3.

 

 倒れ込んだ鈴吉の袴が赤く染まっていくのを見ながら、正成が織之助を睨むように見た。


「病か、怪我か」


 むしろそうであったほうが鈴吉は救われるのでは、と織之助は思った。

 しかし、おそらくそうではない。

 姉を二人持つ織之助には既視感があったし、最近婚姻を結んだ正成もわかっている。女好きで名をあげている士郎も然りである。


「知っていたのか」

「……いえ」


 掠れた声で答える。

 

「存じませんでした」


 ――いや、知ろうとしなかっただけだ。

 思い返せば心当たりはいくらでも浮かぶ。どれだけ鍛えても細いままの手足も、背丈も、ふとしたときの所作も。

 なにより、触れられるのを極端に嫌がっていたのはこういうことかと腑に落ちた。


「次第によってはただでは済まないぞ」

「はっ……」


 正成が絞り出し、織之助もそれに対して重々しく頭を下げた。


「いやいや、それより鈴吉だろーが!」


 ここで声を張ったのが士郎である。

 二人が話している間、一人鈴吉の様子を見ていたのだ。


「そんな事務的な話はあとでなんとかしろって! おい鈴吉、大丈夫か!」

「馬鹿、乱暴に揺らすな!」

「今まで呆然としてたやつが言うな馬鹿!」


 程度の低い応酬に一番年下であるはずの正成が「落ち着け!」と二人を宥めた。


「人は呼べん。士郎、着替えと布、あとは貧血に効く薬を持て」

「ああ! 任せろ!」

「湯は俺が持ってこよう。織之助、鈴吉を見ておけ」

「は……、いえ私が行きます」


 腰を上げようとした織之助を正成は手で制した。

 

「鈴吉が起きたときのことを考えろ」


 言われて口を噤む。

 たしかに鈴吉が目を覚ましたとき、正成と二人きりではいささか鈴吉の心的負担が大きすぎる。

 こんな状況でいまさらかもしれないが、――できる限り大ごとにしたくないというのは織之助だけでなく正成も同じようだった。

 主人を騙して性別を偽っていたなど、本来であれば切腹も同然である。

 

「……鈴吉は俺にとって弟のような存在だ」


 部屋を出る直前正成がぽつりとこぼし、それから静かに襖が閉められた。

 残された織之助はぐっと拳を握り、青白い顔の鈴吉に視線を向けた。

 横向きのままの細い体はなぜかいつもより小さく見えて、それが不安を煽る。


(十年近く、俺は何をやっていたんだ)


 拾った当初からしっかりした子だった。

 だから、弱音ひとつこぼさない鈴吉に甘えて、細かいところまで気を配らなかった。

 いったい鈴吉はこの十年どんな心境でいたのか。

 幼くして両親と死に別れ、拾われた先ではいっさい気を抜くことができず、いつ男装がばれるかと心中穏やかではなかっただろう。

 それでも男装せねば生きていけぬと小さな体で腹を括った鈴吉。そのことを気づけなかった自分に腹が立つ。

 初めに気づいていれば、女として無理なく暮らせたはずだ。――いや、そうさせていた。

 けれど、織之助が小姓になれと言ったから。小姓は男であると教えたから。

 鈴吉はそれを信じてそうあろうと自分を殺した。


(自分の迂闊さと軽率さにはほとほと呆れる)

 

 腹立たしさに唇を噛み締めると、鈴吉がわずかにぴくりと体を揺らした。

 せめて。

 着ていた羽織を鈴吉の体を隠すようにかけてやる。

 すっぽりと収まった鈴吉の小ささに今さらぎょっとした。


(……ちいさいな)


 白い頬に指の背で触れれば、ひんやりとした感触が伝わる。

 閉じられたまぶたを縁取る長いまつ毛も、柔らかい頬も、――まちがいなく男のものではなかった。





     ◇ ◇ ◇ ◇




 鈴吉が目を覚ましたのは、正成と士郎が戻ってきてしばらくしてからだった。

 汚れた袴を脱がせ、湯で濡らした布で体を軽く清めて着替えをし、再び横たえさせた後のことである。

 それらの作業はすべて織之助ひとりが行い、その間士郎と正成は気づかって背を向けていた。

 なるべく視界に入れないよう羽織は体にかけたままだったが、やはりというべきか、鈴吉は女であった。



「気分はどうだ」


 まだはっきりしない頭で辺りを見渡した鈴吉に声をかけたのは正成だった。

 その静かな声に背筋が伸びる。

 鈴吉は慌てて体を起こして勢いよく頭を下げた。


「もうしわけありま、」

「鈴吉」


 謝罪の言葉を遮られ、鈴吉がおそるおそる正成を見た。

 空気が重く張り詰めている。

 視線を受けた正成は鈴吉に向かって再び口を開いた。


「本当の名はなんていうんだ」

「は……?」


 予想外の問いかけに鈴吉の目が丸くなる。

 士郎はそんな二人を落ち着いた様子で見守り、織之助は唇を引き締めた。

 答えない、答えられない鈴吉に正成が言葉を続けた。


「……おまえが倒れた理由はわかるか」

「申し訳ありません、急に眩暈がしてしまい、」

「貧血だろう。……袴に血がついていた」


 やはり最後まで聞かず遮った正成に鈴吉はさっと顔を赤くしたが、すぐさまその赤みが引いて今度は青くなっていく。


「着替えさせたのは織之助だ」


 淡々と事実を述べる正成から視線を下げ、ぎゅうっと自身の着物の衿を握り締めた。

 その小さな肩が震えている。


「正直に言え。……本当の名は」


 鋭い瞳に射抜かれて、もう誤魔化せないことを悟ったらしい。

 鈴吉は下を向いたままか細い声で絞り出した。


「……鈴、と申します」


 鈴。

 口の中で声に出さず反芻する。

 鈴吉よりもしっくりくるその名前に胸の奥が軋んだ。


「鈴か」


 正成が眉間に指を当てる。

 なにか言わねば、と織之助が口を挟むより先に鈴吉――鈴が声を張った。


「このことについて織之助さまに咎はありません! 私が! 私が織之助さまを騙していたのです!」


 それは今まで聞いた鈴吉の声の中で一番大きく、それでいて切実な響きを持っていた。

 思えば鈴吉が感情を大きく露わにするのを見たことがない。

 驚いたのは士郎も同じだったようで、やや虚を突かれた顔で鈴に視線を向けていた。


「おまえの決めることではない」


 正成はそんな鈴をぴしゃりと跳ね除け、厳しい瞳をしている。


「お願いです! 私のことは斬り捨ててくれて構いません! なにとぞ、織之助さまには何も罰せられませんよう……!」

「この馬鹿!」


 縋り付くように額を床につけた鈴に、正成が立ち上がって怒声を浴びせた。


「おまえの失態は主人である織之助に及ぶとなぜわからない!」


 あまりの正論に鈴は言葉に詰まった。

 爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握り込んだのは、鈴か、織之助か、正成か。


「なぜ……! なぜ言わなかった!」


 正成はなお怒気をぶつけ、それを鈴は顔をあげずに甘受していた。


「そんなに頼りないか! 織之助は、士郎は、俺は! 十年だぞ!」


 鈴が織之助に拾われてこの城に来て、もうすぐ十年になる。

 その間ずっと隠し事をされていたことが、心を開いてもらえなかったことが正成の心にささくれを作った。

 ――弟のように思っていたからこそ。


「正成さま、ちがう、ちがうのです」

「なにが違う! おまえが打ち明けたなら俺は力になった!」


 顔を上げて必死に首を振る鈴へ正成はさらに言葉をつなげる。


「織之助だって、士郎だってそうだろう!」


 名指しされても織之助は鈴のほうを見られなかった。

 強く頷いてやりたいのに、鈴がどんな顔で自分を見ているのか確認するのがこの期に及んで怖い。


「おまえが女だからと言って、織之助がおまえを捨てると思ったのか! 俺が、父がおまえを城から追い出すとでも!」

「そんなことは……!」

「正成様!」


 いっこうに怒りの収まらない正成に織之助が声をあげた。

 鈴のほうは決して見ず、努めて冷静に言葉を紡ぐ。


「鈴吉を拾ったときに私が言ったのです。小姓になれと、小姓は男で……」

「知るか! 俺が言いたいのは鈴吉が女だとかそういうことではなく――俺らを侮ったことについてだ!」

「侮ったわけでは……!」


 三者三様に興奮して場が乱れ、声が飛び交ったところでパンっと士郎が手を鳴らした。


「はいはい! 正成も織之助も鈴吉もいったん止まれ、なー」


 熱くなっていた自覚が三人ともある。

 口を閉ざした三人へ士郎は鷹揚に頷いた。


「正成が鈴吉のことを大切に思ってるのはわかった。で、鈴吉が織之助のためを考えて黙っていたのもよーくわかった」


 正成は顔を背け、鈴は下を向いた。

 そんな二人の様子を見て、士郎がからりと笑う。


「全部織之助のせいにしよう」


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