれるのに――と、考えて引っかかる。

 

(いや、抱きしめるのはだめだろう)


 それに鈴にいらつくのは見当違いにも程がある。

 鈴は被害者で責め立てるべきではない。

 ――そう頭では理解しているのに。


「あの三人と何があった」


 思っていたより低い声が喉から出て、掴んだ手から鈴が小さく怯むのを感じ取る。

 

「……何が、と言われると……」


 言葉を濁す鈴にまた胸のあたりがむかむかとした。

 自分でもなぜこんなにいらついているのかわからない。だから、怒りが行き場をなくして腹に溜まっていく。

 思わず握る手に力が入り、鈴が小さく息を呑む音がした。


「……あの三人が前からおまえのことをどうにかしてやろうと言っていたのは知っている」


 なんとか冷静になろうと吐き出した言葉に驚いたように鈴が応える。


「あ、ご存じだったんですか」

「――は?」


 聞き捨てならない台詞だった。

 まるで鈴もそれを知っていたような口ぶりに、織之助がようやく振り返って鈴を見た。

 鈴は眉を下げて困ったように笑っている。


「前々からあの三人怪しいと思っていたんです」


 その口から飛び出したのは信じ難い話だった。

 思い出すように鈴が自分の見解を述べるのを、織之助は怖いくらい静かに聞いた。


「よく私のことを見て三人でこそこそしていましたし……、なのでちょっと鎌をかけてみたんです」

「それで、ああなったと?」


 感情のない冷たい声に鈴は気づかず、へらっと笑って言葉を続ける。


「たぶん織之助さまや正成さまに気にかけていただいてる私のことが気に触ったんじゃ――っ」


 声が止まったのは織之助が勢いよく鈴を壁に押し付けたからだった。

 急に視界が揺れた鈴はぱちぱちと瞬きをして状況を飲み込もうと頭を回転させている。

 まったく見当違いなことを言っているだとか、自分の魅力になんでそんなに鈍感なんだとか。言ってやりたいことはたくさんあるが――そんなこと今はどうでもよかった。


「……三人相手に、無謀だと思わなかったのか」


 咎める厳しい口調にようやく織之助が怒っていることに気づいたのだろう。

 きゅっと小さな唇が引き締められた。


「どう足掻いてもおまえは女なんだ。単純な力の差は簡単に埋められるものじゃない」


 織之助の手が鈴の手首をわからせるように強く掴む。

 男と比べるとどうしても細い手首は簡単に指がまわる。

 両方の手首を壁に縫い付けてまっすぐ鈴の瞳を覗けば、澄んだ色が小さく揺れた。


「……その差を埋めるために、毎日必死に鍛えて――」

「そういう問題じゃない」


 鈴の言葉を遮って織之助がきっぱりと言い切った。

 むっと鈴の眉が寄る。


「今だって簡単に手込めにされているだろう」

「それは、相手が織之助さまだから……信頼してる人だからです!」

「信頼している相手が裏切らないとは限らない」


 信頼している相手になら――正成や士郎にも、この体勢を許すのか。

 湧き上がる昏い感情が胸を覆ってどうしようもない気持ちにさせる。


「振り払えるなら振り払ってみろ」


 試すように告げれば鈴がぎょっとして目を見開いた。

 その大きな瞳が織之助を映して戸惑う。


「織之助さまに乱暴できません……!」

「そんな甘い感情捨てろ。はやく振り払え」

「……っ」


 冷たく言い吐いて掴む手に力を込める。

 小さな抵抗は簡単に押さえつけることができた。

 純粋な力の差を目の当たりにした鈴が悔しそうに、半ばやけくそで語気を荒くした。


「……たとえっ、誰かに乱暴されようと織之助さまに迷惑はかけませんから!」


 その一言にすっと心が冷える。

 華奢な手首が拘束を失って織之助の手から落ちた。


「――決めた」


 短く断言した織之助に鈴が首を傾げる。 


「公言してやる」


 鈴が自分の庇護下からいなくなるというなら、引き戻せばいい。

 浮かんだ仄暗い感情を抑える余裕が今はなかった。


「……なにを……?」


 小さくつぶやいた鈴の声に織之助は答えなかった。

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