第8話


 織之助がシャワーを浴び終えて戻ってきたところで、鈴はさらなる問題に直面した。


「……ベッドがひとつしかない?」


 引き攣った頬で聞き返すと、織之助はなんてことない顔で鈴の背中を押した。

 押された先は寝室である。


「このあいだも一緒に寝たし今更だろう」

「あれは意識なかったので!」


 廊下と寝室の境目で踏ん張りながら鈴は頑として譲らなかった。


「私ソファで寝ます」

「却下」


 織之助も譲る気はさらさらないらしい。

 即座に拒否をされて鈴がぐっと言葉を詰まらせた。以前もあったが、どうしたって鈴は織之助に弱い。

 油断すれば流されそうになるのを堪えながら、鈴が口を挟んだ。


「……というか明日からどうするつもりだったんですか?」


 大きな家具は必要ないからひとまず実家に送る予定だった。

 けれどベッドがないならこっちに持ってこなくてはいけない。


「ベッドひとつで事足りる」

「足りません。なんでそんな頑なに一緒に寝たがるんですか……」


 鈴が眉を寄せて首を傾げた。

 本当に織之助が何を考えているのかわからない。


「いいだろう、別に」

「よくないから言ってるんですけど⁉︎」


 さして気にした様子もなくさらりと言った織之助に目を剥く。

 

(わからない! 織之助さまの考えていることが何もわからない!)


 もしかしてぬいぐるみかなにかだと思われているんだろうか。

 抱き枕の代わりになるかな程度の認識なんだろうか。

 ――それはそれでどうなんだ。

 

(私だって一応おとなの女性ですが⁉︎)


 織之助が自分をそういう対象として見る可能性はゼロだとしても、気遣いはあって然るべきだ。

 いつまでも『織之助さまに拾っていただいた小さな子ども』でいるわけじゃない。

 はっきり言ってやろうじゃないか――鈴が勢いよく振り返って織之助と向かい合う。

 色素の薄い瞳がまっすぐ鈴を刺した。


「俺とは一緒に寝たくないと」

「えっ、ちが、そういうわけじゃ……うん?」


 言ってやろうと意気込んでいたはずなのに先手を取られ、しかもその言葉に思わず否定から入ってしまった。

 もしかして、やばい?

 撤回するよりもはやく、言質を取ったとばかりに織之助が口角を持ち上げ、ついでに鈴を抱き上げた。


「じゃあいいだろう。ほら」

「待ってください! 今のなし!」


(なんか前も同じ手口で丸め込まれたような)


 抱えられてなすすべなくベッドの上に転がされる。

 小さく漏れた悲鳴をものともせず、織之助がゆっくりベッドの上に乗った。軋んだスプリングの音が部屋に響いてなんとなく居た堪れなくなる。


「男に二言は」

「ない……って、いや今私女なんですが……?」

「知ってるよ」


(知ってる人の対応じゃないんだよな……)


 ここまできたら織之助が寝るのを見届けて、それからソファに移動するのが一番効率がいい気がする。

 心の中でそう決めた鈴は、腰からずれたズボンを元の位置に戻しつつ、寝転んだ織之助の顔を覗き込んだ。


「あの、ずっと思ってたんですけど」

「うん?」


 機嫌良さそうに目を細めた織之助が、腕を伸ばして鈴の髪を指に絡ませる。

 その動作も心臓に悪いのでやめてほしい。

 ごまかすように咳払いをして、改めて織之助を見た。


「織之助さま、なんか距離感おかしくなってませんか?」


 一瞬織之助が動きを止めた。

 少し考える間を取って、鈴の顔にかかる髪を緩慢な動作で耳にかける。優しい指の動きに思わず体がぴくりと揺れた。


「嫌?」


 甘えるような声が剥き出しの耳に響く。

 心臓がいっそう大きく跳ねて、頬に熱が集まるのを防げない。


「嫌というか……」


 熱くなった顔を隠すように小さく身を捩りつつ、鈴はそっと息を吐いた。


(心臓がもたない)


 とはとても言えないので。


「何かあったのかなあ、と」


 視線だけ織之助のほうに向けて窺えば、織之助は困ったように眉を下げて微笑んだ。


「……あったと言えばあったし、ないと言えばないな」

「その答え方ずるいですよ」

「ハハ」


 口を尖らせた鈴に軽い笑い声が降る。

 離れていた指が今度は頬をなぞって、それから顎を持ち上げるように動いた。

 強制的に絡んだ目線が熱を生む。


「――触れたいと思うのに理由はいらないだろう」


 まっすぐ刺されて、鈴が息を呑んだ。

 心臓は織之助にも聞こえてしまいそうなほどうるさく鳴り、呼吸もままならない。


「そういうことだ」


 顎先をひと撫でして織之助が指を離す。

 そのまま上体を起こした織之助は掛け布団を引っ張って鈴にかけた。流れでサイドテーブルに置かれたリモコンで照明を落とし、暗闇が鈴と織之助を包む。

 冷たい布団の感触が熱くなった体にちょうどいい。

 ぽんぽんと子どもにするようにお腹のあたりを叩かれながら、鈴は今の織之助の言葉を反芻していた。


(つまり織之助さまは私に触れたいから触れてるってこと?)


 眠気の吹き飛んだ瞳をガッと開く。


(それって結局どういうこと⁉︎)


 訊いてスッキリしようと思ったのに余計わからなくなってしまった。

 鳴り止まない心臓を押さえていると、そう時間をかけずに隣から穏やかな寝息が聞こえてくる。

 ――こうやってすぐ寝ちゃえるのも、織之助さまが私のことをぬいぐるみかなんだと思っている証拠だよなあ……。

 その整った寝顔はどこから見ても崩れることはなく。

 

(……あれかな、いなくなったと思った飼い犬が帰ってきた感覚)


 考えて腑に落ちた。

 きっとそうだ。脱走した飼い犬が戻ってきたことに安心して一緒に寝たくなる感じ。それで、もう二度と脱走させまいと画策するのと同じ。

 伏せられた長いまつ毛が呼吸に合わせて揺れるのを眺める。

 前世ではこの距離で寝顔を見ることができるなんて考えられなかった。

 朝寝ているのを叩き起こすばかりで――


(変なの)


 思わず口元が緩んでしまう。

 夜同じ布団に入ってその寝顔を眺めるなんて、そんな贅沢。

 今だけでもいい。気まぐれでもいい。

 

 同じ布団の中で暖かさを分け合う心地よさに瞼が自然と降りた。

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